8月29日(日)14:45~
映画をつくる人は自分で考えた作品をつくり、上映したいと思う人は多いだろう。
それでも、つくりたくてもつくれない人は多いだろう。
アマチュアなら、予算の問題は別にして作ろうと思えば作れるだろうが、
例えば映画館で配給されるような映画は、そう簡単には作れない。
自作を上映していた監督が、既存の漫画や小説を原作にした映画を撮影するようになる。
そんな中でも自分の作品を作り続けている(いた)人もいる。
まったく詳しくないので、続々に名前をあげることが出来ないが、
アメリカなら、ウディ・アレンなどそうだろう。
イタリアなら、フェデリコ・フェリーニ。
日本はどうだろう?
小津安二郎などは、自ら脚本作りに参加し、共作者と共に脚本を仕上げたそうである。
数は決して多くはないが、全監督作で脚本も書いている(Wikipediaでみる限り)
橋口亮輔は2015年に「恋人たち」という作品で
同年のキネマ旬報 日本映画ベスト・テン第1位に選ばれたが、
どういうわけかその後、映画が上映されたという話は聞かない。
韓国人監督である「逃げた女」のホン・サンスの作品を観るのは初めてである。
1996年の初監督作品「豚が井戸に落ちた日」以来、
ほぼ毎年のように新作を発表し続けている。(Wikipediaでみる限り)
すべての作品が自身の脚本によるオリジナル作品であるかは
調べていないのでわからない。
ただし、「逃げた女」は監督・脚本・編集・音楽とチラシにはクレジットされている。
また、長回しや奇妙なズームアップの演出(チラシの表現)はホン・サンスの代名詞らしい。
確かに、人物や猫や風景などにグゥッとズームアップする様子は
変わっていた。
強調する意図かと思ったが、
例えば、動画カメラを使い慣れない僕が、
被写体にカメラを向け撮影しながら、
ズームの機能があったなとおもむろに
ズームアップをする様子にそっくりなのだ。
僕自身は、これ素人っぽいな、
プロはこんな画像を使わないだろうな、
と思うような、そんなズームアップなのだ。
でもそれは、ひとつのカットとしてだけ取り出すのはあまり意味がない気がした。
映画全体の構造の中で、きっと計算されて組み込まれているにちがいない。
結婚して以来5年間、毎日夫と一緒だった妻(キム・ミニ)が、
夫が出張で家を離れる機会に、
同性の友人を訪ねるという話。
ひとりめは「先輩(かつて結婚していたが離婚し今は独身)」で、
お土産に良い肉とマッコリを持っていく。
冒頭、先輩の家の駐車場に
ミニクーパーで乗り付ける。
駐車した後に、エンジンを止めた反動で、
ガクンと音がするところが印象的。
出てきた主人公はオーバーサイズ(体躯が華奢からなのかそう見える)の
黒っぽいチェスターコートを着込み、
中は黒のタートルネック、
地味な色のパンツをはいている。
先輩に、イメージと異なる
美容院に行ったばかりの髪形をいじられる。
「いかれた高校生みたいだ」(セリフ違うかも。でもこんなニュアンス)
帰ってきた先輩の同居者(同性)とともに
持ってきた肉を焼き、食べ、話しをする。
そこで結婚して5年間夫とずっと一緒で、
はじめて、ひとりで外に出たのだという。
理由は語られない。
夫との関係もよくわからない。
5年間苦しかったのか、楽しかったのか。
途中、野良猫に餌をやっていることに隣の男が
クレームをつけにくる。
猫嫌いな妻が寝られないのだという男が
人と猫とどちらが大事なのだというのに対し、
同居者も後から出てきた先輩も、
人も猫もどちらも大事と譲らず、
答えは平行線のまま、男は納得せず去る。
主人公はその様子を玄関に出てきて、
ただ聞いている。
そこで、猫が奇妙なズームアップ。
続いて、景色のいいデザイナーズマンションにひとりで住む
独身の同性の友人を訪ねる。
こちらには似合いそうだとお気に入りのコートをプレゼントに持ってくる。
最後の3人目は、映画館(カフェも併設されている)に来た時、
偶然出会ったらしい同性の友人。
予定にはなかったのでプレゼントはない。
ただし、3か所とも、相手に、5年間毎日夫で一緒で、
今回はじめて、ひとりで外に出るのだということを繰り返す。
3か所目で、夫の職業が歴史書を中心とした翻訳家で家で仕事をし、
大学にも教えに言っていることが明かされる。
そこで、僕は初めて知る。
何だよ、主人公はずいぶん恵まれているじゃないか。
ミニクーパー乗るなんてなんかおしゃれだし。
「逃げた女」とあるが、
きっと夫が出張から戻るのに合わせて、
家に帰るだろう。
そして再びいやもしかしたら5年以上、
毎日一緒に過ごすかもしれない。
この女友達たちに再会する旅で
何を得たかは提示されない。
主人公が何を思うかも最後まで明かされない。
ただ、一度観た映画をもう一度観るだけだ。
海岸に打ち寄せる波の映像を。
3度観ることはないだろう。
映画館も上映回数が限られているし、
おそらくもう帰らないといけない時間だろうから。
方眼紙に、定規で線を書くように
理路整然と、77分と映画館で上映される1本の映画としては短めの時間軸の中に
必要な事柄が配置されている感じ。
ん?わかんない?
小津さんの映画を例に出すとどうだろう?
小津さんの映画では登場人物の名は記号のようなもので、
違う映画で役が違うのに同じ名がよく使われている。
ホン・サンスはフランスのヌーベルバーグ監督であるエリック・ロメールを敬愛しているそうだ。
エリック・ロメールは
「海辺のポーリーヌ」1983年
「満月の夜」1984年
「緑の光線」1986年
を東京での学生時代に観た。
「友だちの恋人」は観たかなあ?
いずれにしても、エリック・ロメール特集というのをやっていて
観に行ったはずだ。
何十年も前の話だ。
ただ、その後、就職で戻ってきた浜松で、
エリック・ロメールの映画を観た記憶はない。
前出の映画も一度観たきりで覚えているとは言い難い。
ウディ・アレン、フェデリコ・フェリーニ、小津安二郎、エリック・ロメール、ホン・サンス・・・。
並べてみても仕方ないが、
それぞれどこか各自、私的な思いが、作る映画に色濃く反映している人たちではないだろうか?
その思いが生涯絶えることなく(死ぬまで)映画を作り続けるエンジンとなっているのではないだろうか?
主人公を演じるキム・ミニは監督とは公私にわたるパートナーだそうで(チラシより)
今回の映画は7度目のタッグということだ。
ウッディ・アレンは主演女優らと浮名を流した。
小津さんだって、原節子さんの存在が、
原節子さんなしでは「小津映画」ではないというくらい
小津映画たらしめたのではないか。
プライベートはもちろん作品自身とは関係ない。
でもプライベートを越えたところに作品はある。
私的な思いが芸術に昇華するのは
どのジャンルでも珍しいことではない。
キム・ミニ演じるガミの視点は、
ホン・サンスと共有しているように思えた。
向けたカメラがガミの五感を受容する器官を通し、
その先をみるみたいな?(ん?わかんないか?)
食べ物を食べたり、飲んだりしたときの
咀嚼音が印象的だった。
こういうのがきっと映画の中で大事なのだろう。