鴨江アートセンターで演劇ユニットFOX WORKS「舘山寺殺人事件 LOVE STORY」を観た

カテゴリー │演劇

2月12日(日)17時~

FOX WORKSの「舘山寺殺人事件」を観るのは何本目だろう。
これは、つかこうへい作「熱海殺人事件」のパロディ版であることは、
チラシでも堂々と明かされている。

当日配布されたリーフレットに作・演出の狐野トシノリさんのあいさつによると、
2014年、「熱海殺人事件」を上演しようと思いたったが、
キャストが足りず「熱海じゃなくてもいいだろう。近場の温泉場は舘山寺。そうだ。舘山寺で行こう」
というような経緯で「舘山寺殺人事件」は生まれた、とある。

最初に僕が観たのは男性の2人芝居だった。
そこから、キャストが増えたバージョンを観るのは3本目。

この日、観ながら、考えていた。
「これは役者の芝居だなあ」

つかこうへいの「熱海殺人事件」は1973年、文学座アトリエでの初演以来、
自身の劇団つかこうへい事務所で同世代の俳優たちにより何度も演じられてきた。
稽古場には台本がなく、つか自身が語るセリフを俳優に語りながら伝える「口立て芝居」という手法で作られる。
これは作・演出のつかだけでなく、共同作業に付き合うことの出来る役者がいなければ成立しない。

つかこうへい事務所を閉め、作家に専念した時期を経て、
演劇に戻って来てから「熱海殺人事件」が上演されることはあっても、
それらは様々にアレンジを加えられた新バージョンが次々と作られる。

作・演出は変わらずつか自身が手掛ける。
ただし出演する役者は学生演劇から共に過ごした者たちではない。
平田満や三浦洋一や風間杜夫や根岸季衣や加藤健一や柄本明や、あ、男が多い、や、や、や‥‥‥。

そして1994年に★☆北区つかこうへい劇団、1996年に大分市つかこうへい劇団が創設され、
ここでも形を変え「熱海殺人事件」は演じ続けられる。(その他のつか作品とともに)。

ただし、東京都北区、大分市と言う自治体から演劇文化創設のための依頼により始まる。
そこからの活動を見ると、活動の主体は
劇作家として、自らの新作を生み出すより、
演劇経験有る無し、無名有名問わず、
“新しい演劇人”を生み出すことに費やされることになったように思う。

でもたぶん慶応大学に入り、現代詩を書いていたつかさんが
演劇のにおいを嗅ぎだしたのか早稲田に出入りし、
乗っ取るみたいに演劇らしきものを始めてから同じようなことをやり続けたのかもしれない。

「舘山寺殺人事件」という戯曲は演劇作品としての到達度とは別に、
創作過程の現場に大きな影響を与える作品だと思う。
それは俳優の演技に焦点が当てられた演劇構造になっているということ。

場所が殺人事件の取り調べする警察署、
登場人物が刑事部長と部下、そして殺人を犯したと思われる容疑者、
というのはコントでも頻繁に使われるあまりにも典型的な設定。
その上、お茶を濁す緩衝材の役割を果たす若い女性署員。
正統的な取り調べ物でも数限りないパターンの話が生み出されるかもしれない。
小学校の教室で休み時間の即興コントでも。

通常は、罪を認めたくない容疑者に対し、刑事がいかに口を割らせるかにドラマの主眼が置かれるが、
「熱海殺人事件」はその社会常識の前提をひっくり返し、
口を割る容疑者を認めない、という不条理で話が出来上がっている。
元々、常識に乗っ取っていないから、要するに何でもありという構造を作り出している。

これはつかさん自身の反発心や学生運動後のカウンターカルチャーの空気などいろいろ出てきた要因はあるかもしれないが、
僕は、この戯曲の構造が演劇を作る過程の、まるで演技指導のような形を取っていることにあると思う。
つまり、登場人物と場所を決めただけで、つかこうへいの一人即興で思いついたセリフを目の前の俳優に伝えていくうちに
いつの間にか、話になっていたという、そんな創作過程が想像できる。

