藤枝ノ演劇祭2へ行った。

カテゴリー │演劇

3月5日(日)

浜松から車で藤枝へ。
この日は雨。
その日の天気予報をさかのぼったら、
「この日は高気圧に覆われて西日本。北陸、北日本では晴れ。
関東、東海は雲が多く、沿岸部では雨が降りやすい。」

13時30分から蓮華寺池公園博物館前イベント広場で行われる
劇団渡辺「蓮華寺池のさかさま姫」を観る。
開演時間間際で雨天決行と案内しているが、雨が降りしきる会場には傘をさす人がパラパラ。
博物館の軒先で雨宿りしながら開演を待つ。
「~のさかさま姫」は昨年春、静岡市のストレンジシードでも演じられ、
僕は、秋、浜松でのSPAC版「~のさかさま姫」を観ている。
観劇中、雨はより強くなり、寒くてダウンジャケットのフードを頭にかぶる。
降りしきる雨の元、傘をさし、立ちっぱなしで観ようとする人は多くはない。
僕はこれも演劇と自分に言い聞かせながら観る。
演者ばかりか観客も決して安穏と過ごせる守られた場所にいるのではない。
その関係はどこか常に対峙している。

続いて、白子ノ劇場で14時30分から第七劇場「赤ずきん」。
ウィキペディアによると赤ずきんで最も古いのは1967年にフランスで出版されたペロー童話集にあるそうだが、
それ以前にも類話が確認されているそうだ。
現代の家庭を舞台にした赤ずきん。
当日配布されたリーフレットに、
構成・演出の鳴海康平さんの今回上演のために追記された文章にこうある。
「私たちがよく知る童話・民話では、お父さんの存在感が薄いお話が少なくありません。」

僕はその例をすらすらあげることは出来ないが、
確かに赤ずきんちゃんには、お父さんの影が全く見えない。
お母さんにおばあさんの所へお使いを頼まれた赤ずきんちゃんは、道草をしないという言いつけを守らなかったため、散々な目に会うが、奇跡的に助かり、お母さんの元に無事戻ってくるという話。

本来なら夜になっても帰ってこない赤ずきんちゃんを、仕事から帰ってきたお父さんと祈る気持ちで待っていたお母さんが、
体をぶるぶるふるわせながら心配したり探しまくっているかもしれない。

病気のおばあさんだけでなく、幼い赤ずきんちゃんもオオカミに食べられてしまう過程は、
あらためてすごい話だと思う。
それでオオカミのお腹切り開かれて、おばあさんも一緒に助かるなんて。

白子ノ劇場の次は、大慶寺というお寺。
この移動、公演同士のインターバルと距離に無理があり、
到着したときは、予定開演時間を過ぎていた。
住職さんが前置きの講話を延長しながら、到着を待ってくれていた。
会場間、徒歩12分は、きっと行為の条件が限定される。
意識して速足で歩かねばならないとか。
次回は考慮を望む。

15時30分からの百景社「駆込み訴え」は、太宰治の短編小説を題材とする。
僕は、演劇祭のHPの紹介画像を見て、
本を手にしての朗読上演と思い込んでいた。
むしろ、朗読をどのように見せるのか、それに興味があり観に行ったとも言える。

ところが、本は影も形もなく、
演者は本の内容を頭に入れた上の、動きのある演劇上演であった。
途中別の人の声が入ったり、プロジェクターで文字が映し出される演出もあるが、
60分の上演時間の多くは鬼頭愛さんのひとり芝居だった。

僕はこの小説を読んだことはない。
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い~」と始まるが、
しばらくは主体がわからなかった。
誰の何のための語りなのか。
ヤコブだとか、ヨハネだとかの名が出てきて、ようやく、もしや、と思う。
寺院で
私の名が、自ら名乗ることで明かされるのは、小説の終わり、そして語りも終わる時。

のちほど、というより、観劇してから3週間以上経った、この文章を書いている今知る。
2013年の初演の時は、本を持ってのドラマリーディング。
何度か上演したのち、2021年秋からは鬼頭さんの出演となり、
4都市で上演した後の5都市目である藤枝での今回、初めて本を手放すことになったと言う。
それら過程を経た迫力があった。
今までもめいっぱい演じられたであろう。
次回はまたより自由になることだろう。
それはこの日までの過程を経た結果である。

