浜北文化センターで蜷川幸雄七回忌追悼公演「ムサシ」を観た

カテゴリー │演劇

10月23日(土)13時~

浜北文化センター開館40周年記念事業として、
井上ひさし作、蜷川幸雄オリジナル演出の「ムサシ」を観る。

実はこれ、FMラジオK-MIXとかでもCMしていたのだけど、
ニュースを知った後、しばらく経ってから、チケットの売れ行きはどうかなあ、とネットを見たら、
すでに3日間とも完売だった。
浜北文化センター大ホールはキャパシティが1,200席×3日間で計3,600人。
チケット料金は行くか行かないかの理由になると思うが、
演劇もキャスティングが一番なのかなあ。
藤原竜也、溝端淳平、吉田鋼太郎・・・とメディアの人気者の名前が並ぶと、
行かなきゃという気になるのだろうなあ。

他に鈴木杏、白石加代子とテレビや映画でもおなじみの名前も並ぶが、
彼女たちは舞台の出演の方が多いかもしれない。
藤原竜也も蜷川幸雄演出の寺山修司作「新毒丸」のオーディションで選ばれて、
俳優生活をスタートしている。
吉田鋼太郎は上智大学のシェイクスピア研究会から演劇を始め、
数々の舞台に出演し、今では各メディアで大人気。

「ムサシ」は2009年に初演され、
その後、2010年、2013-2014年とロンドン・NYバージョンとして上演。
2016年5月12日に蜷川さんが逝去され、
2018年に蜷川幸雄三回忌追悼公演として、上演。
そして今回2021年七回忌公演として、吉田鋼太郎演出で上演。

さいたま市、東京渋谷区、大阪市、北九州市と公演が続き、
浜松市浜北文化センターでの3公演がツアーの最終公演。
静岡県でもここだけ。
愛知県での公演もない。
実際当日愛知県の車のナンバーが停まっていたので、
浜松市外のお客さんも少なくなかったのだろう。

一生懸命チケットを取ろうとしていなかったので、
取れなきゃ取れないでいいや、と覚悟を決めていたはずなのに、
いざ観ることが出来ないとなると、何か悔しい。(ああ、せこい)

どんな演劇が行われるのか、観ることのないであろう公演に思いをはせ、
想像の中で迫ろうとする。
そんな気がむくむくと沸き上がり、
先ずは図書館で井上ひさし作の戯曲がないか調べる。
あった。
読んでみた。

これが一体どんな風に演じられるのであろう?
宮本武蔵役は初演から一貫して藤原竜也が演じている。
ライバルの佐々木小次郎は初演は小栗旬が演じている。
例えば初演のDVDが出ていないか調べる。
あった。
中古でこれくらいの料金なら手を出せそうだなあ。
しかも、記者発表から千穐楽まで裏側大公開!インタビューなどが入った139分の特典DISC付。
これはラッキー。
手を出した。

この特典DISCの中に、舞台の中でも出てくる座禅を学ぶために
貸し切りバスで鎌倉の寺院にキャスト・スタッフで出向く映像がある。
座禅を体験して「役つくり」という意味合いもあるだろうが、
“仲良くなる”というのが主な目的だろう。
その中で、サプライズで鎌倉にある井上ひさしさんの家を訪れる場面がある。

遅筆で有名な井上ひさしさんは、まだ「ムサシ」の執筆中で、
陣中見舞いの意味合いもあるだろう。
書くのに苦労しているときに大挙訪問するのも
「早く書け」とせかしているようだが、
井上さんはコーヒーを淹れてくれたり快く歓待する。
これが、井上さんの戯曲の書き方や俳優たちの素顔にも触れられていて、
とても楽しい。
俳優たちの様子を観察していて、
それが戯曲に活かされていることにも気が付く。

ああ、戯曲も読み、初演DVDもみているのに、
今回は住んでいる浜松に来るのに観ることができない。
まあでもこういうことはある。
それに日々やることはあるし、演劇だってこればかりじゃない。

