万年橋パークビル8Fで絡繰機械’S「瓦礫のヤマアラシ」を観た

カテゴリー │演劇

18日(土)19時~ 万年橋パークビル8F

豊川で芝居を見終え、車で浜松へ。
カーナビで「浜松駅」を入力し、
案内に従い進んでいると、
浜松方面を指し示す交通案内。
一度はナビの案内に引っ張られ、案内する道を越えたが、
浜松方面に続くと思われるその道に戻る。

戻ったのは正解で、
国道23号と記された道は気持ちいいくらい浜松方面に向かっていく。
おかげで、予想より早く
この日2本目の観劇の会場である
万年橋パークビルがある浜松駅周辺に到着する。

第20回公演である今作は「団員募集公演」と銘打っている。
そのためだろうか。
この劇団らしい演出が品評会の様に並べられていた気がした。
ダンス的な要素。
モノローグの要素。
お笑いの要素。
即興の要素。
殺陣の要素。
1時間ほどの上演時間であるが、
5人の役者がほぼ均等に出番を与えられ、
1本の芝居を創り上げる。
そんな劇団のスタイルがシンプルに現われていた。

これは実はなかなか過酷なものである。
役者にとって、「これ出来ない」という言い訳がきかない。
ひとつひとつ役割をこなさなければならない。
そのような積み重ねが有機的に働き、
一体となって物語世界を形作る。
「決めるとこは決める。」
当たり前のように思うが
なかなかこれを放棄しているところも多い。

冒頭、出てきた4人が、
不必要な急ぎ足で、歩き回る。
これは、あえてやっているということはわかるが、
ひとつのリズムを生み出し、
全体のスタイルを決める場面だ。
そこで、その場がどんな場所であるかも
伝えることが出来る気がした。

ところが、思ったより早く、歩き回るのは終わり、
お笑い要素のネタの場面に入る。
少しもったいない気がした。
もっとステップを踏むのを見ていたい気がした。
そうなのだ。
これはステップである。
ステップか。
ステップだとしたらなかなか難しいな。
ダンスとして昇華されるのを期待してしまう。

そのように注意深く場が作り出されると、
「瓦礫に囲まれた廃墟と化す都市」の様相が
もっと浮かび上がるかもしれない。

そして、満を持して、お笑いの場面に入り、
観客は安心して次の展開を待つことができる。




 

ハートフルホールで木ノ下歌舞伎「義経千本桜―渡海屋・大物浦―」を観た

カテゴリー │演劇

18日(土)14時~ 愛知県豊川市のハートフルホール。

「義経千本桜」は江戸時代に源平合戦後の時代を描いた人形浄瑠璃や歌舞伎の演目である。
そのような歌舞伎の現代的にアレンジし上演している木ノ下歌舞伎。
今年が結成10年目だそうだ。
終演後、別室でアフタートークが行われたが、
主宰の木ノ下裕一さんは年齢は30歳だそうだ。
20歳でこのような劇団を立ち上げたのに驚いた。
少年時代上方落語に衝撃を受け、
その後、古典芸能にも傾倒し、今に至るようである。

特長は作品ごとに演出家を招聘することである。
今回は東京デスロックの多田淳之介さん。
袋井市の月見の里学遊館で「再/生」という作品を観たことがある。
サザンオールスターズの「TSUNAMI」が冒頭に大音量で流れ、
その後は役者たちが踊ったり、倒れたりがひたすら繰り返される。
これは今生きる私たちを表現しているとしたら相当きつい状況だろう。
でも、これらの行為に共感するとしたら、そんなに状況は違わないのだろう。

今作品の原作は「義経千本桜」である。
戦乱の世である。
アフタートークで木ノ下さんが言っていた印象に残る言葉。
「どちらかが加害者でどちらかが被害者なのではない。どちらも被害者である」
亡霊でありながら別の姿で義経に復讐を企て現れる平知盛も返り討ちに合わせる源義経も。
ここでも「TSUNAMI」が流れる。
近現代の戦争を思わせる爆撃の音が流れる。
そう言えば、「戦場のメリークリスマス」も流れた。
ついでに言えば初音ミクの「千本桜」も流れた。
使用される音楽の数々は説明的ともいえる。
それは、生き死にが繰り返される戦乱の世の歴史絵巻を2時間と言う短時間で表現するために
明快さをもたらす。

原作通りに知盛が海に身を投げ、幕は閉じると思ったところで、
義経の心情を慮った演出が施される。
演者たちがまるで盆踊りの様に踊り、義経の周りを回る。
ともに被害者である自分たちを追悼するかのように。