この日最後の場所は大きな会館。
藤枝市民会館 ホールで、ユニークポイント「トリガー」。
大慶寺からの移動時、案内役の方が、ナビゲートしてくれた。
「昨日はいっぱいしゃべったんですが、今日はさっきの芝居見て、ささってしまって」と語り掛けられてからは、
梯子観劇する何人かの同行者たちとともにしばし話に花が咲く。

これも演劇祭のひとつの演出事項。
藤枝市内の街歩きや講演などの演劇上演以外のイベントもあり、
演劇人たちのみでなく、市民ボランティアたちと共に作られていることがうかがえる。

「トリガー」はユニークポイントの主宰者山田裕幸さんによる、
「テアトロ」という演劇雑誌が主催する「テアトロ新人戯曲賞」の2005年受賞作。
リーフレットに、
2004年にこの作品を書き終えた時、これはなんかの賞を受賞するだろうと思っていたら本当にいただいた作品です、
と書かれている。
格好いい。
これはご本人にとって納得できるものを書けたという時の実感だったのだろう。

ぐらついた歯に始まり、とうとう歯が抜けるに終わる。
行くべき歯医者を先送りしている間にこうなった。
それは取り返しが効かないことだった。
本人にとっても、そして周りの人にとっても。
それは一見、変わらない日常の中で起こる。

でも冷蔵庫が勝手に開けられないように施錠された鎖でぐるぐる巻きにされている日常は普通ではない。
それがあたりまえの日常であるかのように俳優は演技し、演出されている。
出来事が積み重なって行くに従い、後戻りが出来ない状況になっていく。
そんな状況に観客がフト気が付いた時、客席はみな固唾をのんでシンとしている。
いいサスペンスとは単純に言えない辛い結末。
一方の主人公であるお母さんが最後まで出てこないのが切ない。






 

穂の国とよはし芸術劇場PLATで市民と創造する演劇「悲劇なんてまともじゃない」を観た

カテゴリー │演劇

3月4日(土)14時30分~


シェイクスピアのロミオとジュリエットをモチーフにしているが、
シェイクスピアを題材とすることは企画者であるPLATの提案だったという。
上演台本・演出を担当した口字ックの山田佳奈さんが終演後のアフタートークで話っていた。

毎年開催されている、一般公募で出演者を選び、招聘した演出家等と共に演劇をつくる「市民と創造する演劇」では、
「夏の夜の夢」や「リア王」を取り上げた作品が上演されている。

今回、80名以上の応募があり、30数名が選ばれ、演劇の作り方としては、出演者たち自身の話を聞くことから始めたそうだ。
これは以前、同じ企画で俳優等の近藤芳正さんが構成・演出をした「話しグルマ」という作品の際、
山田さんが脚本・演出助手をしたときの手法に影響を受けたという。

その時のチラシ画像には「市民と創るスケッチ群像劇」というキャプションがついている。
スケッチ群像劇、この言葉に、今回の演劇のことがなるほどと思う。

人間ひとりひとりには当然ドラマがあり、
例えば、街中で行き交う人たちを見ながら、四角いフレームを設けてみて、
その中の人たちの人生を切り取って、ドラマにしたらどうだろう?
ということは成り立つと思う。

ただし、ただそれを垂れ流しただけでは、収拾がつかなく、てんでバラバラになってしまうので、
それを集約して、観客の許容に見合う上演時間と内容に収めなければならない。

まあ、それが演劇をつくるということだ。

そこにシェイクスピアがたすき掛けするように入ってくる。
シェイクスピアとは何だろう?

一貫して流れてきた音楽はバグパイプの音を特徴とするスコットランドの民謡風で、
1か所実際に、聞けば誰でもわかる「勇敢なるスコットランド」が流される。
舞台セットは、古代ヨーロッパの神殿を思わせる石楼が立ち並んでいる。
(石楼は発泡スチロールを素材に市民たちによる作られたそうだ)

これがシェイクスピアらしさだろうか?
シェイクスピアはイングランドに生まれ、ロミオとジュリエットはイタリア・ヴェローナを舞台とする。

今回のタイトルは「悲劇なんてまともじゃない From Romeo and Juliet」。
悲劇なんてまともじゃない、とはどういう意味だろう?

まともじゃないとは、どうかしてるとか、とんでもないとか、またクレイジーだとかいかれてるとかの意味。
つまり「悲劇」を否定し、人生を全肯定しようという心意気を示そうというのだろうか?

