松菱跡地の「オン・ライン・クロスロード2022」へ行った

カテゴリー │いろいろ見た

昨年に続いて行われる。
文化庁委託事業で「令和4年度障害者による芸術活動推進事業」。
主催は文化庁と認定NPO法人クリエイティブレッツ。

10月22日(土)・23日(日)・29日(土)・30日(日)の日程で、浜松市街中の松菱跡で行われる。
1937年に開店した浜松初の百貨店「松菱」は浜松空襲もくぐり抜けて、
1992年には新館まで出来、売り場面積25,271㎡の静岡県最大の百貨店となったが、
2001年経営破綻の為、閉店となる。
2015年に残されていた新館の解体工事が終了し、
以来、更地のまま時が経っている。

その状態は決して望まれているものではない。
例えば浜松市に今まで縁がなかった大学生が卒業までの4年間過ごすとする。
その4年間、街中にすっぽりと茫漠とした空き地がただ存在する。
この状態はいったいどんな意味を持つだろう。
いや、変わらぬ当たり前の風景として,
もはや目に入っていないのかもしれない。

ここでイベントをやることがそのままアイロニーとなる。
昨日まで柵で囲われていた空き地が突然柵が外される。
そのことがどんな意味を持つのか?
それを考えている間に、またイベントの期限が済み、
元の立ち入り禁止の空き地に戻る。

22日(土)は音楽ステージ「風と砂利と音」が、
23日(日)は演劇ステージ「風と砂利とこと」とSPAC「松菱跡のさかさま姫」が行われることを知り、訪れる。
気候も良くなってきたので、両日とも自転車で行く。

22日は午後、長嶋水徳‐serval DOG-、Inariを聴く。
長嶋水徳‐serval DOGはご自身で作詞・作曲・編曲・レコーディング・ミックスを自宅スタジオで行っている。
そして、その音源を元にひとりで歌う。叫ぶ? 吠える? どれも当てはまる。
Inariは富士宮市で幼馴染4人で結成。
「時は幕末~」と始まる楽曲など和テイストの魅力もあるオルタナティブロックバンド。

23日は
13時~ 遠藤綾野×杉浦貴幸×羊のクロニクルズ
コンテンポラリーダンスとギターと詩の朗読のコラボ。
作品タイトルはあったのだろうか?
ギターとロックと平和の比較を叫んでいたように思う。

14時~ SPAC「松菱跡のさかさま姫」
言葉を何でもさかさまに読んでしまうお姫様の話。
松菱跡の話かと予測していたがそれは違った。
さかさまに読まれると聞いている人は意味がわからない。
つまりディスコミニュケーションの状態。
伝えたいけど伝わらない。
さかさまに読んだ言葉をさかさまに翻訳してくれると伝わる。
また、回文だったらさかさまでも伝わる。
「たけやぶやけた」なんて日常で言うことはないが、
竹藪が焼けたんだなあ、とわかる。
そんなコミュニケーションの話。
この日は航空自衛隊浜松基地ではエアフェスタ2022が行われ、
上空はブルーインパルスが時折飛んで、セリフをたまにかき消していた。


15時~ 木村劇団
それぞれの演目が長くても30分なので、インターバルの時間が空く。
その度に会場外に出て、ストリート・ジャズ・フェスティバルを聴いたりしながら
開始時間に合わせて戻って来ていたのだが、
新川モールで行われていた野外格闘技イベントを見ていたら、
ほんの少し遅れてしまった(2分ほどだが)。
すでに始まっていて、
アバンギャルドながらほぼシンデレラの筋立て通り進むこの作品の上演意図が不明のまま終了してしまった。
木村劇団とは何なのか?
木村さんとは主演しシンデレラの役を楽しそうに演じていた女性の苗字なのだろうか?
謎だ。