公演日が近くなった時、何気なく、リセールのチケット販売サイトをのぞいてみた。
あ。あった。しかも正価より安い。NEWとあったので、急遽いけなくなったのだろう。
こちらの予定が入っていないのを確認すると、迷わず入手した。
タイミングを逃すと手に入れることは出来ないだろう。

「ムサシ」の戯曲の作者は井上ひさしさんだが、
注釈として、吉川英治「宮本武蔵」より、とある。
吉川英治の小説を元にしているということだが、
小説の方も多くは作者の創作ということだし、
戯曲の方も、武蔵が小次郎に勝つ巌流島の戦いの場面から始まる。

いきなり、小次郎が死ぬ場面から始まるのである。
これが井上さんのすごいところで、
9割9分(ほとんど)が私の創作ですよと、幕が開くなり、いきなり宣言する。

実は井上ひさしさんは2010年4月9日逝去される。
「ムサシ」を書いたのち、「組曲虐殺」が自身で書かれた最後の戯曲となる。
DVDの蜷川さんへのインタビューで「また井上ひさしさんに新作書いてもらいますか?」という質問がある。
これに「初日が開いて、作家のうれしそうな顔をみないと、次のことなんて聞けない。
ただ、今回、初日から何日かして井上さんより、蜷川さんともう1本やりたいな」と言われたと嬉しそうに答えている。
う~ん。
井上さんの逝去によりそれは叶わないこととなる。

その後、蜷川さんも亡くなり、三回忌公演、七回忌公演にて再演される。
数ある蜷川演出の中で「ムサシ」が選ばれたのは、
宮本武蔵という多くの人がとっつきやすい題材や蜷川作品と関係の深い俳優と組みやすいなど様々理由はあったと思う。
その中で、ひとつの理由として、僕はこの作品が「死者たちによるメッセージ」という形で物語が出来ていることにあると思う。

つまり、蜷川さん(プラスして井上さん)からの声が観劇を通して聞こえてくるような
仕組みになっている。

そのメッセージが、人は争ってはいけない、仲良くしなければならない、という
言ってみれば、道徳教本のようなテーマである。
これは一方物足りなく思う人もいるかもしれない。
人間とは本能を持った獣なのだ。
そんな杓子定規のように収まるものではない。
宮本武蔵や佐々木小次郎は限りなく獣に近い剣豪だ。
それを骨抜きにしてどうする。

もちろんそれもあるだろう。
しかし、作者である井上さんは承知の上だと思う。
過去には人間の本能を混沌のるつぼに放り込んだような作品も書いてきた上で、
生涯残り何本書くだろうという計算の中、
後に残る人たちへ贈るメッセージを考える。

報復の連鎖が容易に断つことが出来ないことも重々承知。
世界から戦争がなくなるということが困難なことも重々承知。
欲望を簡単に断ち切ることが出来ないことも重々承知。

その上で、多くの人に見てもらえる、何よりも面白い作品を作ろうとする。
多くの人の中には子供も入るだろう。
おじいちゃんおばあちゃんも入るだろう。
演劇を観る機会がほとんどなかったという人も入るだろう。

観客を楽しませるためのサービスとも思われる場面も
随所に組み込まれている。
それは井上さんの戯曲にも
蜷川さんの演出にもある。
それが物語と切り離されたものでなく、
本筋と関連つけられているところは
とても巧妙で、だからそういう場面で妙に感動する。
何でだろう?と抵抗しながら、いつのまにか受け入れている。

俳優はいくつかの役(小次郎、沢庵和尚など)を除き、
同じ役者が演じ続けている。
ただし、演出の蜷川幸雄がいない。
今回吉田鋼太郎演出であるが、
ほぼ蜷川連出を踏襲しているように思う。
(コロナの影響だろう、客席との絡みはかなり縮小されているが)

これは、実は相当大きいことである。
記憶はある。
映像などデータもあるかもしれない。
ただし、本人はいない。
蜷川さんの幻影は消えることはない。
そんな中で稽古が行われ、
各地に出向き、公演が行われる。







