中野町 まっし蔵で「お蔵 de ひとり芝居」を観た

カテゴリー │演劇

27日(日)14時30分~

まっし蔵とは、浜松市東区中野町で、まちおこしプロジェクトとして、
明治時代に作られたという伊豆石の蔵を活用し、
文化イベント等を催している。
今回の公演の主催者はその主体となる
中野町を考える会、という団体。

お蔵の中には、昔の中野町の風景と現在の中野町の風景を比較する写真などが掲示されている。

「お芝居デリバリーまりまり」の萩原ほたかさんのひとり芝居と
静岡文化芸術大学の学生である、「出張!お芝居ぷちまり」の3名も参加し、
鶴屋南北が中野町を舞台に書いたという「浜の松 沖津白波」という作品を上演。
脚本・演出は仲田恭子さん。

先ずはひとり芝居で始まる。
昔話の「ひょうたん山の河童」と安部公房作「良識派」。
舞台セットも音楽も使わず衣装もシンプルな黒。

「良識派」は、
人間と鶏になぞらえ、権力者と非権力者の関係を
風刺的に描いた(たぶん)とても短い話。
観客は、鶏のお面を配られ、頭にかぶり、芝居に参加する。

とはいえ、ただ被っているだけだ。
なかなか巧妙に、芝居の持つ風刺性に巻き込まれる。
もの言わぬ観客(鶏)という集団として、みんなで鶏小屋に入っていく。

続いて、大学生たちと一緒に、
「浜の松 沖津白波」。
萩原ほたかさんが中野町の人たちと打ち合わせの際、
鶴屋南北が書いた本があることを知り、
上演に至った。

なんでも、萩原さんが1週間(10日だったか?)前から浜松に来て、
大学生たちと稽古を積んだということだ。
「出張!お芝居ぷちまり」は2013年4月に結成され、
「出張芝居」のほか、中学生と「お芝居ワークショップ」も行っているそうである。

そして、ラストは再び萩原さんのひとり芝居で
昔話の「花咲か爺さん」。
観客には桜の花らしき紙吹雪を渡される。
「枯れ木に花を咲かせましょう」で
みんなで撒き、終了後散らかった花びらを
みんなで片付ける。

最後、観客を含め、記念写真で終了。

この日は10時30分からの公演もあり、その時は雨が降っていなかったと思うが、
僕が見た14時30分からの回は雨が降り出していた。
蔵の様子をもう少しじっくり見たかったが、
公演が終わると、小雨の中、車まで急ぎ、
そのまま、会場を後にした。

帰り際、路上演劇祭2009、2010に参加されて縁がある萩原さんに
「どれが面白かった?」という問いかけに
考える間がない気がしたので、
「どれも面白かったです」と即答した。
むしろ真実味がないようで、
もうちょっと気が利いた答えができないものかと思いながら、
車を走らせ帰ったが、考えてみても、
それぞれ趣向が異なり、どれかひとつを選べなかった気がする。





 

浜松市勤労会館Uホールで「はままつ演劇オムニバス」を観た その4

カテゴリー │演劇

20日(日) はままつ演劇オムニバス。
4本目はKinomi Produce 「夢十夜」より 第一夜、第七夜、第三夜

夏目漱石没後100年に寄せて、とある。
夏目漱石の小説「夢十夜」は10篇の不思議な夢の世界を描いた作品。
すべて「こんな夢を見た」という書き出しから始まる。
その内、3編を朗読。

朗読者は見野文昭さん。
劇作や演出時に使用する近江木の実の名で、ご本人が構成・演出をしている。
出演者がもう一人いて、熊谷文都さん。
冒頭や、朗読の合い間に登場し、
朗読者と短いやりとりをする。

第一夜、第七夜、第三夜と続くが、
順番に沿って進まない理由がわかった。

最後に読まれた第三夜は、こう始まる。

こんな夢を見た。
六つになる子供を背負ってる。
たしかに自分の子供である。
~。

以下続くが、展開は明るいものではない。
最後、背負う子は石にように重くなる。

読み終わり、それまでと同様、共演者は舞台袖から現れる。
朗読者は、短いやりとりの後、
第三夜の父子のように、背負う。

重いかどうかは本人でないとわからないが、
決して、石のような重さではなく、
実際の6歳を前にした子供の重さだろう。

ちなみに朗読者と共演者は実際の父子である。
また、子は来年小学校に入学する年だという。

もうひとつ演出効果が加わる。
ぶっとびアートという二人組が朗読に合わせ、
「動く影絵」をスクリーンに映し出す。

影絵で小説の内容に合った、
庭や森や雨などを表現する。
また、朗読者自身の影も活用したりして、
舞台作品として、成立させる。





 

