万年橋パークビル8階で劇団soyDooN「鈴木家の誘拐結婚」を観た

カテゴリー │演劇

5月19日(日)16時~

午前中は砂山銀座サザンクロス商店街で
第1・第3土曜日に開催されている朝市があった。
午後は、路上演劇祭に向けた準備をした後、
劇団soyDooNの公演会場である
万年橋パークビル8階に行く。

途中とても風が強かった。
街路樹から枝が折れ、
葉のついたその先が吹き飛ばされてきた。
街歩く人はみな吹く風と格闘していた。

劇団soyDooNが今回取り上げるモチーフは
キルギスなど中央アジアで慣習として残るとされる
誘拐結婚。
「アラ・カチュー」と呼ばれているそうだ。

そこには宗教上の解釈や
男女の役割への解釈があり、
そのまま今の自分たちの環境に置き換えることはできない。
え~!可哀そう~。でも他の国の話だから、
と遠ざけたら、そこで関係がない話として思考は止まる。

ただし、そこから、自分たちの問題として
問い直すことはできないか。
そんな動機があったのかもしれない。

ここでは、結婚のことを全く考えていない娘を
何とかして結婚させたいと願う母との関係を中心に描く。
家族の中には父と兄弟もいるが、
男性の意思は母に引っ張られてのものである。
この温度差がコントラストを生む。

ギリシア悲劇の時代から、
家族劇はたくさんあるが、
それぞれコントラストの違いで芝居が進むと思う。
夫が上だったり、反対に妻が上だったり、
または、子供が上だったり、
そこには理由があり、
芝居の進行に大きな影響を与える。

すべての芝居は
「これはこういう話です」
と一言で言えるというが、
そこに至るまでに、
いろいろな手法で過程を見せる。

今回、最も象徴するものは
観客席から参加者を引っ張ってくることだ。
そういう場面を見ることはあるが、
多くは芝居の主体に入り込むというより、
寄り道程度の観客参加である。
どちらかというと観客へのサービスと言ってもいい。

今回の参加のさせ方は
主体を揺るがす可能性があったと思う。
先月静岡芸術劇場で観た「民衆の敵」でも
同様の場面があった。
主人公が集会で自分の考えを訴えた後、
客電がつき、観客席から意見を募るという趣向だった。

3名の方が挙手され、意見を述べられたが、
時間や進行の都合もあり、ストップがかかり、
それ以上の論議はなされなかったが、
観客それぞれの中に、
自分だったら・・・の意見は生まれたと思う。
もちろん、そうさせるのがこの場面の目的である。

自分たちの問題として
問い直すことができないか、
そんな意図の表れである。






 

6月3日(日) 路上演劇祭Japan in 浜松 タイムテーブル

カテゴリー │路上演劇祭

路上演劇祭Japan in 浜松2017-2018

6月3日(日)12時~17時ごろ

砂山銀座サザンクロス商店街にて

入場無料

僕もかかわる「砂山劇場」は2番目の登場。(12時25分~予定)

お昼時ですが、ぜひお越しください!!

ていうか、全部観てっ!!

タイムテーブルはこちら。









 

静岡市街中周辺で「ストレンジシード」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

5月3日~6日 静岡市街中で、
パフォーミングアーツのフェスティバル「ストレンジシード」が行われた。
キャッチフレーズに
「静岡の街が劇場になる!?」とある。
主催は静岡市で、
ふじのくに⇔せかい演劇祭と同時開催と銘打っている。

5月6日(日)にあれこれ観た。

JR浜松駅を東海道本線に乗車し、
JR静岡駅へ。

JR静岡駅を降りたち、
静岡市民文化会館に向かって歩く。

静岡市民文化会館前広場で、
熊本から来た
不思議少年「地球のしきたり」を観た。
12時からのスタートには遅れてしまった。
オムニバス形式の上演で、踊ったり、観客を応援したりしていた。