 

穂の国とよはし芸術劇場PLATでマームとジプシー「DELAY」を観た

カテゴリー │演劇

10月16日(土)18時~

trippenというドイツのシューズブランドとのコラボ公演ということだった。
「BEACH」、「CYCLE」、「DELAY」の3作品が10月15日~17日の間で上演される。

15日(金)19時~BEACH 
16日(土)13時~CYCLE 18時~DELAY
17時(日)13時~DELAY

3本セットで観る場合、お得なセット券もある。
3本とも観る場合のシミュレーションをしてみた。

BEACHは金曜か。会社の定時が18時30分。浜松から出向くにはなあ・・・。
セット券消えたか。
2本観るとしたら、CYCLE土曜13時は車で浜松を11時に出て、
観終わったら、豊橋のどこかで時間つぶして、18時からのDELAYで再び劇場へ。
アフタートークがあるからそれ聞いて、車で浜松へ帰る。う~ん。丸1日だな。
そうか。DELAYは日曜もあるのか。

作品の紹介文を読んでもあまり選ぶ決め手にはならない。
BEACHは再演、
CYCLEは新作(コロナで延期の末)、
DELAYはBOOTSという作品をリニューアル。
そういう意味合いも選択の参考に考えてみたが、
僕にとってはどれも初めて観るので、これも決め手とはならない。

その結果、アフタートークがある土曜18時からのDELAYのみの観劇にする。
今からDELAYというタイトルの演劇を観る、
と考えみてもその実感はない。
マームとジプシーの3本立ての内、1本を観に行くのだ。
DELAYとは、遅れ、延期。
ああ、今回のコロナの影響と無縁ではないのかも。

ネットでのチケット購入後、16日土曜日は路上演劇祭Japan実行委員会の打ち合わせが入る。
14時~16時、浜松鴨江アートセンターで打ち合わせ。
終了後、豊橋へ向かう。
緊急事態宣言解除後、土曜日の夕方。
道路の混雑具合が心配材料ではある。
過去の渋滞にはまった記憶が頭に浮かぶ。
豊橋までかかる時間は正味1時間を目安に考えている。
プラス1時間あれば、大丈夫だろうという目論見。

マームとジプシーは全作品の作・演出の藤田貴大さんのオリジナル作品のほか、
数々のコラボレーションによる作品を発表している。
大谷能生さん(音楽家)、飴屋法水さん(演出家)、今日マチ子さん(漫画家)、川上未映子さん(作家)、原田郁子さん(音楽家)、種村弘さん(歌人)、名久井直子さん(装丁家)、石橋英子さん(音楽家)  ※マームとジプシーHPより

また、2013年8月、マームとジプシーのCOCOONを観た蜷川幸雄さんから藤田さんに戯曲執筆の依頼があり書いた、
蜷川さんをテーマにした「蜷の錦」を蜷川さんと藤田さんでそれぞれが演出するという企画が決まっていたが、
2016年5月の蜷川さんの逝去により、中止となっている。
(その交流の模様等が記された本「蜷の錦」が出版されているが僕は未読)

そして、今回のシューズブランドtrippen。
藤田さんの作風には、何かと混じりたがる要素があるのではないか?

僕も豊橋のPLATでCOCOONを観た。
第二次世界大戦の沖縄戦でのひめゆり学徒隊をモデルにした今日マチ子さんの漫画を原作とした作品。
ここでは、飴屋法水さんもパフォーマーとして参加していた。

そこでは、登場人物たちは戦場でしかも死に向かっているという今日本で生きている僕たちと比べれば
悲惨で深刻な状況に置かれている。
音や映像が駆使され、役のほかにセット移動を兼任する役者たちも頻繁に動く。

アフタートークで藤田さんが話していたこと。
「今、大きな世界を見せるのは難しい」
その本意は何だったのだろう?
単にコロナによって演劇の作業が成立させにくいという状況を示していたのか。