浜松市勤労会館Uホールで「はままつ演劇オムニバス」を観た その3

カテゴリー │演劇

20日(日)はままつ演劇オムニバス。
3本目は劇彩 青とオレンジ「Stargazer」、「また来る春は」。

2本の30分程度ずつの短編を上演。
パンフに、静岡文化芸術大学と静岡県立大学4年生の5人で旗揚げしたとある。

何かを始めるにはきっかけがある。
そして、訳あって、何かを始めるのである。
大学4年と言えば、4年制の大学であれば次は卒業である。
就職するとすれば、近い未来の来年3月になればそれぞれ異なる地域に別れていくのかもしれない。

とすれば旗揚げまもなく、活動の期限はやってくるのかもしれない。
また、パンフに、それぞれが4年間で得た経験を、三本の作品に詰め込みます、とある。
3本目の「東京しあわせクラブ」は11月26日に静岡市で行われるストリートフェスティバル・イン・シズオカで公演される。
そうなのだ。
劇彩 青とオレンジは、はままつ演劇オムニバスでの2本を含め、3本限定の劇団なのである。

とすると、話は早い。
やることは、やりたいこと、なのだ。
今考えていること、考えてきたこと、
集ったメンバーでやりたかったこと、
メンバーが脚本を書いたり、演出したり、
話し合ったり、演じたり。

それらが限りのある学生時代のひとときに行われる。
そして、上演される。

1本目は「Stargazer」。
星を見る人とか天文学者、占星術師、夢想家、というような意味らしい。
話の流れは、女友達3人が、誰かの部屋に集まって、海にでも行くか、と海に行く話。

明かりがつくと、シンプルな照明の元、舞台の奥で、平台の上で、2人が普通にしゃべっている。
勇気ある演出。
でも、アパートの一室で、友達同士でしゃべっている様子が現れている。
今でも、おのおのの部屋では様々な人が様々な会話をしたり、ひとりでいたり、誰もいなかったりするのだ。
一部屋だけ、切り取ると、たぶんあんな感じだ。

そして、外に出て海へ向かう時、
舞台の面(つら)付近までやってくる。
単純であるがゆえにより効果的。

海が苦手な子の妹が死んだ過去が語られるが、
その妹の幻影が現れ、ダンスを踊るが、
これまた、その肉体性ゆえ効果的。

ラストの歌、合唱曲「COSMOS」のフルコーラスは
彼女たちの卒業記念として聴いた。

2本目は「また来る春は」。
卒業公演をする自分たちをなぞらえた劇中劇を今の心境とだぶらせた作品。
旅立つ恋人に対し、「さよなら」を言う場面の練習をする女の子。
「さよなら」は自分たちの卒業にかかっているだろうし、
また、古めかしい言葉が出てくる。

「さよならだけが人生だ」。
これ、家にある藤本義一著「川島雄三、サヨナラだけが人生だ」
(「幕末太陽伝」等の映画監督川島雄三のことを弟子であった作家藤本義一が書いた本」
を思い浮かべたのだが、
調べたら、井伏鱒二が漢詩を訳した中にこの言葉がある。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

また、寺山修司がカルメン・マキに詩を提供した歌に「さよならだけが人生ならば」というのがある。

さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう

ここまで書いて気が付いた。
この芝居のタイトルなのだ。

「また来る春は」。

寺山修司から来ていたのだ。
この芝居は。

最初、検索して調べた時
ボーカロイド初音ミクが歌う「さよならだけが人生だ」という歌がひっかった。
実はそこから引用したのかと思っていた。

「さよならだけが人生ならば」の詩は
最後こう締めくくられる。

さよならだけが人生ならば
人生なんかいりません

さよならは、状況により複雑な感情をもたらす。
悲しむべきことだったり、
喜ぶべきことだったり、
どちらもまじりあっていたり。

芝居の脚本では旅立つ恋人にさよならを言うという役だった女の子は
それを無視して、旅立つ恋人を追うという選択をとる。
つまり脚本の設定を勝手に変えてしまう。

それは、卒業という決定的なさよならへの
ひとつの抵抗かもしれない。
そして、自らも旅立つのである。




 