15時40分~ 対話空間創造舎+静岡文化芸術大学有志+ムラキング(協力:社会実験室 踊り場)
若い女性の日記のモノローグ×上半身裸の男性の叫び×ムラキングのうめき×通り過ぎる若い女性
これは練習は行われたのだろうか?
即興なのだろうか?
各自はかたくなに自分の持ち場を堅持していた。
物理的な距離は決して変わらない。
ソーシャルディスタンスを実践しているかのように。
ただし、互いに交信しているのだろう。
各自がそれを感じていたとしたらきっとそれがすべてだ。






 

鴨江アートセンターではままつ演劇フェスティバル2022「オムニバス公演」を観た

カテゴリー │演劇

10月15日(土) 鴨江アートセンター301

はままつ演劇フェスティバル2022(劇突2022)がこの日始まった。

16時~
makemake(マケマケ) 『記念日の奇跡は起こらない―奇妙で奇抜な奇人たちの奇遇な出会いからはじまる珍奇な奇談―』
演劇空間 六畳一間 『写真とろうよ!』
三日月企画(演劇ユニット デッグデグアー×草野冴月 『三日月を編む』

19時~
舞台創作チーム サンリミット 『伝説のカフェ 青い鳥~episode2 信じる魔法~』
makemake(マケマケ) 『記念日の奇跡は起こらない―奇妙で奇抜な奇人たちの奇遇な出会いからはじまる珍奇な奇談―』
演劇集団 浜松キッド 『オサムライダー』

16日の日曜日も行われたが参加団体5団体をすべて観るには
土曜日16時~の回と19時~の回を選ぶのが唯一の方法だった。
そのため、makemake(マケマケ)の公演は2回観ることとなった。

互いに話し合ったのかどうかわからないが、
そろって30分前後の上演時間で、
これも観やすかった理由の一つ。
全体を通し、それぞれ特徴が違うが、
統一感があり、ひとつのイベントとしてまとまっていた。

僕が興味深かったのが
それぞれの団体の出自が異なるということ。
つまり「演劇の理由」というか。
短めの作品のオムニバス公演ということでよりそれぞれの違いがよく表れていたと思う。

コロナ禍ということもあるかもしれないが、
観客数を欲張らず、観る側は観やすかった。
照明もシンプルだけど色数もそろっていて、多様に見えた。
ホールではないと舞台袖がないので、
舞台裏は息をひそめてじっと待機していなければならないという場合があるが、
おそらく会場の構造をうまく使っていて、
別の部屋へ抜けれるようになっていたのではないか。
そのあたりも演じる側もやりやすかったと思う。


『makemake(マケマケ)』は静岡市にある声優養成所シズセイの第1期生メンバーにより結成されたとパンフレットにある。
上演後のインタビューで、初舞台が二人いて「初舞台の割にすげ~」という話題が出たが、
僕は「思いだけでなく、積み上げた経験が生きてる~」と思った。
アニメーションの特徴として実写動画やまたは今回のような演劇以上に登場人物のキャラクター設定があると思う。
予算や生身の人間の持つ限界(肉体もビジュアルも)をアニメーションはとりあえずは簡単に乗り越えるからだ。
旅館にやってくるカップルと漫画家&編集者が遭遇し、互いの勘違いから騒動が起こる。
日常を舞台にした作品であるが、キャラクター設定が明確なのは普段学んでいることが現れているのではないかと思った。
同じ作品を2度観ることになったが、アドリブも含め、進化し、ちがう作品にも見えたのは発見だった。
話の構成がよく出来ているのでどんどんアドリブをやっても全体は崩れない安心感があるのだろう。
僕は共演者同士の距離感の近さが特徴的だと思った。
例えば顔を近づける、体に触れる、ということだ。
形式的に近い演技をしているというのではない。
これは日常の互いの距離感でもあり、同じ目的をもって日々過ごしているという同級生のような感覚。
ライトノベルでは長いタイトルがひとつのトレンドだそうだ。
「奇」が付く言葉を羅列した長いタイトルはちょっとその影響を感じた。
僕が知らない世界なので劇中使用された“世界線”(あとから調べた)という言葉と共に新鮮だった。