そして、駿府城公園方面へ歩き、
東御門から入場すると
お城ステージでは
東京からやってきた
劇団子供鉅人「スーパーバレーボーラー球子!」を観た。
すでに始まっていた。
バレーボール部の球子が最終的に宇宙に行き、戦い、戻ってくる。
ドラゴンボールを演劇化させたらこうなるだろうか?
→ならない(笑)
巨人の星を演劇化したら?
→ならない(笑)

いよいよ本格的に駿府城公園内に入り、
沈床園 芝生ステージへ。
東京および大阪から来た
off-Nibroll+山中透「春夏秋冬」を観た。
ダンスと言葉が音楽に混じり、春→夏→秋→冬と渡り歩く。
ポーズのひとつひとつがよく考えられていた気がした。
あたりまえの振りはしないという意欲というか。

南へ戻ると
ガーデンステージには椅子が並べられている。
こちらは公募ステージ。
つまり他の会場は招待ステージとでも言おうか。
東京と静岡から来た
水彩×Mt.Fuji「溶けて花」を観た。
大人数のずっとダンス。
年齢差がありそうな構成が
2つの団体の違いであろうか?(憶測)

駿府城公園を出て、
ドトールコーヒーで休憩。
気候がよかったからか
歩いたからか
ひさしぶりにアイスコーヒー。

休憩後、
静岡市役所御幸通り側玄関前大階段で
東京から来た
ままごと「ツアー」を観た。
今までこの会場でやるときは大階段を客席にしていたが、
階段も舞台の中に組み込まれる。
舞台セットでもある車越しに見える
静岡県庁舎本館のたたずまいも意味がある。
単語の応酬とナビとの和んだ会話が、
ドライブを加速させる。

七間町名店街へ行き、
札の辻あたりに行く。
札の辻跡の碑があり、
昔、札の辻町という町名があったそう。
ここで大阪から来た
壱劇屋「アムダラがやってきた」を観た。
題名通り、アムダラ(手が長い)がやってきて、
観客にも難題を押し付ける。
観客はそれぞれの思いで応じる。

再び駿府城公園へ。
芝生ステージで
京都と東京から来た
康本雅子+テニスコーツのダンス+音楽(歌・演奏)を観て聴いた。
芝生ステージは、踊るのも歌うのもやはり気持ちよさそう。
冒頭のダンスはおそらくは野原のウサギで
観客に懐く。

続いて同じ芝生ステージで
名古屋から来た
少年王者館「アサガオデン~カタンコトン~vol.2」を観た。
昨年も観たが、同じテーマの第2弾。
昨年と場所は異なり、僕の視界からは樹木も舞台効果になっていた。
自動仕掛けの人形のように踊る
彼女たちは巻いたねじが壊れたかのように
踊りをぱたりと辞める。
それはどこか残酷だ。

すでに時間は18時を越えていた。
浜松へ戻るため、静岡駅方面へ向かう途中の
市役所ステージでは、
いろいろな場所で行われたストレンジシードの
最終演目が終わったところだった。





 

静岡芸術劇場で「シミュレイクラム/私の幻影」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

5月3日(祝)12時30分~

フラメンコダンサーの小島章司さんと
アルゼンチン出身のコンテンポラリーダンサー、ダニエル・プロイエットの、
それぞれの人生の軌跡を題材にしたダンス公演。

小島さんは大学で声楽を学んだ後、
ニューヨークでミュージカルダンスを学ぶか
スペインでフラメンコを学ぶかの選択の中で、
アンサンブルよりソロということで
フラメンコを選び、シベリア鉄道でスペインに向かう。
そこで、日本人でありながらフラメンコダンサーとして、
名を成す。

一方、ダニエルさんは、コンテンポラリーダンサーとして活躍しながら、
日本での公演を機に、女形の歌舞伎踊りを学ぶ。
あでやかな着物を着、頭を結い、白塗り化粧で歌舞伎踊りを踊る。