浜松市勤労会館Uホールで「はままつ演劇オムニバス」を観た その2

カテゴリー │演劇

20日(日)はままつ演劇オムニバス。
2本目は、絡繰機械’S「跋扈の暁」。

とある山村に、地からそびえた細く長い謎の物体が現れることから話は始まる。
その物体を見つけた村人たちの描写が冒頭のシーンを彩るが、
これがとても痛快だ。
この痛快さは久しく見ないなと思った。

この勢いで、この村の村長が出てくる。
ただし、格好は、どう見ても映画「トイストーリー」のウッディである。
ウッディとはアンディという少年が持つ保安官の人形のおもちゃ。
そのことの説明はないが、日本の山村が舞台でありながら、
ロッキー山脈の断崖絶壁の山肌を思わせるアメリカンテイストの挿入。
ここで、世界を混濁させる。

あなたの知る特定の場所であることを拒むのだ。
今から始まる芝居はあなたの知らない
この物語のためだけの世界なのだと宣言する。

僕は、話が進むにも関わらず、
村長とウッディとを結びつけることも忘れることができないため、
ウッディのディテールを頭に思い浮かべようとする。
どんな帽子を被っていて、
シャツはズボンはブーツは
首元にはチーフを巻いていて・・・。
そして、この衣装揃えるのに苦労しただろうな。
ありものじゃ間に合わないだろうな。
ネットで探したんだろうか。

その間も眼前の舞台は前に進んでいる。

そうかウッディか木か。
今、これ書いていて気が付いた。
衣装のチョイスも当然のように意味があった。

これは木の物語でもある。

舞台の中心には巨大なモビール細工が天井から吊るされていた。
本来、木は地面から始まり、樹齢により太く、上に長くなっていく。
こちらのモビールは、突如生まれたという通り、
天から降りていて、地を貫いているように見える。
※モビールってこんな感じ↓


I

I

I    

I


樹木を題材にした物語は劇中でも出てくる「ジャックと豆の木」のほか、
「となりのトトロ」もそうだ。
大きなクスノキに住むトトロというおばけと
さつきとメイの姉妹をはじめとする家族や周辺の人の物語である。

「跋扈の暁」も同様の構造を持つ。
トトロがわけのわからないトトロというおばけと人々の話なら、
跋扈の暁がわけのわからない天から地につながる木と人々との話。
ジャックと豆の木はわけのわからない巨人ややたら伸びる木とジャックとの話。

人間同士の関係に物語の種を見つける話もあるが、
絡繰機械’Sは人間以外のものに題材を求める。
また、日本の寒村を舞台にしているといいながら、
コロラドやウッディやジャックなど、世界を混濁させる仕掛けを施す。
笑いや照明や音楽や舞台装置を重ねるのも
その意思のあらわれだろう。





 

浜松市勤労会館Uホールで「はままつ演劇オムニバス」を観た その1

カテゴリー │演劇

20日(日)15時~

前日夜は中学校のクラス会があった。
昨年も久しぶりのクラス会が同時期にあったのだが、
翌日、「P」という作品で参加したはままつ演劇オムニバスの公演日だったため、
参加しなかった。

自宅の留守電に同窓生から案内があったのだが、
連絡先を告げるメッセージが途切れていたこともあり、
返信はしなかった。

公演のため行けないことも、
連絡先がわからないことも
連絡を入れなかったことの
言い訳にしかならない。

電話番号を調べ、連絡を入れ、
「ごめん。用事があって行けない」
と言えばいいことなのだ。

するべきことをしなかったことは、
後に残る。
ただ、少し時間が経てば、
まるでなかったことのように忘れてしまう。

翌年また、同様の連絡があるとは
まったく思っていなかった。

今年も不在だったため、留守電に連絡が入っていたが、
今年は返信をした。
そして、クラス会への参加を告げた。

偶然ではあるが、
翌日、はままつ演劇オムニバスの公演日であることは共通していた。

はままつ演劇オムニバスは
1日で複数の公演を観ることができる企画である。

1本目は劇団Tips「Piece of Fictions」。
創部3年の静岡大学浜松キャンパスの劇団。
一昨年前、遠鉄百貨店前で行われた路上演劇祭にも参加した。
その時は、創部されて間もなかったと記憶している。

図書館を舞台にし、並べられた本と人間との関係を描く。
人間というのは、図書館で借りる人ではなく、そこで働く人である。
本にはそれぞれ人格があり、本が嫌いな人には、人としての姿が見えるというのがこの芝居の趣向。
だから人としての本はしゃべり、動く。

ファンタジー小説なら、夢見がちな少女。
恋愛小説ならキザなイケメン。
歴史小説なら、胴着と袴を身に着けた古めかしい青年。
推理小説なら探偵の恰好。
それら人格は、ステレオタイプであるが、複雑にするとわかりにくくなる。