『演劇空間 六畳一間』は静岡大学演劇部のOB、OGが中心となり立ち上げた劇団。
上演後のインタビューでも触れられていたがスタッフに“保育”として2名のお名前がある。
小さなお子さんも混じっての稽古風景が思い浮かべられる。
セリフの応酬の最中に、お子さんが泣き出してぐずったり・・・それも演劇。
山登りに来た女性が観客に、注意書きが書かれた紙が掲げられる。
「写真を撮りますが、本当には撮影していません」というような。
客席にカメラが向けられ、シャッター音がする。
音は音響のスピーカーから流されるがすっかり安心して客席に座っている僕はドキッとする。
その微妙な居心地の悪さはこの演劇の特徴だ。
そうして演劇の世界に入り込む。
山で居合わし、被写体となるよう誘われる人たちも同じ気分を味わう。
エスカレートしていきその不条理の先に主人公の撮影の理由が示されじわりと幕を閉じる。
5歳未満のメンバーが4人増え、久しぶりの公演だったようだ。
とても理想的な集団の在り方にも思う。
その日はお子さんはどなたかに預けられての浜松への遠征だったのだろうか。


『三日月企画(演劇ユニット デッグデグアー×草野冴月』は
演劇ユニットHORIZON・草野冴月さんが書いた戯曲の作品化の呼びかけから始まった。
演出は演劇ユニット デッグデグアーの晴さん。
抽象的なテーマを多くの布や音楽を効果的に扱い、
幻想的に描く。
登場人物は夜と月。月はルナと読む。
ルナがローマ神話における月の女神をあらわすように、
夜と月は古今東西、多くの表現者がモチーフとしたことだろう。
月は魂を運ぶ船なのだという。
三日月は見ようによっては船体に見える。
湾曲している部分を下にずらせば、夜空を漂っているように見えるかもしれない。
夜という名の女性と月(ルナ)という名の女性の出会いと別れ。
マフラーは冬であることの印。
夜と月が手を合わせた時、夜は「つめた」と言い、月は「あったか」と言う。
月は去っていく運命であることを予感する。
月は寒がりな夜のためにマフラーを編む。
しかし、マフラーを渡す時が別れの時。
夜という海を月という船が通り過ぎていく。
演じるふたりの声が魅力的だった。


『伝説のカフェ 青い鳥~episode2 信じる魔法~』は予想以上に本格的ミュージカル作品だった。
脚本も音楽もオリジナルのミュージカルを上演することが結成の目的だったという。
3名の固定メンバー中心に公演ごとに参加者を募集して上演するという形をとっている。
作曲家が加わったことで今回、ミニ公演ではあるが初めてオリジナルミュージカルの実現に至ったのだという。
次回作は来年、長編のオリジナルミュージカルを予定しているそうだ。
カフェ「青い鳥」のコーヒーを飲むと、その人が抱えている問題が解決するのだという。
そんな伝説のコーヒーを目当てに客が来る。
ただし、店主は普通のコーヒーですよ、と笑うが強くは否定しない。
店主の常に笑みをたたえた佇まいが全体の雰囲気となる。
私はみんなを見守っていますよ。
そして決して否定しない。あなたの人生を肯定しますよ。
店主がいるレジ周りの装飾が丹念に作りこまれている。
ミニチュアの観覧車などがお店の特徴を表し、几帳面に置かれている。
歌によって状況や心情が語られ、ダンスと一体化していくさまは無条件に楽しい。


『演劇集団 浜松キッド』の創立は1981年。実に40年以上の歴史。
とはいえ、メンバーは当然入れ替わりもある。
入団して長い人もいれば短い人もいる。
今回は長めの人たちの「殺陣をやりたい」というリクエストに応えて、
短めの人(石牧孟さん)が台本を書いたそうだ。そして演出も行った。
「オサムライダー」というタイトルがいい。
劇中でそのことに関して言及はしなかったと思うが、
お侍と仮面ライダーを合体した言葉であることは容易に理解する。
とある町のイベントで行うヒーローショーに招かれたふたりが本番前の準備をしている。
殺陣の稽古をしたり、衣装を揃えたり。
何てことのないスーツアクターにとっての日常の時間にリアリティがある。
このアイドリングの時間の使い方がその後、話が展開してからの効果に影響を与えると思う。
急遽、敵役を務める人などキャストやスタッフが来れなくなり、
その代役を依頼主であるイベント担当者たちに頼むことになる。
巻き込まれてからの「緩」から「急」の転換はさすがだった。
出店であつらえたひょっとこのお面を被り、工事現場のコーンバーを武器にした悪役と
年令オーバーの司会のお姉さんが登場し客席を沸かせる。