どこかで、それぞれの出自を交換している。
また、小島さんは78歳とダニエルさんの倍以上の年齢差。
今回の公演はそのような異なるものたちを掛け合わせる
のが目的なのか。

小島さんはスカートをはき、長い髪を肩まで垂らして踊る。
フラメンコというと、
スペインの南部アンダルシア地方を起源とし、
踊りと歌と音楽が混然となった
ジプシーたちの"情熱"をイメージする。

ところが小島さんは御年78歳の年齢もあってか、
踊りは、どこか力の抜けた無駄のない、
例えるなら、たおやかな女性が踊っているように思えた。

しかし、足はフラメンコのリズムに従い、
素早く、的確なステップを刻み続ける。
ここで思い出す。
アフタートークで語られていた
声楽から踊りへの転換期、
ニューヨークを目指さずに、
スペインを目指したというエピソード。
「ウエストサイド物語」のジョージ・チャキリスのように
アスファルトを高く跳ぶよりも
赤土をひたすら蹴り続けることを
選んだのだろうか。

ダニエルさんが、
歌舞伎踊りを踊り始めたのは
まだ3年ほどまえのこと。
上半身裸でコンテンポラリーダンスを披露する場面を見ると、
やはりこちらが本領であると思う。

それぞれの人生の軌跡を題材にしているが、
中心となるのは小島さんが、
徳島の港町で生まれ、
今に至る年齢分の軌跡である。

生まれ故郷にずっと居続ける人と
他の地へ出て行く人がいる。
両親と共に住み続ける人もいれば、
別れていく人もいる。

小島さんにとって、
入り口から離れていく過程は
必要なことであったし、
何より選んできたことだし、
今も踊り続ける理由でもある。

入り口を象徴するものとして、
ご自身の母親の存在があり、
その象徴をアルゼンチン人のダニエルさんが、
準備をたっぷりした出で立ちで
(この時間、観客は第2部の開演を待つ休憩時間)で
あでやかに舞い踊る。

そうして、異なるものたちが邂逅していき、
幕を閉じる。
演出はノルウェイ国立バレエ団レジデントアーティストの
アラン・ルシアン・オイエンさん。
ここでも異なるものとの邂逅がある。






 

静岡芸術劇場で「民衆の敵」を観た

カテゴリー │演劇

4月30日(月・祝)14時30分~

「民衆の敵」はノルウェイの劇作家ヘンリック・イプセン作である。
イプセンでよく知られる作品は「人形の家」で、
近代演劇の創始者とも、近代演劇の父とも呼ばれる。
「民衆の敵」は、1882年に書かれた作品。
2018年の現在から数えて、実に136年前である。

僕は、今回の上演の案内を見たとき、
「ああ、イプセンの作品か」と認識したはずだが、
それはしばらく前のことだったためか、
今日、観る前はもとより、観ている最中もそのことをすっかり忘れていた。

観劇後、当日プログラムを見るまでは
完全オリジナル作品だと思い込んでいた。
ギリシア悲劇を観ていて、現代の話だと思うことはそうない。
シェイクスピアもそうである。
チェーホフもそうかもしれない。
どこか前時代的な世界の話に思う。

NHKの大河ドラマを観て、
現代的な視点は感じても
現代のこととは思わない。
現代の俳優が演じているが
物故者である歴史上の人物が登場し、
着物を着用し、
刀を腰にさし、
ちょんまげをつけている。

ところが、この日観た「民衆の敵」は
まるで、今書かれた作品のようだった。
演出のせいだけではない。
戯曲が潤色されているにしても
イプセンが書いた戯曲自体が
“今”とあまりにも切り結ばれているのだ。

例えば、同じイプセン作の「人形の家」が日本人の俳優により
演じられると、
ずいぶん前に書かれた作品だなあという思いを抱くことは禁じ得ない。
それは邦訳された戯曲の文体にもよる。
シェイクスピアの美辞麗句は詩的であるが、
一方、前近代的でもある。

