2017年05月13日06:59
駿府城公園内の特設会場でSPAC「アンティゴネ 時を超える送り火」を観た≫
カテゴリー │演劇
5日(祝)18時30分~
舞台上はいくつかの岩島が点在し、
その間は水が張られている。
俳優は、岩島の間を行き来しながら
演技をする。
ともすれば、裾の長い衣装や足元は、
水に濡れる。
演じられるのは紀元前442年ごろにソポクレスにより書かれたギリシア悲劇。
権力者である叔父のクレオン王に逆らい死んだ兄を弔ったことを問われ、
幽閉され、死に至るアンティゴネ。
これは弔いの演劇である。
かつて演劇は神に捧げたことから始まったという。
芸術表現のためなどではない。
楽しみや娯楽を提供するためでもない。
つまり神=真実のために、
自らの犠牲も顧みず、
ましてや誰かのためでもない。
アンティゴネは死者を弔うという行為で示す。
冒頭、まるで現代の日本から、
紀元前のギリシア悲劇の時代に紛れ込んだかのように
袈裟を着た僧侶が、
櫓をこぎ、筏に乗り、
水の上をすべるようにやってくる。
演奏隊によるとどまることのないリズムが奏でられる。
ガムランを基盤にしているのだろうか。
このスタイルはSPACの公演ではおなじみで、
回数を重ねるごとに演奏は一層拍車がかかっている。
そして、チラシで、「盆踊り」と称す、コロスたちによる踊りは
文字通り、弔いの象徴で、
最後には精霊流しまで出てくると
この上演はどう考えても死者に捧げた儀式の様相を呈する。
ここで、ハタと思いつき、調べてみた。
この作品は、アヴィニヨン演劇祭(フランス)のオープニング招待作品として、
上演される。
その日程はいつだろう。
今年の7月6日~12日で6公演行われるということだ。
やっぱり。
お盆の時期である。
演出の宮城聡さんは日本のお盆をフランスの地で行おうとしていた。
タイトルは、アンティゴネ・・・時を超える送り火、ではないか。
日本各地では、
迎え火が炊かれる。
送り火が炊かれる。
盆踊りが踊られる。
そうして祖先の霊は祀られる。
(月遅れの8月も含む)
約1時間半の上演を終え、
会場である駿府城公園を出て、
お堀沿いを歩いていたら、
同じように会場から出てきた若い女性が言っていた。
「わたし、こういう救いようのない話大好きなの」
劇中多くの人が死ぬ。
なぜ私たちは悲劇を観るのか。
死者を弔うために観るわけではない。
どこか陰惨な悲劇を楽しんでいる。
それは事実ではないから楽しめる。
物語として置き換えれるから楽しめる。
賑やかな夏祭りのように、
楽しむことにより、
死者と生者の枠を乗り越えて、
おのずと、弔いの儀式となり、
神(仏)に捧げられているのである。
舞台上はいくつかの岩島が点在し、
その間は水が張られている。
俳優は、岩島の間を行き来しながら
演技をする。
ともすれば、裾の長い衣装や足元は、
水に濡れる。
演じられるのは紀元前442年ごろにソポクレスにより書かれたギリシア悲劇。
権力者である叔父のクレオン王に逆らい死んだ兄を弔ったことを問われ、
幽閉され、死に至るアンティゴネ。
これは弔いの演劇である。
かつて演劇は神に捧げたことから始まったという。
芸術表現のためなどではない。
楽しみや娯楽を提供するためでもない。
つまり神=真実のために、
自らの犠牲も顧みず、
ましてや誰かのためでもない。
アンティゴネは死者を弔うという行為で示す。
冒頭、まるで現代の日本から、
紀元前のギリシア悲劇の時代に紛れ込んだかのように
袈裟を着た僧侶が、
櫓をこぎ、筏に乗り、
水の上をすべるようにやってくる。
演奏隊によるとどまることのないリズムが奏でられる。
ガムランを基盤にしているのだろうか。
このスタイルはSPACの公演ではおなじみで、
回数を重ねるごとに演奏は一層拍車がかかっている。
そして、チラシで、「盆踊り」と称す、コロスたちによる踊りは
文字通り、弔いの象徴で、
最後には精霊流しまで出てくると
この上演はどう考えても死者に捧げた儀式の様相を呈する。
ここで、ハタと思いつき、調べてみた。
この作品は、アヴィニヨン演劇祭(フランス)のオープニング招待作品として、
上演される。
その日程はいつだろう。
今年の7月6日~12日で6公演行われるということだ。
やっぱり。
お盆の時期である。
演出の宮城聡さんは日本のお盆をフランスの地で行おうとしていた。
タイトルは、アンティゴネ・・・時を超える送り火、ではないか。
日本各地では、
迎え火が炊かれる。
送り火が炊かれる。
盆踊りが踊られる。
そうして祖先の霊は祀られる。
(月遅れの8月も含む)
約1時間半の上演を終え、
会場である駿府城公園を出て、
お堀沿いを歩いていたら、
同じように会場から出てきた若い女性が言っていた。
「わたし、こういう救いようのない話大好きなの」
劇中多くの人が死ぬ。
なぜ私たちは悲劇を観るのか。
死者を弔うために観るわけではない。
どこか陰惨な悲劇を楽しんでいる。
それは事実ではないから楽しめる。
物語として置き換えれるから楽しめる。
賑やかな夏祭りのように、
楽しむことにより、
死者と生者の枠を乗り越えて、
おのずと、弔いの儀式となり、
神(仏)に捧げられているのである。