3月1日(土)14時~
遠藤周作さんの戯曲を今井朋彦さんが演出。
2020年2月15日より初演の幕を切ったが、新型コロナウイルス感染症の影響で、途中中止となる。
それ以来の再演。
主人公の山田長政は江戸時代前期、タイのアユタヤに渡り、日本人傭兵隊に加わり、そこからオーヤ・セーナ・ピモックという位を預かる日本人町の頭領となる。
Wikipediaによると駿河生まれとされるが、伊勢や尾張とする説もあるそうだ。
長政自身日本では駕籠かきで身分の高い立場ではなかった。
日本人町も長政のように異国で一旗揚げようと言う人間の他、日本で迫害を受けたキリシタンや、罪を犯し逃げて来たような者たちが住んでいた。
この地に住むモレホンと言う元神父は酒におぼれ、口に出す言葉は自分と世への憂いばかり。
対して、キリスト教を伝えるためローマから日本へ渡る途中で立ち寄ったペトロ岐部は、純粋に神の道を信じている。
諦めと希望が会話の中で交差する。
対して長政は野心に満ちた男。
神よりも自分の力を信じることでこの地位まで昇りつめた自負がある。
世はアユタヤ王朝時代。
王の世代交代に野心を持つ内部の者が反乱を画策する時の権力争い。
そこには正義のための殺しが、定食屋のセットメニューのようについてくる。
そんな平和と言う概念とは程遠いがどの時代どの国でもあたりまえの構造に、
異国から来た者たちは例外なく翻弄される。
冒頭よりタイの地の湿気と暑さが強調される。
最後も再び確かめるように言及される。
生まれて以来、それ以前の先祖からこの地に住み、気候に慣れている自分たちと、
他所から来たものが慣れるはずがないと、にじみ出る排除の心。
受け入れようとしているのか?
それとも排除したいと思っているのか?
タイトルであるメナム河の姿は舞台では見えない。
観客はその大きさも水の様子も想像するのみ。
舞台美術は豪華な金色の布で統一されている。
それらがシスティマテックに移動し、場所や場面の変化をあらわしている。
シンプルのようで、複雑な構造を持っていると思った。
(システィマテックというのが特徴。演劇では舞台に立つ俳優がセットの移動も行う時がある。
こちらはもちろん演出上だが、とてもアナログ)
俳優は言葉の意味を伝えることを特に意識されていたと思う。
また、立場が違う登場人物それぞれの役割を周到に演じていた。
それは演出の今井さん自身が俳優であることがあるかもしれない。
日本人がタイ人を演じ、今の人間が過去の人間を演じる。
そんな無理なことに対する真摯な姿勢であるようにも思えた。
アフタートークでは遠藤周作さんが作った素人劇団「樹座」のメンバーでもあり、新潮社で遠藤さんの担当もやっていた宮辺尚さんがゲスト。
宮城聰さんの司会で出演したSPACの大内智美さん、布施安寿香さんも登壇。
「樹座」は作家の傍ら、30年続き、20回の公演を行った。
メンバーは演劇の素人ではあるが、有名人ばかりで、演劇の楽しい部分のみを求めた活動だと思う。
それは遠藤さんも重々承知で、生活の主体は苦も伴う作家活動である。
小説を書くのが日常、演劇が非日常。
そこで、宮城さんが、プロの俳優にとり非日常は?という問いかけがあり、
大内さんが「俳優はお客さんにとっての日常をつくっているのかも」と答えられていた。
また、遠藤さんが1950年留学の為フランスへ船で向かう時、カルメル会の井上神父と出会ったのも大きかったのではないかと言う話も興味深かった。
許す神、甘えさせる神、寄り添う神なのだそうだ。
本来の神様はもっと厳しいものだと言われるそうだが。
その後、静岡市美術館で「北欧の神秘 ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」を観た。
ムーミンもそうだが、トロルと言う妖精という概念がある。
それらが登場する物語の場所はどこかひんやりとし、乾いているように感じる。
木々も建物も着ている物も違う。
顔も身体も肌の色も違う。
頭の中も違うだろう。
僕は先ほど観た芝居のタイも北欧も足を踏み入れたことがないが、触れたこともない空気を想像してみる。