ところが、今回はドイツのカンパニーであるから
演じるのはドイツ人たち。
発せられる言葉はドイツ語。
一言も聞き分けれない僕は
セリフのたびに電光掲示で表示される
邦訳に頼ることになる。

それは一方、端的で、
伝えたい言葉のエッセンスが
ストレートに伝わる。
理解をおしきせでなく、
自分で組み立てることができる。

外国語映画を日本語字幕を通し
楽しむようなものだ。
外国語映画で
字幕を読むことに慣れていることが
演劇を鑑賞するのに役立っていると思う。

俳優の演技を観ながらも、
視線をずらし、字幕を観ながら
演劇を楽しむ。
ふたつの動作を交互に行い面倒だが
僕たちはそこそこ慣れている。
映画館でスピルバーグも何本か観たし、
もちろんその外の映画も。
中には、論理的な説明的なセリフが長々と字幕に映し出され、
「本を読んでるんかい」
と関西弁で突っ込みたくなる場合もあるが。

日本人である僕が英語で歌われたロック音楽を聴くように
ドイツ人も英語のロック音楽を聴く。
音楽の生演奏で始まる冒頭の曲は知っている曲だったが、
タイトルを思い出せない。
設定は主人公の家で、
バンドの練習をしている。
同様に
デビッド・ボウイの「チェンジズ」も演奏及び歌われる。

それはあくまで演劇的効果のためで、
本筋とは関係はない。
もちろん、イプセンの戯曲にもそんな指定はないだろう。
本筋は、真実を貫こうとした主人公が
真実を貫くことができなくなった過程。

今現在見聞きする事象と重なるのが
今の作品であると錯覚したひとつの理由。
ドイツでも見聞きし、
僕が住む日本でも見聞きする。

クライマックスで
多くの障害にも負けず
真実を貫こうとする主人公が開く
集会の場面がある。
そこで、随分と長いセリフを重ねる。

まだ続く言葉を遮られ、
突然客席のあかりがつく。
観客参加の常套的な合図だが、
体裁程度の客いじりではなく
がっつり観客との討議がなされる。

観客参加は挙手制でもあるので、
僕などは、ここで誰も手を上げない事態を想定してしまうが、
さすが、意識の高い観客が揃っているのか
論客の方々が次々と挙手され、
淀みなく意見を披露する。

こちらは日本語、
相手はドイツ語。
その齟齬を埋めるために
準備されていた通訳おふたりも交え、
観客参加の集会の場面が展開される。

話の組み立ては
やはり感心した。
イプセンに感心した、というのも
かなり失礼だろうが
裏の裏までよく考えられている。

通俗に落ちる結末も
十分納得した。
これは落語のオチにも通じる。
しかし、もやもやは後々まで残る。
やはり何が正しいかなど、
結局のところよくわからないのだ。

でもわからないというのはどちらかというと
気持ち悪いので都合上わかったふりをしたりする。
まわりの環境もあるし、
自分の気分や事情もある。

しかしながら、都合上わかったふりをしているのは
本当はわかったということではないので、
本当のことは何なのか、
解決方法はないのか、
追求し、さぐりたい気持ちは残る。

この後回しが、
イプセンが、シェイクスピア以来の劇作家で
今に至るまで
世界中でもっとも演じられていると言われる理由なのだろう。
問題は過去のものではない。
常に、今なのである。

「変わる」ということを歌っている
デビッド・ボウイの「チェンジズ」の歌詞も
邦訳されて映し出されるが、
こんなこと書かれていたかなあ。

“時間は僕を変えていくけど、
僕は時間をさかのぼれない。”

演出は、
ドイツの劇場ベルリン・シャウビューネの芸術監督、
トーマス・オスターマイアーさん。
3回目のカーテンコールで、俳優たちに引っ張り出されたが、
真っ先に引っ込んでいったのはおかしかった。
4回目の再び俳優たちのみのカーテンコールで、
終演した。