鴨江アートセンターで「新年あけましてさんにんしばい」を観た その1

カテゴリー │演劇

22日(日) 18時~
この日は浜松駅前のえんてつホールで
14時開演の浪漫座の演劇公演を観たので、
同じ街中の徒歩移動範囲内で観劇のはしごをした。

と言っても、公演と公演の間が空いていたので、
モール街のサイゼリアで、時間をつぶした。
この日も外は寒く、
歩く人は総じて足早で、
店の中に入ると途端ににぎやかで
活気付いていた。
偶然ではあるが、「浪漫座」の観劇後と思われる
グループが、観劇談議に興じていた。

「新年あけましてさんにんしばい」では、
出演者が3人のユニットが3組、
短編芝居を上演する。
企画は木の実プロデュースで、
昨年は2人芝居、一昨年が1人芝居のイベントが
今回同様年明けの1月に開催された。

1組目が、SakuRa Coffee「ピアス」。
メンバーは、それぞれ居住が、豊橋、浜松、静岡と異なる。
会議などはネットを活用して、
遠隔地同士をつないで行うことができる時代であるが、
芝居の稽古はどうだろうか。
いろいろ駆使すれば、何とかなるのかもしれないが、
わざわざそんなことはしない。

結果、時間をやり繰りして、
ひとつの場所(地理的に間をとって浜松市)に集結し、
本番に向けた稽古が進められる。
その上、互いに初めて顔を合わせたのが、
本番まで約3週間前の大晦日。

これらはプログラムや上演後のあいさつで語られたことであるが、
この情報だけで、様子を巡らせることができる。
このような試みが生まれるのも
こういったイベントの利点である。

高校時代の同窓会。
卒業以来何年後なのか
触れられていたかどうか覚えはないが、
登場人物の3人は2対1に分けられる。
簡単に言うと
2の男女は、不真面目な不良タイプで、
1の女は真面目な優等生タイプ。

高校時代は同じ教室で机を並べていたが、
卒業後は、進路は真っ二つに別れる。

不良タイプは卒業後も何らかな関係を持っている。
遊び友達なのか、付き合っているのか、
久しぶりに会っても、それまでの時間が一瞬で縮まるほど気が合うのか、
事情はわからないが、2人の距離は近い。

対して、優等生タイプは
卒業以来、まるで机を並べていたのがなかったかのように
関係は閉じている。
高校生時代も、そんなに開いていたわけではない。

ところが、優等生は、不良にある思いを持っていた。
それは憧れとも言える。
妬みとも言える。

その象徴がピアスである。
不良であった2人は
たぶん、校則違反にも関わらず
髪を染め、
耳にはおそらく安全ピンか何かで穴をあけ、
当然校則違反のピアスをはめる。

優等生はそんな2人が
自由に生きる象徴のようで
とてもまぶしい。
あんなふうに生きれたらいいと思っている。
そして、卒業して何年か経った今でも思っている。

時を経て、会う機会がないから、
ますますその思いは募っているようにも思う。
それはどこか満たされない今とも連動しているかもしれない。

ところが、そう思われている方も、
いうほど自由に生きているとも言えない。
かえってまじめにこつこつ前進する優等生タイプ
をうらやましいと思っている。

それはこうして再会するまで互いにわからなかったりする。
同窓会をきっかけに
互いの気持ちを伝えあう機会を得ることで、
「な~んだ」
ってことになる。
今までのもやもやした無駄な時間はいったいなんだったのだ。

誤解は鮮やかに溶ける。
但し、同窓会ののち、頻繁に連絡を取り合う仲になるかは
わからない。
むしろそれまでと変わらぬ関係が続くことだろう。
次回の同窓会か、どこかで偶然会った時、
交わす言葉は変わるかもしれないが。





 

えんてつホールで浪漫座「シニア劇団浪漫座版 大奥」を観た

カテゴリー │演劇

22日(日)14時~
その日、家に帰り、プログラムで役者の名前とそれぞれの役名を確認していて気が付いた。
出演者に名を連ねる15名の内、ニックネームのような表記の方が10名いるのだ。

なぜ本名ではないのだろうか。
もったいない気がした。
遠鉄百貨店新館8階にあるえんてつホールはほぼ満席だった。
舞台に立つ人たちの友人や家族の姿もたくさんいたことだろう。
お目当ての人が舞台に登場するたびに知り合いと思われる人たちの一帯はざわめき、
カーテンコールでは、あちらこちらから、個人名を呼ぶ声がかかる。
大衆演劇や宝塚やジャニーズではないか!!

