みをつくし文化センターホールでみをつくし劇団「井伊谷赤鬼伝」を観た

カテゴリー │演劇

23日(日)13時~
みをつくし文化センターという浜松市北区細江町にあるホールで
みをつくし劇団という劇団の第3回公演。

毎回、地元である遠州井伊谷の歴史を題材に、物語化して上演している。
第1回公演は姫様道中がモチーフとなっていたようだ。
背景となる時代は江戸時代である。
甲冑他衣装が必要となる。
それらの準備は十分なようだ。

役者は子どもから若者、大人までさまざま。
井伊家の謀略を描く内容故、武将など男性役が多いが、
多くの劇団に当てはまるように、
役者希望者はなぜか女性が多い。
本場は(本場って何だ?)むしろ男性が多いような気もするが。
ということで、主役の赤鬼役ほかいくつかの男性役を女性が演じる。

役作りや芝居作りに準備期間をしっかりとったことがうかがえる。
地元に密着し活動する強みを感じる。
満席の客席を見ても明らかである。
僕が観たのは昼公演だが、当日夜にも公演された。








 

静岡芸術劇場でSPAC「真夏の夜の夢」を観た

カテゴリー │演劇

9日(日)舞台芸術公園のBOXシアターで行われた「赤鬼」の後、
16時からグランシップの静岡芸術劇場で行われる「真夏の夜の夢」を観た。

野田秀樹がかつて、シェイクスピアの戯曲を原作に書き起こし、
上演された「野田版 真夏の夜の夢」を宮城聰が演出。

宮城さんが演出し、野外劇場で上演された唐十郎が書いた「ふたりの女~唐版・葵上」を観たが、
その時のキャッチコピーに
「能×アングラ×宮城聰」とある。

今回は
「シェイクスピア×野田秀樹×宮城聰」だろうか。

掛け合わせることにより、新たなものが生まれる作戦と見る。

といわずとも、
存在自体掛け合わせだ。
思考も掛け合わせだ。
行動も掛け合わせだ。

劇中、打楽器の音が寸断なく入る。
新聞紙を固めて作ったという衣装は印象的だ。
設定では「富士の麓」という舞台美術、
木々を意味する昇り棒が何本も立ち並び、
精霊たちがたたずみ、
人々が昇り降りし、
舞台の縦横四面を有効に使う。

野田の芝居自体、シェイクスピアの原作にはないメフィストなどが登場し、
ずいぶん書き換えられている。

×が多いと、それだけ、観る側も鍛えられる。
単純に考えても情報が多くなるからだ。

僕がかつていた劇団での上演作品は
例えば
北村想作の「想稿 銀河鉄道の夜」
寺山修司作の「星の王子様」

前者は
「宮澤賢治×北村想×劇団」
後者は
「サン・テグジュべり×寺山修司×劇団」
と、掛け合わせでは宮城さんの演出作品と同じ構造だろう。

それだけ、やる側も学ぶことが増える。
観客に届けるには
やる側の理解・解釈も重要になる。

わかってやっているのか、
どんな思いでやっているのか。

「想稿 銀河鉄道の夜」は、
宮澤賢治の銀河鉄道の夜にひたすら敬意を表して、書いている。
当時アニメ映画化された「銀河鉄道の夜」を観て、
自分ならこう書くと、戯曲化した作品と触れている。
そして、
「星の王子様」は
王子の純粋な心に対しての反語として書いている。
童話星の王子様の読者たちに「ゲッ」と言わせようと書いている。
もちろん敬意があっての反語であるが。
表があれば裏もあることをあえて書くのだ。

宮城さんの場合はどうであっただろうか。
宮城さんは公言しているように
唐さんも野田さんもファンであった。
野田さんは同じ高校の先輩後輩で、高校の教室で行われた
野田演じる作品を見た様子を書いている。
だが、それだけにすぐには彼らの戯曲を演出するには時間が必要だったようだ。
唐さんも野田さんも現役である。
いろいろな意味で「近い」のである。

対して、
北村さんにとっての宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、
寺山さんにとってのサン・テグジュべりの「星の王子様」は
ほどよい距離がある。
そんな「遠さ」がちょうどよく対象化されることにもなるのだ。
何をやっても許される。
本人たち、亡くなってるし。

宮城さんは大変なことはあったと思う。
本人たち、生きてるし。
実際「唐版 葵上」は僕が観に行った時、唐さん当人も観劇に来ていた。
紹介されてたし。
僕らは唐さんがどう観ているのかも観る。

野田さんの作品「THE BEE」は上演ツアーの中に静岡芸術劇場での
上演も含まれていた。
関係は続いている。

そんな現役の表現者同士の微妙な関係。
その結果は
敬意を色濃く表しながらも、
自らの表現手段をふんだんに発揮する。

そんな公演だったと思う。
「真夏の夜の夢」は。




 

BOXシアターで劇団MUSES「赤鬼」を観た

カテゴリー │演劇

9日(日)13時30分~
舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」
SPACが募集して誕生した県民劇団である劇団MUSES(ミューズ)の公演。
普段は浜松を中心に活動するM-planetの代表である近江木の実氏が名乗りを上げて、
上演企画のプレゼン。
それに参加を希望した出演者・スタッフらとともに、上演が実現した。