COCOONは大きな世界の部類に入るのかもしれない。
しかし、描かれているのはごく普通の少女たちの日常だ。
小さな世界ともいえる。

DELAYは登場人物たちが身振り手振りをまじえての、今存在している場所の紹介モノローグから始まる。
例えば、「ここはふるい8畳間の和室です。西側と南側に窓があって、西側にはテレビがあり、朝は薄いカーテンから朝陽がさしこんできます。南側の窓にはカーテンがぶら下がっていて、開けると、庭が見えます。柿の木があり、ああ、柿がなってるな。ひとつ、ふたつ・・・」
あ、これは僕の場合。

ちょっと思ったのはソーントン・ワイルダーの「わが町」。
こちらはひとりの進行係が舞台である場所の説明を始める。
ただし、DELAYは、登場人物それぞれが語り、
それが重なって同時に生きているということを示す。

そして、在宅していた登場人物たちは「靴」を履き、家から外へ出る。
「靴」を履き、というところがtrippenとのコラボの表れだろう。

僕はCOCOONしか観ていなかったので、
藤田貴大さんの戯曲「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、塩ふる世界」を読んでみた。

こちらもそれぞれ単独で公演された3本がひとつのセットとなっている。
今回と同じだ。
共通点はまだある。
人物名が植物に由来する。
「かえりの合図、」が、りり、かえで、すいれん、あんこ。
DELAYは、あじさい、くこ、よか、すずしろ、れんげ、つゆくさ。
よかがよくわからなかったが、調べると
余花~春の遅れて咲く花。特に遅咲きの桜、ともある。
あんこは、「アンコ椿は恋の花」という歌があるけど例外かも。
他の作品では、ふみ、としろう、という役名もある。

役名はひらがな表記である。
ということは、個人を限定する名前にこだわっていないともいえる。
住む場所の説明も、観客は頭で必死に想像するしかないので、
実際の形と比較すると相当危ういだろう。
それが各自重なると、頭の中はぐちゃぐちゃになり、正直、どうでもよくなる。
そして、具体的に想像することを諦めた時に、
複数の人間の情報が解体されて、
ただひとつの欠片となり、
それらが合わさり、観客に提供される。
音楽に例えれば、それぞれの楽器から奏でられるひとつひとつの音符のように。

もっというと、
それら欠片は
舞台上によく整頓されて並べられている舞台セットのひとつひとつのモノと同等だ。
演技を終えた役者が座る椅子や
クリスマスシーズン(冬)であることをあらわす大きなツリーやサンタの人形とも。

そもそもtrippenとのコラボも
藤田さんが元々ファンだったブランドの展示会に行ったことがきっかけ。
例えば彫刻の美術展のように見えたそうだ。

藤田作品に特徴的なリフレインというシーンの反復も音楽で考えれば一般的だ。
同じメロディーは何度も使われるし、
流行歌でもサビの歌詞は何度も繰り返される。
元々が何かと混じり合いがちな構造になっているのだ。
演劇の作り方が。

描かれている世界はごく日常の世界ともいえる。
でもそれは沖縄戦で死んでいく少女たちと変わらない。
コロナというのは不思議なもので、
世界中の人が全員被害者なのだけれど、
人により実感が全く異なる。
実際的に罹患したり、経済的損失を負う人もいれば、
不自由といえば不自由だけど、全然変わんないという人もいる。

当然同じ演劇を観ても
きっと感じ方は異なるだろう。

そうだった。
チラシも、モノが置かれている。
とても丁寧な作業で。






 

クリエート浜松で「マラー/サド」上映会を観た

カテゴリー │いろいろ見た

10月11日(月)17時45分~

2018年10月11日、同じ会場クリエート浜松で、上映会でも演じている演劇集団アルテ・エ・サルーテの「マラー/サド」を観た。
その時の感想はこちら。
https://ji24.hamazo.tv/e8207220.html