刑事部長の木村伝兵衛が作・演出家。
それはつかさんとも重なり合い、
ここでは常識の殺人犯にとどまらない、理想の殺人犯(つまり理想の演劇、演技)をスリリングに作り上げる。
そして、演技指導と物語が肩を並べるように生まれて行く。
ラストは通常の取り調べドラマに戻ったかのように一件落着する。
そのねじれゆえ、どこか悲しく余韻が残るのだろう。

★☆北区つかこうへい劇団は、つかさんが2010年7月に亡くなった後、1年後の2011年7月に解散してる。
ただし、同年8月1日、劇団員有志により、★☆北区AKT STAGEを結成。
ワークショップの他、つか作品を上演し続けている。

さて「舘山寺殺人事件」。
「役者の芝居だなあ」と思ったことから遠回りしたが、
熱海から舘山寺に場所を変えることにより、
狐野さん自身の作家性も発揮される。

パンフレットで自身も触れている「観光案内」的視点。
森下千尋さん演じる木村伝兵衛は、警視庁の花形、捜査一課からやって来た部長刑事。
石牧孟さん演じる部下、鈴木銀四郎は、富山県出身の若手刑事。
みとさん演じる朝霧あかねは、若い女性刑事。
警察側3名に、本来のつか版は容疑者役の1人を加えた4名で登場人物は構成される。
容疑者、大山田八五郎を演じるのは宮地直樹さん。

その他登場するのが2人。
理想の犯人作りのサポート役として元々の不条理の構造を活かして幾度となく現れるのが、
大川裕之さん演じる「赤いジャージの男」。
この役はある意味おいしく、それゆえ、難しい。
俳優の存在感そのもので演じ、あちこち楽しかった。

そして、これが一番今回の作品の特徴だったと思うが、
容疑者に殺されたと思われる被害者の女性の登場。
大山アイ役として、心晴日和さんが演じる。

つかさんが書いたすべてのバージョンをあたっていないので、
確かな情報でないことを前提に触れるが、
この役は、主に今回では、女性刑事の朝霧あかねが、
取り調べと言う形の演技ごっこの中で演じられる役割ではなかったか?

「熱海殺人事件」は被害者の不在ゆえ自由に繰り広げられる演劇とも言える。
ここにリアルを持ってくることは、一方物語世界を壊す事にもなる。
それは、「熱海殺人事件」が初演より50年の時を経て、
「舘山寺殺人事件」も4作目という年月ゆえ到達したひとつの試みかもしれない。

容疑者となる男と殺されることになる女の悲恋が、
取調室からまるごとタイムスリップしたように取り出されて演じられる。

二人の出会いは、派遣社員として流れ作業をする工場。
ごっこで支配されていた場面に殺された女性が現れることで、
逆に場面はリアルに一変する。

付き合うことになる二人の場面は舘山寺に移る。
舘山寺のデートは具体的に美しく語られる。
観光案内としてもOKなシーン。
行ったことがない人も参考になるだろう。

そこから悲しい殺人に転じる。
その展開を味わう観客の感情はどのバージョンでも同じだ。
犯罪が悲しく切ないから、この話が成り立つ。
ただし、殺人犯であることが確定し、
エンディングに至る場面への転換が難しさがあったのではないだろうか?
染まった空気を一挙に変えなければならない。
観客には舞台から消えた心晴さんの残像が残っている。

つか演出から続くお決まりの場面である、
解決に至り、伝兵衛が渡す花束を犯人に打ち付けるところを観ながら考えていた。
でも、だからこそ新しさがあるのだろうと思った。

劇団新感線の旗揚げ公演は「熱海殺人事件」だったという。
オリジナルや新バージョンを含め、多くの俳優が基本の4つの役を演じている。
今回のように派生させた作品もあるかもしれない。
それらは観た人は、その作品とだぶらせながら観るだろう。

そんな中演じる俳優たち。
だから僕は思ったのだ。
「役者の芝居だなあ」。
だから、上演され続ける意味があるのだろう。






 