物語はひとりの男のモノローグから始まる。
介護士であるが、だからこれからその話が中心になって展開するわけではない。
ロミオとジュリエットの恋愛劇のパートはホストクラブのホストと客である女性の間で行われる。
なぜかいつも記者に囲まれている総理大臣は、他の登場人物たちと何の関係があるのだろう?
常に位置についてよーいドンの競争をする人たち、ウーバーイーツを代表とするフードデリバリーの人たちが行き交う。
突然やたら物語る人が現れ、自分の出自、友人、水産高校時代のエピソードが語られる。
タワーマンションに住むお嬢様は、足が不自由な車いす生活で、ひとり長ったらしい、まるでシェイクスピアの登場人物たちのような詩的なセリフを口にしながら思い悩んでいる。

ホストクラブでの本気になった恋愛沙汰の果て、結婚をとりしきる自分の恋には恵まれないウエディングプランナーは、最後、ロレンスですと、ロミオとジュリエットの間を取り持ちながら結果として、悲劇のきっかけをつくるロレンス神父と同じ名だと名乗る。

ロミオとジュリエットに登場人物の名は、あくまでも記号である。
ロミオと言う名のホストと恋仲になるのはジュリエットではなくロザライン。
ロザラインとはロミオがキャピレット家の舞踏会に忍び込み、ジュリエットに一目ぼれするまで恋焦がれてた女性の名。
ジュリエットとは、パンフによると、タワマンに住むお嬢さんの名らしい。

これは、ロミオとジュリエットとのみでなく、シェイクスピアという名自体を料理に味付けするスパイスのように振りかけた作品なのではないか。
僕たちにとって、シェイクスピアって何なんだろう?
名前や「ハムレット」や「マクベス」のタイトルなど、聞いたことはあるけど、よく知らないという人もいるだろう。
日本人なのになぜ英国の劇作家?という人もいるかもしれないが、
だからと言って、日本の古典劇をよく知るわけでもない。

この日僕は、この劇場の舞台は大きいなあと思いながら観ていた。
僕も演劇をやっている身からの実感かもしれない。
広い舞台なりに、その広さを広すぎないと感じさせるために制作者は工夫をする。
セットを組めば、それ以上に舞台は広く見えない。

特に奥行きがある。
奥行きがあることを隠さない。
これは紛れもなく、町である。
もしかしたら国かも知れない。
そこにそれぞれのスタンスで生活している人たちがいる。
それを市民劇の土俵で表してみよう。
そんな試みだったと思う。
コロナから3年。
コロナ禍が続く中計画され、しかもそれまでの鬱積を吹き飛ばしたいという欲求。
それは延期、無観客実施の東京オリンピックを経て、
サッカーワールドカップ、WBCの熱狂ぶりを見てもよくわかる。

山田さんがアフタートークで語っていた。
全員が集まることが出来たのが、本番の4日前。
言うまでもなく公募で参加する人たちは立場もさまざま。
多くの人は仕事や学校に通いながら参加する。
近くの人ばかりでなく市外から参加していた人もいるようだ。
その上、ひとりひとりから話を聞き、物語に投影しようという。
今やらなきゃ後悔すると語りながら、
一方エネルギーを吸い取られたとこぼす。
そして、シェイクスピア。

この構想自体、まともじゃない、のかもしれない。
「まともじゃないから面白い」
このスローガンを言うことが目的のように幕は閉じるが、
これはきっと本音だろう。







 

掌編小説『雪日和』を書いた

カテゴリー │掌編小説

掌編小説 その7
テーマは「冬」。
秘境系AV女優・麻美ダリア(芸名)が撮影監督他・山元健三(仮名)と雪国に動画撮影に行こうとするまで。

2月25日にシネマe~raで「雪道」という従軍慰安婦問題を描いた韓国映画を観たが、
この「雪日和」を書いたのはそれより前。


『雪日和』   

                   
                     寺田景一


天気情報を朝のテレビニュースが伝えている。
それを見ている女はソファーで長い髪をとかしながら言う。

「通行止めになるかもって」

撮影道具を鞄に詰めながら男はテレビに目をやる。
大雪の様子は、これからふたりが向かおうとしている地域の中継映像だった。
地方局の女子アナが大雪の中、マイクを持ち立たされている。

