静岡芸術劇場で「民衆の敵」を観た

カテゴリー │演劇

4月30日(月・祝)14時30分~

「民衆の敵」はノルウェイの劇作家ヘンリック・イプセン作である。
イプセンでよく知られる作品は「人形の家」で、
近代演劇の創始者とも、近代演劇の父とも呼ばれる。
「民衆の敵」は、1882年に書かれた作品。
2018年の現在から数えて、実に136年前である。

僕は、今回の上演の案内を見たとき、
「ああ、イプセンの作品か」と認識したはずだが、
それはしばらく前のことだったためか、
今日、観る前はもとより、観ている最中もそのことをすっかり忘れていた。

観劇後、当日プログラムを見るまでは
完全オリジナル作品だと思い込んでいた。
ギリシア悲劇を観ていて、現代の話だと思うことはそうない。
シェイクスピアもそうである。
チェーホフもそうかもしれない。
どこか前時代的な世界の話に思う。

NHKの大河ドラマを観て、
現代的な視点は感じても
現代のこととは思わない。
現代の俳優が演じているが
物故者である歴史上の人物が登場し、
着物を着用し、
刀を腰にさし、
ちょんまげをつけている。

ところが、この日観た「民衆の敵」は
まるで、今書かれた作品のようだった。
演出のせいだけではない。
戯曲が潤色されているにしても
イプセンが書いた戯曲自体が
“今”とあまりにも切り結ばれているのだ。

例えば、同じイプセン作の「人形の家」が日本人の俳優により
演じられると、
ずいぶん前に書かれた作品だなあという思いを抱くことは禁じ得ない。
それは邦訳された戯曲の文体にもよる。
シェイクスピアの美辞麗句は詩的であるが、
一方、前近代的でもある。

ところが、今回はドイツのカンパニーであるから
演じるのはドイツ人たち。
発せられる言葉はドイツ語。
一言も聞き分けれない僕は
セリフのたびに電光掲示で表示される
邦訳に頼ることになる。

それは一方、端的で、
伝えたい言葉のエッセンスが
ストレートに伝わる。
理解をおしきせでなく、
自分で組み立てることができる。

外国語映画を日本語字幕を通し
楽しむようなものだ。
外国語映画で
字幕を読むことに慣れていることが
演劇を鑑賞するのに役立っていると思う。

俳優の演技を観ながらも、
視線をずらし、字幕を観ながら
演劇を楽しむ。
ふたつの動作を交互に行い面倒だが
僕たちはそこそこ慣れている。
映画館でスピルバーグも何本か観たし、
もちろんその外の映画も。
中には、論理的な説明的なセリフが長々と字幕に映し出され、
「本を読んでるんかい」
と関西弁で突っ込みたくなる場合もあるが。

日本人である僕が英語で歌われたロック音楽を聴くように
ドイツ人も英語のロック音楽を聴く。
音楽の生演奏で始まる冒頭の曲は知っている曲だったが、
タイトルを思い出せない。
設定は主人公の家で、
バンドの練習をしている。
同様に
デビッド・ボウイの「チェンジズ」も演奏及び歌われる。

それはあくまで演劇的効果のためで、
本筋とは関係はない。
もちろん、イプセンの戯曲にもそんな指定はないだろう。
本筋は、真実を貫こうとした主人公が
真実を貫くことができなくなった過程。

今現在見聞きする事象と重なるのが
今の作品であると錯覚したひとつの理由。
ドイツでも見聞きし、
僕が住む日本でも見聞きする。

クライマックスで
多くの障害にも負けず
真実を貫こうとする主人公が開く
集会の場面がある。
そこで、随分と長いセリフを重ねる。

まだ続く言葉を遮られ、
突然客席のあかりがつく。
観客参加の常套的な合図だが、
体裁程度の客いじりではなく
がっつり観客との討議がなされる。

観客参加は挙手制でもあるので、
僕などは、ここで誰も手を上げない事態を想定してしまうが、
さすが、意識の高い観客が揃っているのか
論客の方々が次々と挙手され、
淀みなく意見を披露する。

こちらは日本語、
相手はドイツ語。
その齟齬を埋めるために
準備されていた通訳おふたりも交え、
観客参加の集会の場面が展開される。

話の組み立ては
やはり感心した。
イプセンに感心した、というのも
かなり失礼だろうが
裏の裏までよく考えられている。

通俗に落ちる結末も
十分納得した。
これは落語のオチにも通じる。
しかし、もやもやは後々まで残る。
やはり何が正しいかなど、
結局のところよくわからないのだ。

でもわからないというのはどちらかというと
気持ち悪いので都合上わかったふりをしたりする。
まわりの環境もあるし、
自分の気分や事情もある。

しかしながら、都合上わかったふりをしているのは
本当はわかったということではないので、
本当のことは何なのか、
解決方法はないのか、
追求し、さぐりたい気持ちは残る。

この後回しが、
イプセンが、シェイクスピア以来の劇作家で
今に至るまで
世界中でもっとも演じられていると言われる理由なのだろう。
問題は過去のものではない。
常に、今なのである。

「変わる」ということを歌っている
デビッド・ボウイの「チェンジズ」の歌詞も
邦訳されて映し出されるが、
こんなこと書かれていたかなあ。

“時間は僕を変えていくけど、
僕は時間をさかのぼれない。”

演出は、
ドイツの劇場ベルリン・シャウビューネの芸術監督、
トーマス・オスターマイアーさん。
3回目のカーテンコールで、俳優たちに引っ張り出されたが、
真っ先に引っ込んでいったのはおかしかった。
4回目の再び俳優たちのみのカーテンコールで、
終演した。

静岡芸術劇場で「民衆の敵」を観た



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