そして本が人格を持った姿を見ることができる本が嫌いな人と
見えない本が好きな人がいて、話は展開する。
話を推進する力は、本たちが自分たちを好きになってもらおうと
嫌いな人に対し、涙ぐましいアピールをする。

ファンタジーコメディと言っていい。
実はとても難しいジャンルだと思う。
笑いを得ることによりやっている者たちは満足を感じるのだから。
セリフのやりとりや動きにもテンポやタイミングが重要だ。
それでいてリアリティも必要だ。

今、テレビで「逃げるは恥だが役に立つ」を観ている。
話題になっているのは知っていたが、初めて頭から観る。

このテレビドラマは、ファンタジーではないが、
現実離れした設定をうまく活かし、コメディ的要素を作り出している。
でも決して荒唐無稽なのではなく、
どこかリアリティを感じるから、共感を得るのだろう。

そのドラマの果てに、ラストのポップチューンとダンスはにくいほど効果的だ。
もちろんこちらはプロの仕事。
とはいえ、アマチュアとは言え、入場料をいただく。
そのことを心得ることは意味のないことではない。





 

はままつ映画祭2016 2日目

カテゴリー │映画

13日(日)10時~
前日に引き続き、はままつ映画祭2016へ行った。

インターネットのニュースでこんなニュースがのっていた。
「第10回田辺・弁慶映画祭、塚田万理奈監督「空(カラ)の味」がグランプリほか4冠。」
弁慶グランプリ、映検審査員賞、市民賞、女優賞(堀春奈)という主要賞を独占、ということだ。

はままつ映画祭の入賞作品としても「空の味」は13日、最終上映作品として、上映された。
はままつ映画祭では上映される24作品の制作した監督が
会場である木下惠介記念館にやってきて、あいさつする。
ただし、来ることができる都合が合う監督のみである。

塚田監督の上映作は、上映後、コメントが読み上げられた。
上映の感謝と、この映画が作られるに至った経緯の紹介とともに、
とある都合が重なり、来ることができないことをとても残念がる内容が記されていた。

この日は田辺・弁慶映画祭の授賞式と同じ日である。
田辺・弁慶映画祭は、インディーズ映画の登竜門的な映画祭と呼ばれているようだ。

はままつ映画祭は、公募作品から、上映される入賞作品を選ぶが、
例えば有名なベルリン映画祭やカンヌ映画祭のようにコンペの意味合いはあまりない。
基本的に2日間という限られた日程の中、
できるだけ作品を上映しようというスタンスである。
上映時間の制限もないようだ。

プログラムにも精いっぱいの考慮のあとが伺える。
ただ、スケジュールに余裕がないので、
すべて作品を観ようと思うと、
用意された展示や休憩スペースを利用するヒマがない。
何なら、昼飯抜きになってしまう。
まあ、こちらの都合でもあるが。

そのためか、さまざまなタイプの映画が上映される。
それは一通り作品を観てみると、よくわかる。
どのような理由で撮り始めたのか。
どのような環境で撮影されたのか。
撮らせてくれるスポンサーがいる場合もあるだろう。
ゼロから金と役者やスタッフを集めて作った作品もあるだろう。
技術の幅もさまざまである。
言いたいこともさまざまである。

ちなみに「空の味」という作品は、
監督が母校(日大芸術学部映像学科のようだ)の同窓会に出席した際、
今まで誰にも語っていなかった自身の体験を皆に話したところ、
まわりから「それを映画にしよう」ということになり、
スタッフ等が集められ、結果、
135分6秒の1本の映画が出来た、そうである。





 

木下惠介記念館・鴨江アートセンターへ「はままつ映画祭2016」に行った

カテゴリー │映画

11月12日(土)10時~

公募された入選作品が12日、13日の2日間にわたり上映される。
会場は木下惠介記念館と鴨江アートセンター101号室。
みっちり組まれたタイムスケジュールに従って、
互いの会場を行き来する。

幸い2つの会場は道路を挟んだ向かい合わせにある。
プログラムが終わると、会場を出て、
横断歩道を何度か行ったり来たり。

12日(土)はAプログラム~Fプログラムの全16本。
13日(日)はGプログラム~Kプロフラムの全9本。
5分の短い作品もあれば、135分5秒の長い作品もある。

来場されている映画監督は、
上演後、または上演前に観客の前であいさつ。

ちゃーむ映像ハママツという、
浜松ほか地方の映像を流す企画もある。





 