この後、自主公演、高校演劇選抜公演、ワークショップが行われる。







 

あいホールでドキュメンタリー映画「マイクロプラスチック・ストーリー」を観た

カテゴリー │映画

10月10日(祝)10時~

静岡新聞で上映会の記事を読んで申し込み、観に行った。

記事にはこう書かれていた。
『プラスチック汚染問題を知った小学生らが行動を起こし、
自治体を巻き込んで、問題解決に向けて取り組む内容』。

この記事を読み、僕が頭に浮かべたのは、
小学生たちが自分たちで問題を見つけ、地球の危機を感じ、
解決したいと行動に起こす物語・・・。

まあ、そんなことはない。
先導する大人たちがいる。

ニューヨークのNPO法人・カフェテリア・カルチャーが
ニューヨーク市ブルックリン区・レッドフック地区の4年生に対し、
プラスチック・フリー特別プログラムを
5年生までの2年間実施された様子を描くいている。
(アメリカは5年生までが小学校の期間だそう。
アメリカは義務教育が13年間で、6歳~11歳エレメンタリースクール
12歳~14歳ミドルスクール、15歳~18歳ハイスクールなんだって)

映画を観ながら感じたのは
登場する子供たちの肌の色が様々なこと。
イスラム教の習慣であるヒジャーブ(スカーフ)を身に付けた女性教師もいた。
ただし日本など東アジア圏をルーツとした子供はいないようだった。

舞台となるニューヨークの第15小学校は低所得者用の市営住宅のど真ん中にあり、
家庭的にも複雑な子供が多い学校であると公式HPにある。
なるほど・・・。

レッドフック地区はアッパーニューヨークの湾岸、
マンハッタンにも近く、
映画では生徒たちが海で収集活動中、
リバティ島の自由の女神も見える。

マイクロプラスチックとは
環境中に存在する微小なプラスチック粒子のこと。
一般には直径5ミリ未満のプラスチック粒子またはプラスチック断片。

生徒たちは海でプラスチックごみを採取し、
元の形を残している具合により選別する。
捨てられたばかりのごみはそのままの形を残しているし、
年月や風雨にさらされたごみは分解されぼろぼろだ。
そうして、どんどん小さくなりマイクロプラスチックとなる。

ここで問題となっているのは
プラスチックごみが消滅することがないということだ。
それらが海に入れば海洋生物が被害を被るし、
マイクロプラスチックを食べた魚が人間が食べれば
人間の体内にもマイクロプラスチックが蓄積することになる。

そして陸で作られたプラスチックが海に流出する毎年800万トンという現在のペースが続くと、
2050年には海のプラスチックの量が魚の量を上回ると言われている。

上映後の感想会で、藤枝市から見えられた女性が、
小学生の子供さんがつい最近マイクロプラスチックについての授業があったと話されていた。

僕は現在の小学校の授業状況を知らないが、
環境問題に関することが授業に組み込まれているのだろうか?
社会の時間とか。

映画で子供たちは、知ることにより自ら考えだし、互いに語り合い、
生み出した結論に対し行動を起こす。

小学校でみんなで昼食をとるカフェテリアは分別してごみを出すが、
プラスチックごみのごみ箱はいっぱいだ。
それらを減らそうとメニューや食器を見直す。
へえと思ったが、この学校ではメニューに小袋のスナック菓子もある。
それらをなくし、プラスチックのフォークをやめて家から持参する。