本来は昨年2020年、協力団体のある日本の各地でのオーディションで選ばれた人たちも出演して再上演されるはずだったが、
新型コロナウイルスの影響で実施不可能となり、
続く2021年も開催が難しく(なにしろイタリアからやってくるのだ)、
ビデオ上映という形での発表となった。

オーディションで選ばれた人だけでなく、参加した人たちも一緒に練習をし活動してきた。
今回、アルテ・エ・サルーテの上演ビデオには彼らが演じる場面も差し込まれている。
各地の活動拠点で、それぞれ撮影したものだ。
そのような協働作業の上、今回の上映作品は成り立っている。

演劇集団アルテ・エ・サルーテはエミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健連合機構精神保健局(ナガッ!)の
患者たちによるプロフェッショナルな劇団。
2000年に設立され、ボローニャ精神保健局と連携し活動を行い、
精神科病院を廃止したイタリアでは、社会活動としての演劇が大きな役割を果たしているということだ。
(チラシより)

イタリア、エミリア・ロマーニャ州の州都であるボローニャは人口38万人、市内にミュゼオ(美術館・博物館・陳列館)が37、
映画館が50、劇場が41、図書館が73あるという。
この記述は、2003年12月に、“30年間の机上の勉強により恋人よりも親しい存在”というくらい
ボローニャを愛する井上ひさしさんが、
NHKの番組のために依頼された2週間の取材旅行の際に書いた「ボローニャ紀行」という本に掲載されている。

第二次世界大戦後、イタリアでは、キリスト教民主党と共産党の二大政党が対抗していて、
中央権力は右派のキリスト教民主党の手中にあり、中央政権は、復興のための資金を
政敵であるボローニャに回さないように画策したりの露骨なボローニャいじめをした。
ただし、その後、ボローニャはイタリアでも指折りの裕福な都市となるが、
中央政府と五分に争うまでに成長した自分たちの力量を、たとえば「演劇」で表現できないかと考えた。

「自分がいま生きている場所を大事にしよう。この場所さえしっかりしていれば、人はなんとかしあわせに生きていくことが出来る」
というボローニャ人の熱い思いを舞台に再現して、目に見えるものにしようと思い立つ。

演劇が、演劇を好きな人たちのための楽しみのためだけでなく、
目に見えないものを見えるものに変える力があり、
つまり未来の姿を映し出す鏡のような役割を持つ。

演劇集団アルテ・エ・サルーテの存在もそのようなボローニャの環境と無縁ではないように思う。
通常なら、患者が集まれば、病気を治すということのみのつながりしか持たない。
例えば病院とはそういう場所だ。
それ以上の役割は持たない。
ただし、病気は病気として受け入れたうえで、
それを越えて、
自分たちの置かれている状況(患者という立場である自分をも)や
今自分たちが考えていることを演劇という形で表し、
世に提示することで、
あるべき社会を指し示すことになるのではないか。

このように考えると誰もが演劇をやる資格を持つことになる。
専門家であることはあまり関係ない。
地域でのそれぞれの立場、
職場でのそれぞれの立場、
家庭でのそれぞれの立場、
それぞれの個人としての立場で、
演劇をやる理由があるのではないか。

だからと言って誰にでもこの日、または2018年10月に観たような作品ができるわけではない。
そこには様々なサポートする人たちがいることを忘れてはならない。

上映後に
リモートを活用したトークセッションがあった。
最後に会場から「続けていくには助け合いが必要」という意見があった。
確かにその通りで、
助け合うことが出来るような形にどのようにするか?はいつも課題だ。

資金が必要ならそれをどうするか?
人(技術)が必要ならそれをどうするか?