はままつグローバルフェアで「外国ルーツの若者が語る過去と未来」を聴いた。

カテゴリー │いろいろ見た

2月12日(日)10時~12時


クリエート浜松にて第13回はままつグローバルフェアが行われた。

主催は(公財)浜松国際交流協会(HICE)、はままつ国際理解教育ネット、(公財)浜松市文化振興財団。

メキシコの路上演劇祭をルーツとする路上演劇祭Japan in 浜松では、
外国人が出演したり、
多文化共生を目的としたワークショップを行ったり、
当初から外国人との縁が深い。

製造業の町とも言える浜松市には全国でも外国人居住者が多い。
2022年のデータで、日本人768,674人に対し、外国人24,932人(外国人3.14%)
他国の様子や日本の他の都市の外国人率が何パーセントかは調べていないが、
3.14%という数字はどうなのだろうか?
ちなみに2009年は3.95%。
外国人も景気などの影響で数が減っているが、日本人も少子化、市外流出等の理由で減っている。

グローバルフェアで関心あるテーマがあれば、何度か出向いている。

今回は新型コロナの影響で3年振りの対面開催だった。

2Fホールで行われた「外国ルーツの若者が語る過去と未来」を聴いた。
COLORS(カラーズ)という若者グループのメンバー4名が登壇し、外国をルーツとして浜松に来た自らを語る。
COLORSはCommunicate with Others to Learn Other Roots and Storiesの略称。

ブラジルにルーツを持つグループの代表・宮城さんは2014年の発足したCOLORSの紹介と
2005年に10歳で来日し、18年目を迎えるご自分の紹介。
言葉がわからない小学生時代は友だちと距離があったが、
中学生からは距離が近付き、
担任の助言や自らの努力で、高校、大学、就職と
道を切り開いている。
まわりには言葉がわからないなどの理由で学校に行かなくなり、
ドロップアウトしてしまう仲間もいるという。

ペルーにルーツを持つカルロスさんは15歳で来日し、湖西で過ごす。
やはり初めは学校の授業がまったくわからなかったが、諦めず努力し、
興味があった介護の仕事のアルバイトから始まり、今では介護福祉事務所を開業している。
日本語学校で体験を話したり、就職応援セミナーも行っている。
また、スペイン語、ポルトガル語の介護の本も出版した。

日系4世でフィリピンにルーツを持つキンタローさん(通称キンちゃん・金太郎から名付けられた)は、
12歳で来日し、岐阜県可児市で育つ。
静岡文化芸術大学に進学し、浜松で一人暮らし。
大学では外国にルーツを持つ学生による団体SIBとバレー部に所属。
SIBはStudents With International Backgroundsの略称。
将来はフィリピンと日本の架け橋のような存在になりたいと願う。

フィリピンと日本をルーツとするマリさんは
フィリピンで生まれ、13歳の時に来日。
現在静岡文化芸術大学の3年生で、
キンタローさんも所属するSIBの代表。
来日の時は中学で唯一の外国人で、言葉がわからず苦労した。
日本語になれてきたが、レポートを提出する時、
日本人が1、2日で出来るところ、1週間かかってしまうのが悩み。

最後に、4名が一緒に登壇し、宮城さんの進行でトーク。
10年前と比べ、テクノロジーの進化もあり、
多言語で対応してくれるところが増えたという。

カルロスさんは日本語がわからなかったり、学校になじめなくて
1カ月くらい学校へ行かなくなった時があり、
心配して学校から電話がかかってくるが、
電話に出る母親が言葉がわからない、ということがあったという。

キンタローさんはモチベーションを高めてくれているのが、
みんなのロールモデルになることだという。
彼のお母さんが母国では優秀だった能力に見合う仕事をしていたが、
日本に来ると結局パートの仕事になってしまう姿を見て、そう思ったのだという。

マリさんは、何もせずに後悔するよりチャレンジすることをモットーにしている。
どんどん質問する、失敗してもいいから自らを問い詰める。
人生は毎日勉強。自分の好きなことを勉強し、やりたいことにチャレンジする、
という心強い言葉で締めくくる。