また議会に出向きプラスチックごみ削減の為の意見を述べたり、
市庁舎でデモンストレーションをする。
意見を述べると言っても
議員たちが反対するというものではなく、
暖かく見守りまた積極的な行動に対し称える。
デモンストレーションといっても、
それは過激な抗議活動とは程遠く、
ニューヨーク市長も応対し、
こころよく意見を受け止める。

これらは何かというと、
「教育」だ。

そして学んでいく子供たちの姿を通し、
大人たちも気付き、行動を起こしていく。

日本でも日本語吹き替え版が声優を募集してつくられ、
こうして僕も観ることになる。

本編が終わったあとは、
日本語吹き替え版製作の過程の紹介映像が流れた。

観客は小学生の子供(それも低・中学年)連れの家族が多かった。
以前シネマイーラで観た「夢みる小学校」と時も感じたが、
もう少し上の年齢の子供や大人が観るべきと思った。

むしろ多くの子供が静かに観ているのがちょっと感動した。
終わった後「面白くなかった~」と言っていた小さな子がいたが、
それはそうだろとは思う。

でもお出かけ後のパフェとか、ランチとか、おもちゃ屋さんでのお買い物とかで、
セットで楽しい1日となる。
その中に「地球と人類の未来を考える」機会があることは
家族にとってもきっと良い日だろう。






 

穂の国とよはし芸術劇場PLATで「ミュージカル 夜の女たち」を観た

カテゴリー │演劇

10月2日(日)13時~

1948年に公開された溝口健二監督の映画「夜の女たち」を舞台化。
上演台本と演出は長塚圭史さん。
「夜の女たち」を観て、敗戦後GHQ占領下の日本の女性たちの姿、
そして男性たちの姿を描くのに、ミュージカルという考えを思い浮かべ実行される。

舞台は終戦直後の大阪・釜ヶ崎。
あいりん地区とも言い、大阪市西成区北部の簡易宿所が集中する地区。
つまりドヤ街。
現在も路上生活者が多く居住している。

戦争により大切な家族を失った者もいれば、
運よく助かった者もいる。

国民主権を基本原理とする日本国憲法が急ぎ制定されるが、
とにもかくにも人々は自分の生活をどうにかしなければならない。

闇市で稼ぐ者もいれば
“夜の女”として、男に身を売る者もいる。

「夜の女たち」は
焼きだされ、両親と妹も行方知れずで、小児結核の子を抱え、
戦地に行っていた夫を夫の弟の家で待っていた房子、
夫の妹で初心な少女、久美子、
夫が戦死した報告が入り、子どもも病死し、
その後に街で再会する妹、ダンサーをしているという夏子、
の三人を中心に描かれる。

NHKの朝の情報番組で
房子役の江口のり子さんがゲストで
この公演について語っていたが、
なぜ自分にミュージカルのオファーがあったのか?
と素直な戸惑いを吐露し、長塚さんもビデオコメントで登場した。
もちろん全国放送で述べるくらいだから決して否定的な意味ではなく、
そのような違和感も含めての企画だと思った。
ただその答えは観なければわからない。
演劇の「切なさよ!」。

思い浮かべるのはブレヒトの「三文オペラ」。
かつて浜松の鴨江寺で黒テントの「三文オペラ」を招聘するお手伝いをしたが、
山元清多さんにより舞台を東海道品川宿に置き換えられた上演台本で、
ブレヒト版の作曲家クルト・ワイルの曲が日本語の歌詞にのって、
劇団員たちにより歌われていた。

黒テントの劇団員は歌の専門家ではない。
ミュージカルという表記に怖れを抱く人もいるかもしれない。
ミュージカルというとブロードウェイ。
歌もダンスも鍛え上げられた人だけが立つ舞台。
僕はブロードウェイに行ったことがないが、
決して、歌やダンスの技術だけに特化した文化ではないだろう。
日本なら、劇団四季がミュージカルのイメージとして大きいかもしれないが、
劇団四季も元々はセリフ劇のストレートプレイから始まった。