浪漫座は55歳以上であることを入団条件としたシニア劇団である。
以前演劇活動をバリバリやっていた、という人もいるかもしれないが、
今までこういうことできなかったけど、仕事や子育ても一段落ついたので
満を持して始めた、という方も多いことだろう。

憧れと思いを込めた芸名であるなら、
例えアマチュアでも、
日常とまた違う
新しい自分を生きる心構えと理解する。

宝塚歌劇団の芸名、
茶道の茶名、
相撲のしこ名、
そして、子供ができた時の命名。

名前を付けることは大切なことだと思う。
知り合いのごく身近な人に対してだけへのメッセージではない。
知らない誰かにも向けた、「私」というメッセージなのだ。

それは、
えんてつホールにこの日足を運んだ、
メンバーの誰とも知り合いでない人も含む。

「大奥」は僕は映画もドラマもあまり見ていないので、
イメージの域を出ないが、
江戸時代の将軍家の正室、側室、女中たちの人間模様を描く・・・。
女同士の欲望渦巻く権力闘争・・・。
しかし、それはすべて将軍というあくまで一人の男の歓心を得るため・・・。
それもまた女の性(さが)・・・。

着物の衣装を見ても、その意気込み満々である。
「宴じゃ」と称し、
踊りや歌が繰り広げられる。

その姿は、観客たちを勇気付ける。
特に同年代の人たちにとっては。
先日テレビで、
80歳を越えて高齢者ばかりのチアリーダーのチームを主宰する女性のことが取り上げられていた。
老人ホームや介護施設等で演じて、勇気付けているそうだ。

「大奥」の世界を例えば日常に置き換えて表現すると面白いかも
と思ったりもするが、
多くの人が知る「大奥」の世界の再現にチャレンジすることは
意味のあることだと思う。
何より、舞台の上の人たちは大変満足気ではないか。





 

昭和文化小劇場で劇団あおきりみかん「ルート67」を観た

カテゴリー │演劇

15日(日)15時~

名古屋の昭和区にある
昭和文化小劇場は名前からして、ずいぶん古い劇場かと思ったが、
オープンしたばかりで、13日~15日に5回行われた今公演は
劇場のこけら落としのひとつだったそうである。

名古屋駅から乗り継いで30分以上かかるが、
最寄りの地下鉄の駅から階段を上り外へ出ると、
どちらかというと住宅街で、
大きな公園があり、そのかたわらに真新しいが小ぶりな劇場がある。
公園は、広いが、人はほとんどいない。

広い会場でないので、ロビーは待つのにふさわしいとは言えない。
僕は整理券を受け取ると、公園のトイレに行くのも兼ね、外へ出てしばらく時間をつぶした。

浜松より多く降った雪が残っていた。
公園にはこちこちに固まった雪だるまが
置き去りにされていた。

「ルート67」を観て、この作品は、この劇場に触発されて戯曲を書いたに違いないと思った。
思うに、作・演出の鹿目由紀さんは、いい意味で策略家だ。
「劇王」という20分以内の短編作品のコンテストで四連覇を果たしたことがある。

3本は観劇し、1本はせりふの時代という戯曲雑誌で読んだのだが、
切り口が明快というか、
この芝居はこういう芝居ですというのが、
ストレートにわかる押しの強さがあった。

それはとても力強く、迷いがなく、
誤解を恐れずに言えば、男勝りで、
格好良く、颯爽としていた。

ただしそれは一方、アイディアの強さ故、
それがなかったら、または外してしまったら、
どうなるんだろう、という面も持ち合わせていたと思う。

「ルート67」とは言うまでもなく、アメリカのシカゴとサンタモニカを結ぶアメリカ横断道路で、
アメリカのポップカルチャーでもたびたび登場する「ルート66」から来ている。
かつてアメリカンンドリームの夢を託したルート66。
1985年に、道路事業の再編により廃線となっている。