 

シネマe~raで「あのこと」を観た

カテゴリー │映画

2月1日(水)19時50分~

フランスでは1975年まで、中絶が非合法だったという。

この映画はアニー・エルノーの小説「事件」を原作にオードレイ・ディヴァンが映画化。
大学生のアンヌが妊娠する。
舞台である1963年は中絶が発覚すれば刑務所行き。
もしも流産と認められれば咎められない。

アンヌはフランス文学を学んでいる。
教師になるという夢がある。
親の仕事が子供の学歴にも関係する時代、
労働者階級にも関わらず娘を大学に行かせてくれた親を悲しませるわけにはいかない。
だから、「このこと」が原因で大学を辞めたくない。

アンヌが置かれた状況は、
決して珍しいことではないだろう。
好奇心旺盛な、勉学への関心、異性や性に対しての興味もあり、
若者、いや人間としての根源的な衝動は抑えられない。

妊娠するにあたって身に覚えがあるが、
産婦人科では、「経験はない」と答える。
ところが、お腹に子が授かっていることを告げられる。
そこから、アンヌがこの状況をどうするかが描かれる。

違法である中絶を選択するが
現実的なタイムリミットがある。
それは、命の育みに関わる。

日本では母体保護法で、
「人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人工的に、胎児及びその附属物を母体外に排出すること」と定義されている。
人工妊娠中絶手術は、危険度から妊娠11週までに行うことが望ましいとされる。
令和2年1月~12月の累計人工妊娠中絶は14万5,340件だそうだ。

母体の命を考慮されていることが特徴だ。
現在でも妊娠中絶が禁止されている国がある。
条件もそれぞれ異なる。
それは宗教的考え方も強く影響する。

タイムリミットに向けて、映画ではテロップで「〇週目」と表示が出る。
観客は数字が大きくなるにつれ、アンヌのお腹の中の状況を知る。
それは観る側にとってサスペンスとしての効果も持つ。

映画は一貫してアンヌの一人称で語られる。
カメラの追い方が徹底しているので、
観客はアンヌ自身に没入する。

違法行為である故まともな医者は解決してくれない。
もちろんそれが当時の正義。
中絶促進の注射を打ってくれたと思いきや成長を促進する薬だった。

友人や親や、または肝心の妊娠原因の相手の男に相談しても解決しない。
悲しいかな自分の身体のこと。

自ら堕胎行為を試みたりもする。
それらがリアリティをもって描かれる。
他人である観客の心に刻み付けるように。
それはひとつ間違えると自分の命も奪いかねないスリリングさを持つ。

しかし当たる焦点はアンヌの心と体。
困難を乗り越えて成長する青春物語のようにも見える。

実はそこには3カ月の間育つ胎児が存在する。
そのことに関しては映画ではあまり触れられない。

原作の小説を読んでみた。
そこでは、アンヌが寮のトイレで、堕胎が成功し、身体から胎児を切り離す場面は、
映画と表現方法が違う気がした。

こう書かれている。
「ふたりとも黙って涙を流している。
それは名付けようのない場面、
生と死が同時に起こった瞬間。
生贄の場面」

ここでアンヌは生まれることが出来なかった命を想う。
このことは僕は映画ではあまり感じ取ることが出来なかった。
(僕の感受性のせいで、本当は十分描かれていたかもしれない。)

小説にはこのような言葉もある。
「わたしにとっては人間経験の総体のように思えることを、こうして言葉にし終えたわけである。
生と死の関係、時間の、道徳とタブーの、法律の、経験、この体を通して始めから終わりまで生きた経験を。」

映画では、教師志望だったアンヌが作家志望に変化したところで、終わる。







 