僕は単純に
歌もダンスもあると楽しい、という思いがある。
舞台の上は基本的に自由が保障されていると思うので、
何でもありだと思う。
その中で表現者は歌やダンスが必要だと思うから
やるのだ。
あとはそれを見届けるだけ。

「三文オペラ」は
岩波文庫の戯曲の表紙カバーに
「裕福に暮す奴だけが安楽に生きられる」社会を徹底的に批判した、
という作品紹介がされている。
ただし、こちらは絞首台にかかろうとしていた盗賊の首領が爵位と褒章を得ることになるという
常識をひっくり返す諧謔精神が特徴であるが、
「夜の女たち」は例えばプロレタリアート文学のような
ストレートに社会を批判するメッセージ性が特徴のように見える。

これは「夜の女たち」が
それぞれ違う行程で堕ちていく三人の女を主題にすることで、
男と女(ああ、やはり男を前に持ってきてしまう)の違いがより明らかになる話であるからだと思う。
行き場のない女を雇い入れるのは男である。
売春婦となった女を買うのも男である。
違法な売春婦を取り締まる警官も男である。
堕ちた女たちの保護施設で「新しい女になりなさい」と諭す院長も男である。

女たちは敗戦国日本の男たちの庇護の元、格闘する。
それは不良少女たちに追いはぎにあったり、
夜の女たちにリンチにあったり、
同士討ちのように描かれる。
それは決して解決の道ではない。

夜の女を街でつかまえて性病の検査を行う収監所で房子は夏子に言う。
「あんたも憎いけど、第一に男が憎いんや。男という男に病気移して復讐してやるんや」

男がこのようなテーマを取り上げる時、
やはりどこか生真面目になるのではないだろうか。
溝口健二さんも長塚圭史さんも。
自らが男であることがまるでハンデであるかのように
殊勝な心持ちで、自分と異なる性を持つ人たちを描くのではないか。

音楽は荻野清子さん。
三谷幸喜さんの演劇や映画で組むことも多い。
僕は黒テントの演劇でお名前を知ったと思う。
長塚さんが歌詞を書き、荻野さんが曲をつけた。

房子が夜の女へ古着屋の女に誘われるときささやく
「みんなやってる」をフューチャーした曲、
死んだ夫の名前「大和田健作」と残された遺品の数々を
「おおわだ~ けんさくさん~♪」と歌った曲・・・。

これらは、軽々に茶化す事の出来ない物語を
どこか軽やかにする効果がある。
ダンスホールでは男も女もみんな同じ、
みたいな。クラブでも。

ここで僕たちは大いに気が付く。
AKB48でセンターを張っていた夏子役の前田敦子さんが歌っている。
大阪府立富岡高校ダンス部の「バブリーダンス」のキャプテンだった久美子役の伊原六花さんが踊っている。
これは経済として成り立たせている演劇の大きな魅力だ。

アンカーマン的な役割は北村有起哉さん。
社会派ドラマとして成り立たせるのに必要な説明的な長いセリフを見事にこなす。
観客との橋渡しとも言えるが
やはり役割を果たすのは男性であり、
男性の僕には、異性のことはいつまでたってもわからない
男性たちの苦悩に思えた。

江口のりこさんは僕が観た映像や舞台ではクールなイメージだったが、
情念の部分を引き受けた舞台を見ることが出来たのは良かった。
DVDで映画「夜の女たち」を後日観たが、
房子を演じた日本映画を代表する女優・田中絹代さんとすごく重なるように見えたのは
やはり、演出の長塚さんの狙いだったんじゃないかと推測した。

歌のことを最後に言うと、
北村岳子さんによる
女性の操を守る教育機関「純潔協会」の教育夫人の歌は、
文節ごとに歌い方を変える細かな表現で、
さすがだと思った。
何がいいかって、何より言葉の意味が伝わる。
そのような技術を持つ人を揃えることこそミュージカル、
という人の気持ちもわかる気がした。







 