女は麻美ダリアという名でAV女優をやっている。
男は山元健三と名乗っているが本名は違う。
どちらも借金の形に裏ビデオ制作をやらされている。
ダリアは女優として脱ぐ。
健三はカメラマン、監督と言えば聞こえはいいが、要するに女優以外のすべてを受け持つ雑用係。
シナリオも一応書くが、そこに大きな意味はない。
どこで撮影するか。
つまりどこで脱がせるか。
それだけ決まればあとはどうにかなる。

麻美ダリアのシリーズは、極限の地で脱ぐことを売りにしている。
タイトルを羅列する。
孤島の断崖絶壁。
未開のジャングル。
灼熱の砂漠。
深海の沈没船。
百獣のサバンナ。
超然の空中都市。
真空の宇宙遊泳。
‥‥‥。

と言ってもどれもインチキみたいなもので、それらしい場所を探して、それらしく撮影する。
大袈裟な音楽とナレーションで盛り上げる。
タイトルと実際の映像のギャップもこのシリーズの売り。
ナレーションはカメラを回しながら、健三が同録で語る。
終盤になると健三も脱いで、本番行為に突入する。

この日撮影するビデオのタイトルは「雪国のペガサス」。

雪国をロケ場所に選び、温泉旅館を取ってもらっている。
そこで撮り足らないところを撮影する場合もあるが、これは裏ビデオ制作元の一応慰労のしるし。
「温泉つかって、うまいものでも食ってこい」という。

ふたりは今いるマンションに一緒に住まわされている。
逃げたくても逃げないと見透かされている。
二十代前半の婚姻関係のない男と女だが、健三が申し出て、別の部屋で寝る。
ダリアはさみしいから一緒にと言ったが、とりあわなかった。
仕事以外に抱くこともない。

元々それぞれの持ち物は少ない。
家具はそろっていて、必要な物は支給される。
撮影に係る費用は衣装も含めすべて用意される。

短期間の納期で、アダルトビデオがアップされればいいのだ。
それは違法ルートで販売される。
ショップやネットのダウンロードで。

警察の捜査が入れば、しょっぴかれるだろうが、いちいち摘発していたら追い付かないくらい同じような商売をする者は数多くいる。
警察といえども一種サービス業なので、一般庶民が騒ぎ立てる案件から重い腰を上げる。

「すごい雪。やっぱり通行止めだって。どうする?」

ソファーに座りながらメイクを大雑把に整え終えたダリアがテレビに目を停めたまま言う。
メイクの仕上げも衣装の着付けをするのも健三の仕事だ。
撮影現場で目隠しフィルムを貼ったライトバンの中で行うのは、しょっちゅうのこと。

「行かなきゃしょうがないだろ?」
「車通れないよ」
「通れなかったら、そこで降りて、撮ればいい」
「温泉は?」
「あきらめるんだな」
「やだよ。寒い思いして、温泉入れないなんて‥‥‥まるでサギじゃん」

ダリアが雪国出身であることは知っていた。
だからかわからないが、雪国でロケをすることは喜んだ。
雪の中、素っ裸になること自体常軌を逸しているのに。

具体的に生まれ過ごした町がどこかは知らない。
その町で小さくない詐欺事件を起して、執行猶予付きの罪を負った。
それからも人生はうまくいかず、今はここにいる。

ダリアの身体も顔も公に晒しているが、この限られた嗜好者を持つ媒体がどれだけの範囲に広がっているかはわからない。
親や兄弟姉妹、親族やダリアを本名で知る人の中で気付いている者はいるだろうか? 
いてもいなくてもダリアは気にならないだろう。
騒ぎたければ騒げばいい。
だけど、わたしは知らない。
そんな覚悟をしているように。

ダリアはこの仕事に嫌な顔一つせず、向き合っていた。
その前向きな姿勢が映像にも現れるのか、同じようなビデオ作品の中でも売り上げが高かった。
だから作品作りにも手厚く予算が出た。
闇の稼業から得た金で。
今度は海外ロケだとハッパをかけられている。

仕事に見合う給料も出たが、そちらは自動的に返済に回され、生活費だけが渡される。
借金には法外な利息がかけられているので、いつになったら完済でき、この仕事から解放されるのかは不明。
ダリアは笑顔を絶やさず、そのことをまったく気にしていないように見える。