 

シネマe~raで「少年の君」を観た

カテゴリー │映画

10月9日(土)11時40分~

中国・香港の合作映画。
冒頭に「いじめはやめよう」のメッセージが入る。
そして、最後にも、中国はこのようにいじめ撲滅のための法体制を整えている、という具体的な事実があげられる。

こうみると、教育的な啓発映画に思うが、上映にあたっての配慮があるかもしれない。
映画自体は、もちろん、いじめはいけない、というメッセージを得ることもできるかもしれないが、
それ以前に若い男女が出会い、苦労して、その結果幸せになるという青春映画となっている。
しかも刑事が登場するクライムサスペンス(犯罪事件を扱ったスリリングな展開のもの)であり、
中国の受験戦争の厳しさ、また将来が、この受験の成否により決定するという状況が提示され、
現代が格差社会であるということもひとつのテーマになっている。

中国では大学ごとの試験は行われないので、高考(ガオカオ)と呼ばれる
全体試験の一発勝負で将来が決定する。
主人公の高校三年生のチェン・ニンが通う学校の授業の様子もすさまじい。
それぞれ机にどっさり参考書をまるで砦のように置いて、授業へ臨む。
いじめの構造も過剰な競争意識からくるものだろう。

いじめを受けていたチェンの同級生が、学校で飛び降り自殺をする。
何が起こったか観客には知らされないまま、
各教室の生徒たちは次々と教室を出ていく。
チェンも遅れて出ていく。
しかし、彼女はその理由を知っている。
飛び降りた生徒の姿を映すことなしに、
学校の各階から生徒たちが立ち並び、
飛び降りたであろう一か所を見ている。
悲しみの表情の者はいない。
無表情だったり、笑みを浮かべる者さえいる。
観客は誰かが飛び降りたことは容易に推察する。
チェンは死んだ同級生の身体を隠すように上着を被せる。
そして、その行為がきっかけで次にチェンがいじめの対象となる。

この映画のいいところは、表現がはっきりしていてわかりやすい。
各シーンの意図が良くわかる。
登場人物が出てくれば、
そのセリフ、風体、演技、場所などから、
どのような状況なのか明確だ。

だから観客の心を逃がすことなしに、
話の推進力にどんどん持っていかれる。
これは一体なぜだろう?

荒唐無稽な設定ではなく現実的な設定であることも理由かもしれない。
ただ、1カット1カットがよく考えて撮影されていて、
退屈する隙間がないというか。
退屈する時間がない映画は意外と珍しい。

やけに長い闘いやカーチェイスは意外と退屈する。
え~?この俳優にこの役?と考えている時間も退屈してる。
俳優の感情表現のために使われている時間も退屈だ。
状況説明や回想シーンも意外と退屈だ。
理解に頭を使わなければいけない内容はともすると退屈だ。
微妙なCGも退屈だ。
歌うシーンも気に入らない歌だと退屈だ。

決して珍しいカットではない。
むしろ常套ともいえる。
ただし、丁寧で、なおかつ趣向を凝らし、
場面に的確なカットが続いていく。

考えてみれば映画とはそういうものだ。
1カットの積み重ねでできている。
きれいなカットというのはあるかもしれない。
でもそれだけでは足りない。
脚本に沿った連動性の中でふさわしいきれいなカットでなければ意味がない。

「少年の君」というタイトルはいいのか悪いのか。
チェンは、ひとりの不良少年(シャオベイ)と出会う。
チラシには
チェンが語る言葉で「君が、私の明日を守ってくれた」
シャオベイが語る言葉で「君が、俺の明日を変えてくれた」とある。
少年の君、とはふたりのことをさしているのだろうか。

日本の少年法では、「少年」を20歳に満たない男女のことを指す。
映画は現在から振り返った過去を回想する形で語られている。
ふたりは罪を犯す結果となり、収監されることになるが、
未成年だと思っていたシャオベイが実は20歳を越えていて、
それが結末までの流れに影響する。
また、BetterDaysというサブタイトルもついている。
(これは英題らしい。英語圏での上映タイトルか?)