シネマe~raで「川っぺりムコリッタ」を観た

カテゴリー │映画

9月25日(日)13時20分~

9月27日、元首相安倍晋三氏の国葬があった。
形式に対し議論を呼んだが、多くの方が献花台に並んだ。

この映画も「弔い」を取り扱っている。
電車に乗ってやって来た山田は富山の塩辛工場で働き始める。
山田の事情を知っているらしい社長に紹介される住処が「ハイツムコリッタ」。
川っぺりの近くにある。
誰が飼っているのかつながれたヤギのメエという鳴き声が人の会話をじゃまする。
山田にとってはその方が都合がいいのかもしれない。
そもそも人と対話したくないのだから。

工場に通い、ハイツで過ごす山田に連絡がある。
疎遠だった父が死んだという。
アパートでの孤独死で、
身寄りが見つからなかったので
すでに焼却され、遺骨が保管されているという。

山田は連絡をしてきた父の居住地の自治体担当者から、
遺骨を受け取り持ち帰る。
とは言え、埋葬する墓も金もない。

その山田個人の事情と共に映画で描かれるのは
ハイツムコリッタの住人達とのやりとり。
個人の事情が他人との関わりの中で結びつき、ラストシーンにつながる。

ムコリッタとは、牟呼栗多と書く仏教用語で、
「しばらく」、「少しの間」、「瞬時」「刹那」の意味を持つ時間の単位だそう。

夫が亡くなり娘と二人暮らしの大家さん。
風呂を貸してくれと引っ越し初日に現れる隣の男。
小学生の息子を連れて墓石のセールスをする男。
紫色の花が咲いたと言う年配の女性はすでに亡くなっている。
ここには幽霊さえ入居しているのかもしれない。

古くて家賃も安そうなハイツに住む人たちはそれぞれ事情を抱えているが、
わざわざ他人にそのことを述べるわけではない。

時間を重ねるうちに徐々にそれぞれの事情が見えてくる。
ただし、そのことを解決しようと直接関わることはない。
そもそも他人なのだから。
それでもそれぞれの事情を推し量る。
それぞれの距離をおきながら。
そうして時間だけでなく、心も重ねていく。

大家さんの娘と墓石のセールスマンの息子は川っぺりにある
ゴミ集積所で一緒に過ごすが、年の差があり、どう見ても恋には発展しそうもない。
でもここに一緒に居る理由がある。
息子は捨てられた電話機のそばでどこかと交信するかのようにピアニカを演奏し、
娘は宇宙人と交信しようと長い紐を頭上で回す。
まるで祈りのように。

監督の荻上直子さんと言えば代名詞のように「かもめ食堂」が思い浮かぶが、
こちらは北欧フィンランドのヘルシンキが舞台だ。
ヘルシンキは童話「ムーミン」の作者トーベ・ヤンソンの出身地だが、
僕はなぜか「ムーミン」を思い起こした。
ムーミン谷の人々。
現実をこえたあるひとつのユートピア。
ただしそこには常に死の影があり、
現実以上に現実的でもある。

山田がはじめてハイツムコリッタにやって来る途中、川を見て思う。
「雨が降ったら、ここに住んでる人は大変だ」
先週末の大雨の被害が今も解決しない方々がいる。
もしかしたらいつもギリギリのキワに生きているのかもしれない。
僕たちは。
“川っぺり”に。

山田の行動は大きなものではない。
父の遺品の携帯電話に複数の同じ番号の着信歴に電話すると
そこは「命の電話」だった。
父が死んだ理由を知ろうと、
遺骨を受け取った父の居住地の自治体担当者に会いに行く。
そして父の終の棲家となったアパートへ行く。

生と死はまったく正反対のものであるが、常に同居しているものでもある。
生を象徴するものがこの映画では“食べること”。
その証のように畑で採れたキュウリやトマトを食べる咀嚼音が印象的。
山田は米を炊く才能があると隣の男に言われるが、
米のとぎ方と水の分量はあるかもしれないが
あとは炊飯器の能力なんじゃないか?と突っ込みたくなった。
でもきっと、気合を込めればうまいご飯が炊けるのだろう。

この映画は「弔い」の場面で幕を閉じる。
当然ながらその意味に参列者の数は関係がない。