「さあ行こうか。雪は嫌と言うほど見れる」

健三はダリアの前のリモコンを奪い、相変わらず雪のひどさを報じるテレビを消す。

「もし、途中で雪に埋まったらどうしようか?」

ダリアは雪の真っ白だった映像から黒くなったテレビ画面を見つめたまま言う。

「埋まったら、死ぬさ」

健三は何の気なしに答える。

「死んだら私と一緒だけどいいの?」

ダリアはまだ黒い画面を見つめている。

「いや、撮るさ。撮影する」
「逃げよう。ふたりとも死んだことにして」
「そんなことは出来ないよ」
「完全に埋まってしまえば大丈夫。あんなにすごい雪だし」
「見つかるさ」

突然ダリアは健三の方を向く。

「映画監督になりたかったんだよね」

一瞬、健三は言葉に詰まる。
それは子供だった時からの変わらない夢だった。

「今、同じようなことやってるよ」
「撮られているとわかるんだ。どれだけ考えて撮影しているか。絶対才能あるよ」
「たったひとりに言われても全然うれしくないよ」
「私ひとりじゃないよ。ファンがたくさんいるじゃない。日本ばかりか海外も」

極限シリーズは海外の愛好家からの支持も得ていた。

「その前に見つかって殺されるよ」
「殺すわけないじゃん。こんなに才能ある映画監督を」

ダリアは真面目な顔でそう言うと、ソファーから軽やかに腰を上げる。

健三も車のキーを強く握りしめ、雪国へ撮影に向かうべく玄関へ足を進める。







 

穂の国とよはし芸術劇場PLATでピーピング・トム「マザー」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

2月23日(祝)15時~

ピーピング・トムはベルギーのダンスカンパニー。

出演者の出身地を見ると、ベルギーのみならず、さまざまな国籍に及ぶ。
アルゼンチン/コルドバ、
フランス/ロアンヌ、
フランス/パリ、
韓国/順天、
ベルギー/ケント、
ベルギー/デンデルモンデ、
ブラジル/フロリアノーポリス、
台湾/台中、
オランダ/ロッテルダム、
日本/広島
(台湾/台中出身のイーチュン・リーさんは体調不良につき、湯浅永麻さんに変更)

そこに、公演地である豊橋PLATで募集した8名のシニアキャスト(60~70歳代)が加わる。
募集された時のチラシを見ると、
人数は6名、前日13時~21時、当日10時~終演の16時半頃までが参加時間とある。

ダンスカンパニーと言ってもダンスばかりではない。
セリフもある、というより頻繁にある。
歌も歌う。
ピアノも弾く。
映像もある。
舞台美術ばかりか、小道具も頻繁に活用される。

「演劇じゃん。」

セリフは英語。

ベルギーの公用語を調べたら、
地域により、オランダ語、フランス語、ドイツ語の3つの公用語が使われているそうだ。
国境を共有するフランス、オランダ、ドイツに支配されていたことに由来するらしい。

ふとした疑問。
サッカーのベルギー代表で選手たちは何語でコミュニケーションをとるのだろうか?
国内のあちこちから人が集まり作る演劇や映画では何語?
全国ネットのテレビやラジオは何語?

オランダ語、フランス語、ドイツ語が混用されるのか?
それとも比較的バイリンガルでしゃべれそうな英語?

今回のピーピング・トムは多国籍だし、海外での公演も想定されているので、
世界言語とも言われている英語が使用されていることは想像できる。

ちょっと調べてみた。
英語を母語としてだけでなく第二言語として話せる人を含め、
世界の英語人口は15億から20億人、
英語が話せると世界の1/3~1/4も人とコミュニケ―ションが取れるそうだ。

英語をしゃべることが出来ない僕が言うのも何だが、
日本語以外の外国語で語られる場合、
字幕付きが当たり前になっているが、
この日のように字幕がないとかえって新鮮に思う。

英語が母語でない方がしゃべると、はっきりと発音するからか聞きやすいようにも思う。
ただし多くはわからないので、
何とか意味をくみ取ろうと耳を澄ませ、
一挙手一投足にも目を凝らす。

というより、言葉がわからない人に向け、
そのように語り、演じているように思えた。

そしてその表現手段はジェスチャーゲームでないので、
説明しているわけでなく、抽象的なのだが、
ひとつひとつに明確な意味性があるように感じた。

抽象性はことによると何となく表現している気になりやすい。
本人は表現している気になっているかもしれないが、これが一体何の意味なんだろう?