鴨江アートセンターでハルノオト/中西こでん ライブ「IN THE LIGHT」を聴いた

カテゴリー │音楽

1月28日(土)19時~

ハルノオトは「春の音」かと想像していたが、当日の演者紹介でのアクセントでは「春ノート」のようだった。
どっちの意味に取られてもいいというつもりかもしれない。

情報を知ったのは当日。
シネマe~raで予定していた「ケイコ 目を澄ませて」後、ちょうど行きやすい。
映画館から歩くのにちょうどいい距離だったが、
夜だし、寒いし、迷わず車で移動。

鴨江アートセンター104。
建物の1階、東側端の部屋。
それが今回のライブの開催場所。
鴨江アートセンターの建物は1928年に浜松警察庁舎として建てられ、
1970年からは浜松市鴨江別館として活用。
耐震上の問題もあり、全面解体の予定が、浜松市民による保存運動があり、
2013年11月から鴨江アートセンターとして生まれ変わる。(Wikipediaより)

オルタナティブスペース的な活用ができる施設として。
各ジャンルのアート団体の活動場所に、ワークショップに、
そしてアート展も行われれば、演劇やこの日のように音楽ライブも行われる。
と言っても、警察署として建てられたままの間取りを活用しているので、
どの部屋も基本的には「何もないスペース」。
椅子や机もなく、必要なら倉庫室から運ばなければならない。
劇場やコンサートホールのように舞台や客席、照明や音響装置もない。
すべて主催者が、この部屋をどう使うかによる。

ハルノオト・中西こでんのユニットライブ。
ハルノオトのMCによるとふたりが知り合ったのはそんなに昔のことではない。
浜松中心に音楽活動を続ける中、知り合う。
そこからこの日のユニット・ライブに至る。

建物の裏側にある駐車場から入り口に向かう際、
会場となる部屋の外を通るが、
これから何も行われないかのように真っ暗だった。
日程間違ったかな?と一瞬思ったが、
部屋の前には「IN THE LIGHT」と小さな案内看板が出ていた。

中にはいると窓には、カーテンが引かれ、入り口のドアにも光が漏れる箇所は新聞紙が貼られていた。
照明はプレイヤーが演奏する場所をサイドから照らすスポットと
客のうしろから正面を照らすスポットの2本。

タイトルの「IN THE LIGHT」はレッド・ツェッペリンの曲名から来ている。
これも準備にあたるふたりの会話から生まれる。
どんな音楽ルーツを経てきたか、
それはプレイヤーとしてだけではない。
音楽ファンとしてどんな音楽を聴いてきたか。
それは生き方、生活の仕方を語ること。

各自オリジナル曲の中、1曲のみカバー曲が入る。
そこにも音楽観が垣間見える。
オリジナル曲も含めそれらは彼らのほんの一部だ。
すべてを現しているわけではない。
数ある開拓されてきたさまざまな音楽手法を試したり、
同じ手法を繰り返したり。
ギター1本と自らの身体を使い。

浜松といえど寒い夜訪れた観客も
各自ほんの一部を持ち出して会場に赴く。
そして同じ時間を過ごす。

中西こでんのユニットアルバムが2月に出るようだ。







 

シネマe~raで「ケイコ 目を澄ませて」を観た

カテゴリー │映画

1月28日(土) 16時40分~

1月20日~2月9日の上映期間中、2月2日までが「日本語字幕付き上映」とある。
観れるタイミングで日程を決めたら、日本語字幕付きの回だった。
洋画では必須の日本語字幕を映画館で邦画で観るのは初めての経験だと思う。

主人公は岸井ゆきのさんが演じる聴覚障害の女性ケイコ。
ホテルでルーム清掃の仕事をしながら、ボクシングをやっている。

ボクシングをやるにもハンデがある。
ゴングが聞こえない。
セコンドの声が聞こえない。
観客の声援も聞こえない。

プロライセンスを持つが、2回勝ったという程度の経歴。
殴られるのは怖いと告白している。
東京都荒川区にあるボクシングジム。
僕が思い起こすのは「明日のジョー」。
東京に行った際宿泊した北千住の安ホテル付近を歩くと「泪橋」というジョーの名残がある。
東京と言う都市のグラデーションを感じる街。