静岡文化芸術大学・碧風祭で「bf movie theater 2016」を観た

カテゴリー │映画

6日(日)静岡文化芸術大学では前日5日より大学祭・碧風祭が開かれていた。

最終上映である
14時50分~16時20分開かれた
映画制作チーム 「bf movie theater 」の上映会を観た。
bfとはbrinking frameの略。
10分ほど遅れて始まった。
チーム名のオープニングロゴがなかなか凝っていた。

作品は以下3本。

「シミ」

「陽」

「home」

上映場所は大学内の「撮影スタジオ」。
映画上映には敵である光のシャットアウトが完璧にできる
とてもいい場所だった。

企画プレゼン、脚本、絵コンテ、キャスティング、ロケハン、撮影、宣伝、イベント計画、WEB・映像コンテンツ配信、会場構成、サイン計画を行った、とチラシにあった。

写真もそのサインのひとつ。



そのあと、18時から青少年の家で、路上演劇祭実行委員会に参加した。



 

浜北文化センターで第56回静岡県西部高等学校演劇協議会発表会を観た

カテゴリー │演劇

9月25日、10月2日、10月23日、10月30日の4日間にわたり行われた。
所属する静岡県西部地域の高校演劇部18校が
各日4~5校上演する。

僕は、9月25日と昨日の10月30日の2日間観た。
ただし、両日とも、途中からの観劇となってしまった。
残念ながら観ていない高校の上演もある。

この発表会の優秀校は、静岡県大会に出場する。
優秀校の発表は、4日間すべてが終わって発表されるのではない。
各日上演が終わるごとに発表される。

このことがどういうことか、あまり考えてなかったが、
4日間のインターバルがこれだけ違うと、
最初の上演と最後の上演では
かけることができる時間も異なり、上演の成果も変わってくる。
同じ日なら、条件は一緒だ。

ということはどの日のグループに入るか。
その組み合わせがひとつのカギになる。
運動部の大会と同様だ。
シード校などという制度はあるのだろうか。

詳細のルールは知らない。
予想するに、上演時間が60分目安という決まりがあるようだ。

上演時間のみを基本ルールに、
あとは、基本自由に演劇創作活動が展開される。



 

アクトシティ浜松大ホールへワールドミュージックコンサートに行った

カテゴリー │音楽

3日~6日 世界音楽の祭典 IN 浜松が行われている。



5日(土)13:30~20:30 

BANA BATEKE(コンゴ)
VOLOSI(ポーランド)
Pablo Moraes(ブラジル)
Natalie McCool(イギリス)
The Frank Nutys Ad Hoc Ensemble(ベルギー)
Noa Noa(ポルトガル)
No-Maddz(ジャマイカ)
WMF2016 Special Band(日本)

3日(祝)にソラモで行われたまちなかコンサートでも、この日出演したアーティストが演奏した。



国が違えば、
音楽も違うなあと思ったが、
ポップミュージックがオンエアーの対象となる
ミュージックステーションでも
三代目J Soul Brothersも出れば、乃木坂46も出れば、ピコ太郎も出る。
同じ日本でもずいぶん違うなあ。

インストゥルメントもあれば歌もある。
歌の場合、基本母国語で歌うから、
言葉がわからない観客に意味を伝えるにはもちろん障害がある。
曲と声を聴きながら、
きっと歴史的背景、個人史的背景を基にした相当いい詩なんだろうなあ、と思いながら
聞き入る。
でもその障害をわかるのもひとつの体験だと思う。

観客に対しての対応も様々だ。
MCを交えコミュニケーションをとろうとする人もいれば、
黙って演奏を始め、終わると、お辞儀して去っていく人もいる。

それぞれの音楽のルーツを探っていけば、また面白いだろう。

最後に浜松市で活動している
・浜松市ユース選抜吹奏楽団
・フィルハーモニックウインズ浜松
・フィルハーモニックウインズ浜松、浜松筝曲研究会、浜松ジュニア・ユース邦楽合奏団、ジュニアクワイア浜松、浜松学芸高等学校
の演奏で予定をオーバーし21時に幕を閉じた。

6日もあるが、所用があることもあり、残念ながら行けない。
スペイン、ドイツ、オーストラリア、イタリアの各ミュージシャン、
そして、音楽監督の三宅純さんのユニットの演奏がある。
三宅純さんは映画監督ヴィム・ヴェンダースが撮影した舞踊家ピナ・バウシュの
2011年のドキュメント映画「Pina」の音楽監督ということだ。