不随意筋がひねり出したような意思と無関係な動きをしているように思うが、
画家の1本の線が意味を持って描かれているように、
表現者の動きはすべて意味を持つべきだと思う。

それは理解できる出来ないとは関係ない。
受け取ることが出来れば提供者も享受者もより幸せという問題はあるが。

出演者がダンサーだけでないのがこのカンパニーの特徴だと思う。
しっかりとした演技ができる俳優がいたり、
本格的に声楽を学んだオペラ歌手がいる。
ダンサーのどう見ても鍛えられた強靭な肉体を持つダンサーの力量も含め、
それぞれの分野で高い能力を持つ出演者たち。

その上で、本番当日含め2日間で高齢の未経験者も舞台に立たせてしまうことに懐の深さを感じる。
観る前は、きっと少しだけの出番かと思っていた。
ところが、何シーンも登場してきて、アンサンブルで動く場面が何度もある。

何より、カーテンコールではピーピング・トムのメンバーの間に上も下もない横並びに迎えられ、
すごく充実した舞台を成し遂げた、というような満足した顔をされている。

今回の演目である「マザー」は6年前に来日公演をした「ファーザー」に続く家族を扱った作品の第二弾。
次回作は「チルドレン」だと言う。

「マザー」はひとりの決まった登場人物を描くのではない。
母と言う存在と無関係な者はいない。
そんな誰にでも結び付くさまざまな母、マザーを描く。

葬儀場で、美術館で、新生児室で、
あたりまえの人生とは何だろう?
誰もが小さな世界で、例えば僕なら浜松市でよくある人生を営んでいるように錯覚するが、
実はどんな人生も波乱と隣り合わせで、グロテスクさと驚きをはらんでいる。

劇中、妊婦が分娩室でジャニス・ジョプリンがカバーしヒットした「「クライ・ベイビー」をアメリカ人歌手ジャニスばりに歌い出す。
こういうのは理屈抜きに好き。

舞台を構成するすべてに配慮が効いている。
それらどこにも何かしら意味がある。
そんなことを実感しながら、約80分の上演を観る。
語られている英語はよくわからないのに。
「クライ・ベイビー」も「泣きなさい赤ちゃん」はわかるが、他の歌詞は聴いてもわからない。







 

穂の国とよはし芸術劇場PLATで木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」を観た

カテゴリー │演劇

2月18日(土)13時~

木ノ下歌舞伎は豊橋で数本、豊川で1本観ているが、
先ずは魅力は、主宰者の木ノ下裕一さんなんだと思う。

1603年に京都で出雲阿国が始めたかぶき踊が始まりで江戸時代に発展し、
今に至る日本の伝統芸能(ウィキペディアより)の総称にご自分の名前を付け、
「木ノ下歌舞伎」と名乗ること自体、相当な覚悟だろう。

アフタートーク等で知るのみだが、大変な歌舞伎愛と博識があることはすぐにわかる。
ご自分は監修と補綴という役割を担う。
補綴(ほてつ)とは、おぎなってつづり合わせること、敗れた所などを縫うこと、不足を補って足すこと等あるが、
古人、先人の字句などをつづり合わせて詩文をつくること、ともある。

この日も脚本・演出の岡田利規さんと共に登場したアフタートークでも、
岡田さんとの間で4稿・5稿と脚本は稿を重ねたそうである。
第1稿の時、木ノ下さんに山ほど質問したというのが興味深かった。

木ノ下さんは、木ノ下歌舞伎としての作品の為に、
現代演劇の演出家と組む。
特に新しい視点で演出活動をされている演出家に依頼するのが特徴。

今回は、主宰するチェルフィッチュと言うユニットで自作の演出をしている岡田利規さん。

2021年6月29日に同じPLATで「未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀」を観たが、
こちらは岡田さんの作・演出で、日本の伝統芸能である能の形式を用いたオリジナル作品。
この作品は読売文学賞の戯曲・シナリオ部門を受賞している。