「少年だった私たちの素晴らしき日々」
僕なりにタイトルをつけてみたが、
きっとこれは採用されないだろう。






 

TOHOシネマズサンストリート浜北で「空白」を観た

カテゴリー │映画

10月4日(月)20時50分~

2日(土)にPLATで「近松心中物語」を観る予定だったが、
3日前、関係者に新型コロナの陽性反応が発生したため公演中止との連絡がはいった。

さあ、どうしよう。
その「空白」を埋めるために、映画「空白」を観ることにした。
無理やり上手いことを言おうとしてみた。
上映場所を調べたら、「TOHOシネマズ浜北」だ。

2日の土曜に観ようとしたが、スルーし、
3日の日曜もスルー、
結局4日の月曜、仕事後のレイトショーへ出向く。

券売機は多少慣れた気がした(すいていたからだと思う)
ただ、どれくらい前に入場すればいいかいまいちつかめず
10分くらい前をめどに入る。
(この日は入ると会場は誰もいなかった。)
それくらいの時間はたいてい、女性タレントが、早く来てくれた人のために、と言って、
新作映画のトピックスなどを教えてくれる。(この日は新しいマトリックスなど)
続いて、紙細工らしい、リスやうさぎが、ねえねえセンパイとか会話をするアニメ
(調べたら、紙兎ロペという)のTOHOシネマズのPRが始まる。
そして、地域のクライアントのスポットCM、
新作映画のPRが何本か続く。

月曜日のレイトショーはどこも比較的客数は少ないだろう。
パラパラとほかのお客さんが入場してくる。
僕のように一人が何人か、
そして、若者の3人組(男2人女1人)。
最後の新作映画PRの時に、映画の上映に合わせてきたかのような客もいる。
ようやく明かりが落ちる。
例の、No More映画泥棒のCMが入り、目的の「空白」が始まる。
すでに20時50分から10分以上たっていた。

これからはギリギリにすっと客席に座れるこなれた観客になろうと思う。

映画「空白」の舞台となるのは、愛知県蒲郡市。
漁に出ている小さな漁船が海を走る場面で始まる。
乗っているのは漁師である添田(古田新太)と若い漁師(藤原季節)。
添田は仕事において他人に厳しく、若い漁師はそれに参ってしまっている。

添田の中学生の娘、花音が海沿いの道をひとりで登校している。
そこに同じ学校の女二人組が追い越していき、
続いて男二人組が追い越していく。
この場面は美しく、その後の展開から振り返ると
とても感慨深い場面だ。

僕は美しく思ったが、
クラスでも存在感がなく、友人もいない一人の女の子が、
まだ映画が始まってまもない早い時間に交通事故で亡くなることを思えば、
あまりに象徴的な場面で、美しいからこそ、残酷で、哀しい。

その事故死の場面で「空白」というタイトルが小さく挿入される。
交通事故死にはきっかけがある。
小さなスーパーの店長(父から引き継いだオーナーでもある)青柳(松阪桃李)に万引きをとがめられ
外へ逃げ出した花音を青柳が追いかけたことから、女性が運転する車、そしてトラックに轢かれ、死ぬ。

添田は法を犯すような悪人ではない。
自分が正しいということに関して、妥協できない男なのだ。
部下に厳しいのも仕事に対し妥協できないからだ。
以前はひとりで回して行けたのだから、嫌でいなくなっても全く構わないと考えている。
でもこういう人間は孤立しがちだ。

娘の死をきっかけに、なぜ娘が死ぬことになったのか、
解明できないことに関して執拗に追及する。
車で轢いた運転者2人に関してはその相手ではない。
それに関してはすべて解明できているからだ。
最初の運転者である女性は轢いたことに大きな呵責を感じ、
彼女以上に罪の意識を持つことになる母親とともに謝罪に来るが
まったく取り合わない。
轢いた後、何メートルも娘の体を引きずることになったトラックの運転手に関しては頭の中にないようだ。

標的は、娘を追いかけたスーパーの店長と娘が通っていた中学校である。
スーパーの店長に対しては、万引きしたから追いかけたという店長に対し、娘は万引きなんかする子ではない、
おまえがいたずらしようとしたから逃げ出したのではないか?と考える。
学校に対しては、娘が死ぬ前に、学校のことで相談があると打ち明けられながら、
聞くことができなかったことから、いじめがあったのではないかと疑念を持つ。
どちらにも添田にとって解明できない「空白」がある。

