穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールでKAKUTA「ひとよ」を観た

カテゴリー │演劇

10月3日(土)13時~

タイトルを勘違いしていたかもしれない。
僕は「ひとよ」を観に行ったのだが、
スマホのスケジュールには「人よ」と登録していた。

観劇後記念にチラシをと思い、
ラックから手に取ったら、
そこには「ひとよ」と言うタイトル名よりずっと大きく、
「●.ne night」とあった。
One Night、つまり、一夜。
「人よ」じゃなく、「一夜」だったのか?

いや、そうとも限らないだろう。
あえて、ひらがな表示にしているのは、
どちらにも読み取れることを意識した掛詞なのだろう。

人間について描いている。
これは人が演じる演劇でも映画でも文学でも
すべての作品がそうだろう。
しかし、あえて「人」という直接的な言葉を入れる。
それは、そうする必要があったと思われる。

15分の休憩を含めた2時間20分の上演後の
アフタートークで作・演出・出演の桑原裕子さんが言っていたが、
今回再々演であるこの作品の初演は2011年である。
執筆したのは東北大震災の後。
「ひとよ」を書くことにより、自ら癒されたということだ。

この作品の登場人物は
例外なく皆、痛みややましさを抱えている。
あ、ひとり、外国人と間違えられるが本人曰く、日本人の吉永さん以外は。
それはどこか震災直後の日本全体に流れる通奏低音のようなものだったかもしれない。
直接的な被害を受けていない者も我がことのように考えるような。

その時の初演以来、今回が2度目の再演であったが、
今回は準備の段階で新型コロナが世界中を覆う。
公演日程はかなり早く前から決まっている。
2月の終わりから夏にかけてなら、否応なく中止になっていたかもしれない。
東京の本多劇場で9月3日からのスタートで、
上演ができたことは、誤解を恐れず言えば、運がよかったのかもしれない。
しかしながら、上演がされたことで、僕はこうして観ることができた。

震災は直節の被災者はもちろんのこと、日本中に大きな暗い影を落としたが、
被害に合わなかった人たちが、被災者を助け、思いやるという機運が高まった。
国内のみならず、海外からも。
しかしながら、新型コロナは様相が異なる。
被災者は世界中全員である。
誰もが感染するリスクがあるし、感染させるリスクも持ち合わせている。
他人のことを思いやる前に自分のことを思いやらねばならない。

幕が開く前の客入れにアメリカのシンガーソングライター、トム・ウエイツの音楽が流れた。
CDを何本か所持しているが、曲を聴いて、すぐ曲名が答えられるまでのファンというわけでもないが、
僕もフィールドという劇団の旗揚げ公演「なだらかに世は明けて」で芝居の導入に
トム・ウエイツのオール‘55を使用した。
そして、アフリカ系アメリカ人の女性シンガーソングライター、トレイシー・チャップマンの曲が流れ、
客電が消え、上演が始まる。
トレイシー・チャップマンのデビューアルバム「トレイシー・チャップマン」は
1988年に発売された。

コンピューターを使った音楽があたりまえになる中、
素朴だが、力のある彼女の曲は広く評価されたが、
僕もとても気に入り、
就職して1年目の僕は、
なぜだったか記憶は薄いが、
西塚町のサーラで、カセットテープを購入した。

当時、レコードからCDへの移行は進み、
CDプレーヤーは持っていたが、
録音して聴くのはカセットテープなので、
カセットでも構わないと考えたのかもしれない。
CDだったら、今も聴くことができたが、
カセットテープを聴く機会はない。

彼女の曲は演出者の好みなのであろうか。
それとも音響担当者の選曲か。
終演後のアフタートークの前にもトレーシー・チャップマンの
「ファースト・カー」が流れた。

「ひとよ」は昨年映画化された。
僕は未見だが、訪れた観客のうち
観たことがある人は多かった。
アフタートークで劇場のプロデューサーであるナビゲーターが
挙手を求めたのだ。

映画化やドラマ化(つまり映像化)されるタイプの戯曲はあると思う。
また演劇として評価されているが、
映像化のイメージが沸かないような作品もある。
漫画は元々、絵とふきだし(セリフ)で表現するものなので、
映像とは親和力も強いのかもしれない。

それぞれのジャンル特有の表現にこだわる人も多い。
テレビドラマ「半沢直樹」の原作小説の作者池井戸潤さんの
かつて候補になった直木賞での講評に
「まるでテレビドラマの脚本のよう」という内容のものがあった。

それはドラマの脚本と小説とは違うものであり、
小説には小説らしいふさわしい表現がある、という考えが根にある。
池井戸作品があれだけ映像化されると、
テレビドラマのようであることが池井戸作品の特徴であり、
それが大ヒットすれば、
否定すべきだった理由も、説得力が薄まるのが趨勢になるのかもしれない。

いずれにしても、
映像と親和力があるから良いとか悪いとかはあまり意味がなくて、
それぞれが表現したくて表現したものが
たまたまそのように見えるというだけのことに思う。

今回の公演は、KAKUTAのメンバーのほかに、
主演に劇団3〇〇の渡辺えりさんと東京キッドブラザーズのまいど豊さんが
外部から参加している。
まいどさんはカーレンコールでよく喋り、
えりさんはアフタートークで実によく喋った。
役者はどなたも魅力的だったが、
このまま演劇の舞台だけでなく、
テレビ画面や映画館のスクリーンで見かけたとしても何の違和感はない。

あえてこういう人もいる。
「面白くなければ意味はない」
「心を動かしてナンボ」

韓国映画やドラマはある程度の単一な基準で作られているのかもしれない。
ハリウッドで採用される物語の公式、なんていうのもあるようだ。
これもさまざまな可能性の中のあくまでも一面なのだと思う。
それでもそれは、長く時代を経て生き残ってきた王道のひとつなのである。

そして、そこには多くの人の共感を生み、
想像させ、いろいろ考えさせる要素があるのだと思う。
ギリシア悲劇やシェイクスピアなど古典作品が今でも
演じられているように。
ちなみに映画監督、黒澤明さんは演劇の古典をモチーフに何本か映画を作っている。
ゴーリキーの「どん底」、シェイクスピアの「マクベス」「リア王」。
一方「羅生門」などは芥川龍之介の小説「羅生門」「藪の中」をモチーフにしている。

ジャンルの違いなどあれこれ深く考えず、
気軽に乗り越えてしまうくらいの方が得策なのかもしれない。
それはジャンルうんぬんでなく、
その作品自体が好きという動機で行動が起こされているはずなのだから。

ちなみに帰りに映画「ひとよ」のDVDをレンタルで借りてきた。

追記
舞台であるタクシー会社のセットのリアリティが半端なかった。
僕の前の席の母娘と思われる女性二人組はお母さんの方が、
話は色々入り組んでるけどと言いながら、
セットについてしきりに感心していた。
水回りの様子とか壁のつくりとか。
ここなら実際に小さなタクシー会社を経営できると思う。
仮眠室も完備しているし。

穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールでKAKUTA「ひとよ」を観た


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