上演されたのは野田秀樹作の「赤鬼」。
近江氏は自身作のオリジナル作も多数上演しているが、
もうひとつの柱といえようか、
野田秀樹作の戯曲を題材にいくつか上演している。
僕が観たのも、記憶の中では
「キル」
「赤鬼」
「半神」
あ、
他劇団から演出として呼ばれた
「農業少女」

今回特に僕が感じたのは
積み重ねの確かさだ。
野田作をいくつか手がけ、
時を経て、
新たな役者やスタッフを得て、
観客である僕に
「赤鬼」の輪郭が
より明確に見えた気がした。

日本平の中腹にある舞台芸術公演は自然の中にある。
そんな会場の落ち着きが
よりそんな気分をおしあげてくれたかもしれない。








 

静岡県西部演劇連絡会例会があった

カテゴリー │演劇

2月2日(日)19時~
青少年の家で
静岡県西部演劇連絡会の例会があった。

2月、4月、6月、8月、10月、12月の
年6回隔月の第1日曜日19時から行われている。

はままつ演劇・人形劇フェスティバル2013の反省と
2014のこと。




 

シャバダハイウェイ:マイナス1の巻

カテゴリー │シャバダハイウェイ

ひとつの試みとして、
戯曲を書く過程をブログに投稿してみたいと思います。

通常は書きたいと思っても、
頭の中、ノートのメモ書きの頃は、
意図せずとも水面下で進み、
下手すると時だけが立ち、
晴れて、戯曲となり、
運よく上演されることになり、
そこではじめて、少なくともキャストのみなさんには読まれ、
稽古を経て、上演されて、
お客さんに披露される。

といっても、
観客はそうとう限られ、
多くは1回こっきりの公演で、

しかも、1回寝ずに見たからといって、
どれだけ頭に入ってくれたかはあやしく、
時とともにはらはらと記憶からぬけおち、

何年かたつと
「え?それ観たっけ?」
となったりもする。

観る前は情報伝えない方が、
観る楽しみがなんて、ネタばれ注意なんて
気を使う人がいるが、
これもあやしいもので
全国上映の映画なんかはPR版ですでにほとんどを語っていたりもする。
最大の見せ場の映像も事前に流れていたりする。

それでも楽しんで観るのである。
だから情報は事前に流すだけ流しても大丈夫なのである。

というわけでもないのだが、
やってみたくなったので、やってみる。

あまり気にしていないと思っていても、
ブログが滞ると、何か書かなきゃとちょっと思ったりする。

スーパー銭湯の話をしようか
食べたラーメン屋の話をしようか

書けば、いろいろ書けると思う。
でも、なぜか、書かないと、どこか縛りを設けている。
たぶん書きだすとキリがないからなのだ。

だから、仕事以外、比較的普段考えている
創作について書くのなら、
何となく自分の気持ちとも利害一致というか、

自分と商談成立。

タイトルは「シャバダハイウェイ」
市内配達限定の運送屋の話です。


試行錯誤しながらの次回に続く。


 

路上演劇祭2014実行委員会

カテゴリー │路上演劇祭

2月1日(土)18時~20時
青少年の家にて実行委員会。

路上演劇祭JAPAN in 浜松2014は

5月25日(日)12時~
浜松街中の
ZAZAイベント広場付近で行われます。

ただ今、実行委員、出演者を募集しています!!

出演者募集の締め切りは3月15日ですが、
出演者数に限りがあるので、お早めにコンタクトしてください。

僕のブログへのコメント、メールでもOKです。


   企画委員 寺田景一



 

ファイナルイベントにて、はままつ演劇・人形劇フェスティバル2013終了

カテゴリー │演劇

26日の16時から、浜松科学館ホールで
はままつ演劇・人形劇フェスティバル2013のファイナルイベントがあった。

僕は高校演劇選抜公演各賞発表のプレゼンテーターをさせてもらった。

18時すぎの終了後、片付け、20時ころまで講座室にての懇親会。

希望者で、場所を移して、懇親会第2部。

場所はいつもの有楽街の居酒屋。

懇親会はたいてい、たまたまいる場所のそばの人や、旧知の人とのみ
しゃべって、終了になる場合が多い。

締めとなって、出口あたりでごちゃごちゃにまぎれていっしょになり、
「あまりしゃべれなかったね。またよろしく」
と別れる。

“また”、というのは、“ない”ものなのだ。

だから僕は懇親会が苦手である。

みんなでしゃべりたいという欲望にかられる。

でも、それを強く思うのは、会が終わって、帰る途中である。

ただし、思う。

“また”は“ない”と書いたが、
次年度ももフェスが続き、
僕も何らかの形で関わり、
ファイナルイベント、懇親会があるとしたら、
“また”は“ある”ことになる。

としても、また帰り道は
「あまりしゃべれなかったね。またよろしく」
となるのかもしれない。