穂の国とよはし芸術劇場PLATで葛河思潮社「浮標」を観た

カテゴリー │演劇

11日(木・祝)13時~

開演前、なぜかブルーハーツとか聖子ちゃんとかが流れていた。
これはどんな選曲なのだろうか。
と考えているうちに客電が消え、舞台上に照明が集まる。

いよいよ本番が始まると身構えると、
登場人物が全員現われて、客席に向かい前と後ろ2列に並んで立つと、
演出者で登場人物でもある長塚圭史さんが、おもむろにあいさつを始める。

「これは現代の話で、千葉市の郊外の話です。
ご存知かと思いますが・・・まあ、来てくださってるので・・・
上演時間は4時間で、休憩が2度あります。
ですから、リラックスしてご覧ください。」

親切なあいさつが終わると芝居が始まる準備にかかる。
ある人はそでに引っ込み、ある人は舞台の両横に並べられた椅子に座る。

舞台の真ん中には、白砂が敷かれている。
役者たちは主に砂の上で演技をする。
そこが、結核を患い療養する美緒と主人である画家をしている五郎と世話をする小母さんが住む家であったり、
文字通り、砂浜であったりする。

三好十郎による戯曲「浮標」が初演された当時は、
家の場面はセットを組んで上演していた。
砂を敷き詰めた砂浜のみを舞台にしようと考えたのは長塚さんのアイディアだ。

再々演となる今回の上演。
あいさつの最後に長塚さんは
「この戯曲に取り付かれてしまって・・・」
上演時間4時間の観劇は
その想いの足跡をたどる旅でもある。
ちなみに主演の五郎役は田中哲司さんが一貫して演じ、
今回、妻の美緒は原田夏希さんが演じる。

三好十郎は妻を病により亡くした後にこの戯曲を書いた。
自ら「イッヒドラマ(私戯曲)」と称している。
作者は、プロレタリア戯曲の書き手から、転向している。
個人主義的な主観を否定するプロレタリアと「私戯曲」は対照的とも言える。

ここには敗北感がある。

病による死への道を止めることのできない敗北感。
妻の面倒を見ることにより生活は困窮するが、
天才と呼ばれる画力を活かす仕事に向かうこともできないことへの敗北感。
科学としての医療も認めることができない。
経済の論理も認めることができない。

戦地に赴く友が訪ねてくる。
彼は小説を書く男でありながら、
小説を書くどころではない。
戦地に赴くことを、
もう帰って来ないことを前提に書いている。
つまり戦争に関しての敗北感である。

日中戦争を背景に書かれているのだが、
その後の太平洋戦争への発展し、
結果日本軍の敗戦により終結することも見越しているようだ。

その苛まれる敗北感の中、五郎はひとり抗う。
見舞いに訪れる人たちとも様々な理由で衝突する。
他の者たちはその五郎の気持ちがわからない。
ただひとり妻のみが痛いほどわかる。

妻が希望するように絵を描き始め、
妻はほめるが、本人にとっては決していい絵は描けていない。

病床の妻に、万葉を詠んで聞かせる。
五郎の解釈付きであるが、
本人言うところ、勝手な解釈と言うことだ。
しかし妻はそんな五郎に、万葉を読んでくれとせがむ。

五郎は万葉人は、
生きることを積極的、直接的に愛していた、という。
自分の肉体がうれしくて仕方がなかったと言う。
つまり、今は否定されている。

妻が元気だったころ、
尽力し、世話をした託児所の大きくなった子供たちが見舞いに来る。
子どもたちの声をそれまで登場していた役者たちが、
両横に並べられた椅子に座ったまましゃべる。
これはひとつの希望としての演出である。

もちろん妻が死んだ後も、
五郎は抗い続けるであろう。

敗北感とは、
自らの意志で進むことの代償として、生まれるものでもある。
進まなければ敗北感はない。

本人曰く、頭のよくない小母さんと通じる͡言葉がある。
これから生まれてくる赤ん坊は、
死んでいった人たちの生まれ変わりである。
これは、決して科学的とは言えないかもしれないが。

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