僕が観た6月22日(土)は2つのプログラムが組まれていた。
15時~フィルム・メーカーズ・フィールド プログラム《福岡》
17時~VIEW参加作家プログラム《東京・浜松・神戸》
映像ネットワークVIEWとは、1988年に日本各地で
8ミリ、16ミリ、ビデオなどで映像表現の活動をしている作家たちの
全国的なネットワーク。
1990年代後半まで巡回上映、共同制作、合宿ワークショップ型フェスティバル
を開催するなど活動していたようだ。
全国各地には地域的な個人の映像作家たちの集団があり、
協力して、「いっちょなんかやってやろうぜ」という流れにつながったのではないだろうか。
今の時代と比較すると
映像表現の環境の変化を無視するわけには行かない。
動画の撮影などは誰もが持っている携帯電話にも標準装備で搭載され
一見何のハードルもなくなったようにも思う。
民間会社であるグーグル社が買収した動画共有サービスに作成した動画を投稿することが
ユーチューバーという職業にまでなっている。
僕の周辺に映像を撮ろうという人間が現れたのは
高校生の時だ。
8ミリカメラを所持している者が中心に
文化祭のクラスの展示物として、上映する映画を撮ることになった。
僕は制作する側ではなく、
出演者として参加した。
経緯は全く覚えていない。
内容はテレビドラマ「水戸黄門」をテーマにしたもの
というより、「水戸黄門」そのものだった。
「水戸黄門」を象徴するもの
ご老公一行が辿り着いた先で
悪代官と悪い商人越後屋の悪だくみに出くわし、
最後は印籠を出すと一同ひれ伏し、
一件落着。
そのお決まりのストーリーを
忠実になぞったものだ。
今までにない新しい映画を撮ろうなどという気負いなどは
全くなかったと思う。
テレビ番組で仕入れたコメディアンの流行りのギャグを
そのまま教室で披露する。
そんなノリだろうか。
それはある意味クラス内の親和にとっては正しい。
ただ、僕は、たぶん誰かが親から借りてきた
8ミリカメラを持ち込み、
映像作品を撮ろうという級友たちにうらやましい思いを抱いていたと思う。
僕は、カメラにも触らず、出演者に指示もせず、編集にも携わらなかった。
ただし、悪者たちの棟梁役として、中田島砂丘等で行ったロケに参加した。
覚えているのは、指示もされていないのに
自分の顔に悪人の棟梁っぽいペイントを施した。
(何だよ!棟梁っぽいペイントって)
それは一応仲間たちにはウケたのだが、
もしかしたら、自分のせめてもの主張だったのかもしれない。
僕はきっとその時、いつか自分でカメラを持ちたかったのだと思う。
でも、その後も僕は8ミリカメラを持つことはなかった。
身近に借りれるような人はいなかったし、
だからと言って、自分で購入して
仲間を募るという思いもなかった。
どこか憧れを抱いているだけだった。
文化祭とは別の機会に学校内で、
同級生たちが作った映像が上映されたのを観た。
これはいったい何の機会だったのだろうか。
覚えていない。
誰かが8ミリカメラを所持し、
周りより芸術的なものに先行している雰囲気を醸し出している
者たちによる何かの映像作品だったと思う。
ただ、映し出された野球部の試合の場面の映像では、
本来右打者の選手なのに
反転して、左打者のように映し出されていた。
出ている選手たちは知っているものばかりなので、
反転して映し出される映像は
内容よりも、違和感でざわつかせていたのかもしれない。
その時の会場の反応は覚えていない。
僕は、先行しているように思えた者たちの
失敗を笑った、とは言わないが、
どこか安心したのではないだろうか。
人は、とくに若い時などは
他人の成功がうれしいわけはないのだ。
でもこれだけは言える。
安心して笑っているよりも
失敗している奴らの方がカッコいい。
今回2日間にわたり上映された作品は
1980~1990年代という
8ミリ映画を撮りたくないわけでもなかった僕が
若気の至りで撮ってもよかった年代に撮られた作品である。
スクリーンを観ながら思った。
もしかしたら、撮らなかった僕のために撮られたのではないだろうか。
もちろんそれは錯覚であり、僕の思い上がりだ。
でも、その時代の景色、人間、息吹、意識たちが立ち上がるのを観ると
あながち間違ってはいないと思えてくる。
10年ぶりくらいに引っ張り出したという映写機が
上映の途中で、異音がすると言うトラブルがあった。
予定本数をすべて上映し終えたが、
終盤は、手動で映写機をまわしたそうだ。
もちろんそんなことに、笑うものはいない。
それは失敗でも何でもないのである。
翌23日は札幌と京阪神の作家のプログラムが組まれていたが、
僕は予定が入っていて、残念ながら行くことができなかった。