とあるインタビュー記事で、
「走る」芝居をやりたいと思った、と触れていたが、
まさしく、天井が高く、奥行きもあり、ただし、幅がやたら広いわけでもない
そんな舞台に、300人ほどのキャパシティの会場は、
舞台上から客席への侵入もほどほどたりやすく、
たぶん、新しい施設で照明機材も最新で、音響もほどよく行き渡り、
これはエンターテイメントに徹してみようと思ったはずだ。

そこには僕が連想して思い浮かべたところ
「カーズ」「チキチキマシン大レース」「トランスフォーマー」など
とても少年ぽいラインアップが並ぶ。
レースシーンが多いので、役者は常に走っている。(足踏みしている)
また設定が、「人間と車と融合した時代」だという。
ロボットと車の融合である「トランスフォーマー」を越えている。
「力強い。」

話が進むにつれ、非現実的から現実的に移行する。
どう決着をつけるのか予測がつかなかった
広がった心の風呂敷が、
ある程度の大きさに収縮する。
突飛もない話というより日常の話だったのだ。
それは、作者が高校時代に好きだった並木道の思い出を重ねている。
そして、「力強い。」というより「心やさしい。」





 

クリエート浜松2Fホールで雪解カンガルー「リリカ」を観た

カテゴリー │演劇

14日(土)
この日はこの冬最強の大寒波の影響で、
静岡県西部では珍しく
昼間から雪が降っていた。

今年最初のいわた表現の会からころの毎月第2土曜日の例会は
12時集合で、食料持ち込みによる新年会を兼ねていて、
雪が降りしきる中、浜松から磐田へ車を走らせた。

18時からは雪解カンガルーの演劇公演がある。
寒波の影響は翌日まで続くという予報が出ている。
劇団名と重なるような雪景色となるのだろうか。

中島みゆきの歌に、「この世に二人だけ」という曲がある。
この曲は、妻のいる男と自分と何ならこの世に二人きりになってしまってもいい、と願ってしまう
女の心情を歌っている歌なので、
この日観た「リリカ」とは重なる話ではない。
男の妻が挿絵を描いた本を本屋で見つけたことが歌の導入で、
絵を題材にしているということは共通点か。

「リリカ」は今は自ら絵を描かない姉と絵描きの妹の話である。
もう一人、学芸員として、話のキーを握る役割を果たす登場人物がいる。
ただし、僕には観劇後、まるで「この世に二人だけ」に思えた。

妹が絵を描くアトリエと姉がビスク(スープの種類)を用意する部屋が舞台であるが、
外の世界は劇中も二人の口から語られる。
姉がまわる画廊や、妹が大きなアート展の賞を取った授賞式の様子などが語られる。
そして、実際、妹に個展の開催を勧める学芸員も出入りする。

にも関わらず、まるでここは「この世に一つだけの部屋」で、
「この世に二人だけ」が存在しているかのようである。

これには理由がある。
それは今はいない母の存在である。
母の存在は、「絵を描く」という行為を通し、
姉妹に影響を与える。
今はいないからこそ、残された姉妹は
二人だけで部屋に幽閉されたかのような状態で
二人だけの世界を生きる。

終盤、姉は、妹一人残し、
一人部屋を出る。
その姿は象徴のように
ストップモーションと
効果的な照明で演出される。

ただし、観客の僕たちはわかっている。
「この世に二人だけ」は変わらないことを。
扉を開けた向こう側が、
バラ色の世界なわけでもない
爽快な晴れ間なわけでもない
どこにいても他の誰といても
どこか二人だけでいた部屋と変わらぬ場所。

学芸員の役は、第三者である故、もっと思い切った
演技ができたかもと思った。
持ち込んだ「リリカ」の絵が二人の関係の破たんを明るみにするのだが、
二人の事情は全く知らないのだから、
二人の世界と差異をつくると
より際立ったかもしれない。

昼間、降雪と、晴れ間が繰り返され、
結局雪はさほど積もることはなかった。




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酉年の2017年にあたり

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今年は何をやるのだろう。
あなたは何をやるのだろう。