わからないことだから、想像を膨らませば膨らませるほど怒りを生み、
元来の自分が正しいと思うことに関して妥協しない性格がここで本領を発揮する。
それがこの映画のエンジンだ。
規範にのっとって、自分が信じる行動を起こす。
スーパーに正しいことをいうために押しかけ、
騒ぎ立てるマスコミにも正しいと思う見解を述べる。
それはパワハラ、ストーカー、暴言、と言われる範疇であるかもしれないが、
一人娘を理不尽に失ったという最大の事実の前には
世間は許容せざるを得ない。

スーパーの店長も学校もその影響を受け対処する。
ここでスーパーの店長は、変わっていく。
対して、学校は変わるまいと自己保身に走る。
名もなき個人と学校という組織の違いかもしれない。
攻める方も変わっていってしまう方に標的がより向かって行ってしまうのは
無意識であろうが、人の性かもしれない。
その関係性を俳優が好演している。
それがチラシの写真によく表れている。
自己保身に走りそうになったがなりきれなかった青柳は
添田から逃げなかったからこそ、どこか「本当の」交流を生む。
それは決してハッピーなものではない。
多くのものを失う。
かけがえのないものも。
ただし、少なくとも命があれば、まだなんとかなる。

そして、終盤、亡くなった娘の四十九日だろうか?
添田と一度は出ていき戻ってきた若い漁師、今の夫との間に女の子を授かった元妻(田畑智子)の3人の場面で
娘、花音自身の無念は慰霊される。
生き返ることはないので、観ているこちらの無念は晴れないが。
知らなかったが、イルカ雲というのがあるようだ。

物語の中で、添田や青柳と絡みながら
まったく2人に影響を与えることができない女性がいる。
青柳の経営するスーパーに勤めるパート社員(寺島しのぶ)である。

彼女は本当は自分のために生きたいのだけど、
それがうまくできなくて外の世界ばかりに答えを見つけようとする。
あらゆるボランティアに首を突っ込み、
青柳が添田の標的になり、本当は中学生にいたずらしようとしたのではないかと
マスコミやSNSなどで騒ぎ立てられると、
追いつめられる青柳を守ろうと必死になる。
駅前で青柳の正しさを訴えるためにチラシを配る。
そのために全く関係のないボランティア仲間も巻き込む。

彼女の行動も規範的にはまったく間違っていない。
むしろ称賛されるべき行動といってもいい。
海岸のごみは拾われきれいになる。
捨てられた動物は保護される。
間違った罪を着せられそうな人は擁護される。
・・・。
それらの行動は何一つ間違っていない。

ただし、他人のために行動している本人の心が
空洞(「空白」)となっていく。
もしかしたら、愛する夫や子のためにその気持ちを発揮したかったのかもしれない。
能力ある自分のためにその労力を使いたかったのかもしれない。
でも、それらは自分には何にもない。
そう思ったとき、あふれている自分のまわりに目に行ったのかもしれない。
そこに「自分」をぶつけよう。(そこに依存しよう)

でもそこで「空白」は埋められない。
ますます大きくなるばかりなのは明白。
きっと自分は自分で癒すしかないのだろう。

ボランティア仲間を激しく叱責した末、
寸胴ごとこぼしてしまった炊き出しのカレーを
代わりにひとり片付けながら「わたし何やってんだろう」とこぼし、
果てしなく大泣きする彼女の映画における最後の場面のように。

スーパーがある場所は蒲郡市という設定だが、
スーパーから逃げ出した娘を店長が追いかける時に、
「井伊谷宮」と書かれた電柱看板があった。
まさかあの浜松市北区引佐町の「井伊谷宮」じゃないよなあ、と思いながら見ていたら、
「Enshu Shinkin Bank 細江支店」の文字が。
どうやらこの辺りもロケ地だったようです!