静岡芸術劇場でSPAC「妖怪の国の与太郎」を観た

カテゴリー │演劇

3月17日(日)14時~

静岡市美術館で「起点としての80年代」を観た後、
JR線で東静岡駅へ向かう。
昼飯を食べていないので、
駅の売店でサンドウィッチを買う。
ここは地元のパン屋さんのパンが置いてある。
まぐろかつをはさんだバーガーが好きなのだが
芝居の開演時間までそんなにないので、
2個入りのサンドウィッチのみにした。
外の芝生広場のベンチで食べる。

「妖怪の国の与太郎」は演出に2名の名が連ねられているが、
おひとりのジャン・ランベール=ヴィルドさんは
先月、浜松の鴨江アートセンターでお話を聞いた。
南インド洋に位置するフランス海外県・レユニオン島生まれの
彼がなぜ日本的な妖怪話を題材に芝居をすることにしたのか。
それは、上演後のアフタートークで宮城聡さんの言葉で少し解決した。
水木しげるさんが大好きなんだそうだ。

与太郎という男が死ぬ。
与太郎についてはほとんど説明がない。
どんな人生を送ってきた男なのか。
どこで誰から生まれ
何をやり、何を見聞きし、誰と知り合い、
何を考えてきたか。
それらは関係ないようだ。

死んだという記号のみで始まる。
ということはいわゆる通常個人として感じる死とは異なる。
死んだ経験はないので、死は怖いし、
何よりも死にたくない。

死さえも、万物の歴史から見れば、
取るに足らないとは言わないが
当たり前で、むしろ必要なこと、
という観点なのかもしれない。

話の筋はこんな感じ。
死んだ与太郎の魂が本来なら死神により閻魔大王のところに
届けられ、“死”は無事成就!というところをさまざまな邪魔が入り、
魂が奪われたりする。果たして、魂の行方は如何に!?
その道中、さまざまな日本的な妖怪が現れ、
日本的な仏式の葬儀、カラオケ、相撲など
日本的なモチーフがカリカチュアされて活用される。

同じように死後の世界を描いた作品に
落語の「地獄八景亡者戯」がある。
サバを食べて当たって死んだ喜六という男が
冥土へ向かう道中を描いている。

こちらは、死んだあと
残した子供や女房もいて、悔いはないか?と問われるが
「やりつくしたのでやり残したことはまったくない」と答え、
ここで、冥土への旅は悲しい旅ではなく、
さまざまな障害はあるだろうが、
まるでわくわくする冒険にでも行くようだ。

すると三途の川も
鬼たちも閻魔大王も
冒険の先の目標達成のために必要な障害となり、
ラスボス閻魔大王から天国行きか地獄行きかの選択を迫られる
瀬戸際も、笑いの場面となる。
そして、最大限盛り上がったところで、
オチとなる。

話の構造としては似ている。
だが、何かが違う。
それは、主人公のモチベーションである。
冥土までの道中を楽しんでやろうという欲が満々の喜六と
いつの間にか巻き込まれてしまった与太郎。

僕は日本人なので
妖怪も日本の祭りも仏式の葬儀もカラオケも相撲もどこか体になじんでいる。
だが様式化された因習から脱することはなかなか難しいのかもしれない。

対して、外国の方から観ると
それは、何のしがらみに縛られることなく、
むしろ葬儀もカラオケも相撲もそれぞれの特徴が浮き上がってくるのかもしれない。

また、ジャンさんは、劇作・演出・俳優をやられるが、ピエロ、道化師の一面を持つ。
そして、与太郎自身はジャンさん自身を投影している。
与太郎の舞台衣装であるパジャマは
ジャンさんが出演する舞台でいつも使用するものらしい。
道化師は観覧者である。
当事者になることを唯一免除される役割を持つ。
戦争が起ころうが、災害に見舞われようが、死を迎えようが、
道化師は当事者にはならない。
悲しい目に合う人たちに立ち会うが、白塗りの顔に悲しみの表情は見せない。

その視点はニュートラルだ。
国籍の違いも、生と死も、人間と妖怪も、天国と地獄も、
同じ水平線の上にある。

海外での上演も予定されているようだ。
日本的な因習に縛られている僕たちと、受け取り方は全く異なるかもしれない。

静岡芸術劇場でSPAC「妖怪の国の与太郎」を観た



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