昭和文化小劇場で劇団あおきりみかん「秘密公表機関」を観た

カテゴリー │演劇

2月25日(日)15時~

今回は1本の作品の中にオムニバス形式を組み込んだつくり方だった。
このような形にした理由はなぜなのだろうか。

昭和文化会館で劇団あおきりみかんを観るのは昨年1月の「ルート67」に続き2度目だが、
会場に触発されて、作品に反映させている気がした。

舞台にはそれぞれサイズがある。
舞台間口。
高さ。
奥行き。

基本、この、客席から見える範囲で芝居は行われる。
客席を使ったり、袖の見えないところを使う場合もあるし、
むき出しの裸舞台の劇場もある(円形劇場とか)。
だが、多くは、プロセニアム形式の額縁舞台の中で演じられる。

その与えられた舞台空間を
劇団あおきりみかんは、使いきることに力を注ぐ。
脚本もそこから逆算されて書かれる。
舞台空間を活かしきれる脚本は何か。

舞台には2脚の椅子が向かい合わせに置かれ、
相談者と相談される者との2人の会話が交わされる。
とうぜん、相談者は相談し、
相談される者は相談者の話を聞き、対応する。

それが5組。
それぞれ相談ごとが存在する。
1対×5組が、演劇全体を構成する。
5組それぞれに扱いの大小はない。

観ている僕は予測する。
このミニマムなところからきっと広がっていく。
対話する2人のまわりには広大な空間が余っている。
そこをきっと活かしてくるに違いない。
広げる手は多岐に渡ることだろう。
これを待つ時間は
ワクワク感を内包している。

そのように予測するのは、
僕の楽しみでもある。
制作者側はきっと計算しているはずなのだ。
演劇を観ていて、建築物を見ているような気になる時がある。
建築物にもいろいろあり、
これは単なるニュアンスの域を出ないのであるが、
どの演劇を観ても感じるということではない。
劇団あおきりみかんは、感じることが多いかもしれない。

建築物というのは、
建物だけで成り立っているのではない。
鑑賞するためにつくるのではなく、
人が使うためにつくる。
人の営みが生き生きと想像できると、
建築物も本来の意味を果たすことができる。
例えば金閣寺や大阪城も
今では観光で、建物のみ鑑賞されるが、
建築時の意味合いとは異なる。
金閣寺は将軍足利義満の栄華の象徴として、
大阪城は豊臣秀吉の天下統一の拠点として作られた。

建築物にも似た演劇は
とうぜん人が作る。
人が柱、とは言わないが、
役者は全体を構成するもののひとつである。

冬季オリンピックが終わったが、
オリンピックも大きな建築物とみなすこともできる。
選手たちはオリンピックを構成するもののひとつで、
そこには観客やテレビの視聴者やボランティアや関係者もいる。
参加国の首脳たちも含まれる。

ただし、選手たちが、
雪の上を滑ったり飛んだり、
氷の上を踊ったり掃いたりしなければ
オリンピックと言う建築物は成り立たない。

建築物が主なのではない。
かといって人が主なのかというと違うとも思う。
どちらも主となった時に、
きっと美しい調和を見せるのだろう。

建築物を構成する柱は
宇宙まで伸びる。
時空も飛び越えて突き出す。
限られた昭和文化小劇場の舞台空間の中で。

最終的に作られた建築物は、
僕はもっと堅固なあちら側の建築物を予測したが、
ちょいこちら側の親しんだ建築物だった気がした。

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