日本で最も長い歴史を持つボクシングジムだが、
成果が伴わないからか、
所属ボクサーは減り、衰退気味。

三浦友和さん演じる会長が、メディアのインタビューに答えている。
聴覚障害の女性ボクサーの存在は実力うんぬんに関わらず興味深い取材対象となる。
「ダイエットとか健康のためとかだったと思うけど、だんだんとね・・・」

ケイコがなぜボクシングをやっているのかには、この映画では特別な意味はない。
僕たちが趣味などを深く考えずに始めるのと変わりはない。
離れた実家で暮らす母は娘のことが心配でボクシングを辞めてほしいと思っているし、
一緒に住む障害のない弟と手話で会話し、遊びに来る弟の恋人ともうまくやっている。

そうなのだ。
どこにでもあるひとりの人間の営み。
ただし、僕たちがひとりひとり違うように
「ケイコ」と僕も当然違う。

違いを思い知らされるのは、主に聴覚障害の方へのサービスである「日本語字幕付き上映」を観たことによる。
この映画は音や声という耳から入ってくる情報に注意を払って作られている。
ペンの音、風の音、鳥の声、街の音。
会話を橋梁を通る列車の音が邪魔する。

その度に、字幕が入る。
例えば「風の音がする」「鳥の声が聞こえる」「列車が通り過ぎる音がする」
聴覚障害のない僕は、映画を視覚だけでなく、聴覚でも楽しみたいと思う。
音を聞いて想像するより前に文字が目に入ってしまうことに説明過剰で邪魔だと思う。
自分の耳でどんな音か想像したいのだ。
そして、カフェでの聴覚障害者同士の手話による談笑場面では、日本語字幕が入らない。
だから会話の意味がまったくわからない。
楽しそうな彼らに対し、疎外感を感じる。

そして気付く。
僕が理解する以上に聴覚障害の方は、「僕たち」に対し、隔たりを感じているのではないか。
まったく違う世界に生きていると感じているのではないか。
たとえば視覚障害の方はどうなのだろうか?
映画館ではスクリーンは観えず、音だけが聴こえる。

ボクシングジムでは、音が対話手段だ。
パンチングボールを打ち付ける。
ミット打ちのトレーニング。
スパーリングで拳を交わす。
それらの音を監督は意識的に映画に取り込む。

僕はこの映画を観て、とても狭い世界を描いていると思った。
それは僕が住むとても狭い世界でもある。
生きている手許、足許の世界。
窮屈で不寛容な世界であるが、その形は不透明である。
平和な時代ゆえのぜいたくかもしれない。
それは他人のせいではない。
かといって自分のせいなのだろうか?
その行き場のない焦燥感を埋めるため主人公をボクシングに向かわせているとは言えないだろうか?

タイトルの「目を澄まして」は逆説でもある。
聴覚障害のケイコは「耳を澄ます」ことが出来ない。
「目を澄ます」ことしか出来ないのだ。
耳が聞こえないケイコにとって目はボクシングをやるにあたっても大きな武器として描かれている。

後半に行くに従い、まわりの状況が変わることにより、窮屈な世界は緩みを見せる。
他者とつながり始めるのだ。
ケイコのプロボクサーとしての3戦目が始まる。

試合に物語を絡ませるのはあまたのボクシング映画と同様。
しかし、ヒロイン的な劇的な結末にはならない。
あくまでも日常の一コマなのだ。
ホテルでの仕事や自宅での生活と同様に。

試合後、荒川の川べりで試合相手の女性と遭遇し、挨拶される。
相手は、建設関連会社の車で現場に向かう途中で作業着姿。
それが妙にリアルである。
ラストも音が印象的に使われる。
日本語字幕により音を聞き分けるより先に画面に映し出される。
そしてまた障害と言う隔たりをあらためて知る。

ネットニュースを見たら、「ケイコ 目を澄まして」が
2022年のキネマ旬報 日本映画作品賞第1位に選出されたという記事が載っていた。
今日からシネマe~raで9日まで「日本語字幕なし版」が上映されるよ。