対して、今回はパンフレットのあいさつでも、また、この日のアフタートークでも、
ただ単に翻訳しただけ、と答えている。

鶴屋南北の「桜姫東文章」というテキストだけでなく、
歌舞伎のさまざまな構成要素とかそこに宿るコンセプトを、
木ノ下さんに助けてもらいながら翻訳したと述べている。

歌舞伎はパッと思いつくだけでも野田秀樹、三谷幸喜、渡辺えり、宮藤官九郎は新作歌舞伎を書いて、
歌舞伎役者が演じている。

木ノ下歌舞伎は、古典歌舞伎の原作を基に現代的な演出を施すというのが上演のコンセプトなので、
今回この演目を選び、上演するために新作をと言うリクエストはなかっただろう。

演出家としての岡田利規と組む。
ただし、セリフには岡田さんらしさがふんだんに活かされる。

アフタートークで歌舞伎の「桜姫東文章」を観たことがある人に挙手を求めたら、
パッと見6、7割以上の方が手を挙げたように見えた。(不確定)

この方たち、今回観てどんな感想を抱いただろうか?

たぶん今回のお客さんは以下のようにわかれるだろう。
・歌舞伎「桜姫東文章」が好きな方
・木ノ下歌舞伎が好きな方
・チェルフィッチュが好きな方
・成河、石橋静河らキャストが好きな方

僕は他の岡田さんの演劇を観たことがあるが、
その独特なスタイルを知らない方はどうだっただろう?
比較的年齢層が高いが、その方たちの感想を聞きたい気がした。

僕が歌舞伎を始めて劇場で観たのが2001年12月。
東京・歌舞伎座で12月大歌舞伎・昼の部を観た。
その頃は一時期やめていた演劇をまた始めようとしていた時で、
「観たことがなかった歌舞伎を観てみよう」という軽い気持ちだったと思う。

演目は
「華果西遊記」 市川右近、市川笑也ら
「弁慶上使」 市川團十郎、中村芝翫ら
「末摘花」 中村勘九郎、坂東玉三郎ら
「浮世風呂」 市川猿之助ら

その時の感想は
「演劇じゃん!」。

歌舞音曲が入り乱れ、美しい書割など舞台セット、
さまざまな手法を使った何でもありの演出、
しかも名の知れた役者が次々と現れる贅沢さに驚き、
それから、何度か東京へ足を運んだ。

ただし、それは拍車がかかり、通い詰めるまでには行かない。
10年以上は生の歌舞伎を観ていない。
(2013年に歌舞伎座は新装されたが、行ったことがない)

歌舞伎という芸能ジャンルは確立している。
大相撲に外国人の方の姿が見られるように
歌舞伎座の観客席に海外からのインバウンド客が座っていてもおかしくはない。
日本のエンターテイメントコンテンツの根幹のひとつであることも間違いがない。

僕が今まで観た木ノ下歌舞伎の演目は本場の歌舞伎でも上演回数が多い作品だ。
何度も観たいと思うような話のシンプルさとどこか普遍性が備わっているのだろう。
昔話なら桃太郎のような。

そういう作品を取り扱うのは難しそうだが、
むしろ演出家は思い切ったことが出来るやりやすさはあると思う。
壊し甲斐があるというか。

「桜姫東文章」は江戸幕府第11代将軍、徳川家斉時代の文化14年(1817年)に書き下ろされ、
以来、昭和42年(1967年)の国立劇場での公演まで150年、通し上演はなかったと言う。
それからは歌舞伎のレパートリーとして定着しているそうだが、
頻繁の上演をためらわせる、どこかマイナー性をはらんだ演目ではないだろうか。

今回、およそ3時間の上演だったが、本来はもっと長いので、いくつかシーンをカットしたそうだ。
そして、観客へ伝えるサービスとして、
シーンの前に、シーン名と簡単なあらすじがプロジェクターで示される。
僕は、ああ、これからこんな話の場面が演じられるのだなと知る。

誰もが約束事を知っている観客席に向かいこのようなサービスは必要がない。
ただし、あまりなじみがない人に向かって伝える場合は、必要な場合がある。
これは表現する人自身の表現の目的による。
なじみがない人に翻訳することが重要なことだと思うからこそ、伝えるために考えうる手段を取る。

僕は舞台を観ながら、登場する若い役者たちが、
歌舞伎という物を学びながら、自分たちなりに演じてみる実験を続けている場に見えた。

だから、今いる場所は稽古場だ。
高度成長期にでも建てられたバブルな様式のホテルが朽ちた後に、
衣装や道具を持ち込んで、なぜか「桜姫東文章」を演じてみる。
タイルつくりのプールには長く水が張られていない。

若者たちはどこかにたむろする習性がある。
ひとりでいることの寂しさを逃れ、理解してくれる人、もしくはしてくれそうな人がいる場所に集まる。

夜の渋谷センター街か新宿歌舞伎町のトー横か。(よく知らないけど)
そこは繁華街の路上だったり、廃墟だったりするが、
特徴はどれだけいてもタダだということ。
金がかからない。
腹が減れば、どこかにコンビニくらいはあるだろう。

そこに彼ら彼女らなりのおしゃれをして出かける。
頭の先から足の先まで。
あくまでも彼ら彼女らの基準。
センスが理解できない大人が頭の中で考えてみても不毛。

言葉も彼ら彼女なり。
言葉は、文字ずらだけで成り立っているのではない。
(戯曲は文字ずらだけで成り立っているが)
言葉に出したときの、大きさ、高さ、抑揚、スピード、感情によりさまざま。
それに伴い、身体も変化する。
伝える言葉に伝える身体。
組み合わせはパターンを分けることは出来ても、千差万別だろう。

そうして演じられる歌舞伎ごっこ。
決して江戸時代のような和装ではない。
彼ら彼女らなりに傾(かぶ)いている。

遊び道具であるはずの歌舞伎が、これまた難物で、
世の常識にとらわれない歌舞伎の中でも珍品なアバンギャルドな演目。

常識にとらわれないつもりで生きてはいるが、
実際は親思いだし、友人の大切さも知っているし、たまに先生のことも思い出すし、
先輩後輩への仁義も果たす昔気質の所もある。
近所の人と会えば、自分からは声を出せなくても、
会釈くらいはする。

歌舞伎の登場人物たちは、
平気で人をだますし、殺すし、犯す。
それが聖職のお坊さんだったりし、お姫様だって自分の性欲には正直。

金目の物を奪うためには手段を選ばず、
受けた恨みは何らかの形でいつかは晴らす。
許す事や自分だけが損をすることは考えられない。

間違いで生まれてしまった子は、
子の人生などそっちのけで、個人の事情のためにあっちこっち引き回され
あげくの果てに生んだ親に殺される。

ニュースを見ると、そんな人たちが異常に増えているという時代にも思う。
果たしてそれは事実だろうか。
近くにいた人が突然ワイドショーをにぎわせることでもないと実感はわかないかもしれない。

でも、そんなとき一様に言う周りの人の感想。
「そんなことをする人には思えなかった」
今は知らないが昔は、の前置きが入る場合もあるが。

許されざる愛ゆえの同じ彫り物に気がつく場面があるが、
腕に入った彫り物は、洗えば消えるようなマジックペンのいたずら書き。

役者たちは出番でない場面は舞台上の端で観ている。
次に出番の役者は衣装を着る。

歌舞伎には大向こうとよばれる観客からの掛け声がある。
役者の屋号名を「音羽屋」とか「成田屋」とか「中村屋」とかタイミングを計り呼びかけるのだが、
それを完全にパロディのように使う。

「いなげや」とか「ポメラニアン」とか言うが、
いなげやはスーパー名だし、ポメラニアンは犬種だ。

昔ながらのお家制度への批評があるかどうか知らないが、
敬意と言うより、(愛ある)いじりに近い。
ただし、最後に「ハレルヤ」とキリスト教かという祝福の掛け声をかけ、壮絶な場面で幕引きとなる。
そこに締め付けるような切実さはない。
稽古が終われば日常に戻る役者がいる。

彼ら彼女らがこの後、歌舞伎の魅力を知り、その世界を探求するだろうか?
そんなことはしない方が似合うようにも思う。

人間の感受性は万能ではない。
好きなもの、そうでないもの。
合うもの、合わないもの。
関係あるもの、関係薄いもの、がある。
断絶は必然とも言える。

あらためて思う。
歌舞伎の「桜姫東文章」を観た人たちは今回どんな感想を抱いただろう。
そして観ていない僕は、歌舞伎の「桜姫東文章」もぜひ観てみたいと思う。

2021年歌舞伎座で清玄、釣鐘権助が片岡仁左衛門、白菊丸、桜姫が坂東玉三郎で演じられている。
シネマ歌舞伎上の巻、下の巻でも上映されたようだ。
再上映があるかどうかは不明。
4月にDVDやブルーレイが発売されるようだが、1万円以上はする。
TSUTAYAで借りれればいいのに・・・。