9月28日(土)18時~
浜松市民オペラの歴史
第1回 1991年「カルメン」
第2回 1993年「椿姫」
第3回 1999年「三郎信康」
第4回 2001年「三郎信康 改訂・再演」
第5回 2004年「魔笛」
第6回 2007年「ラ・ボエーム」
第7回 2015年「歌劇 ブラック・ジャック」
第8回 2024年「音詩劇 かぐや」
インターバルを見ると1本つくることのご苦労が感じられる。
(大きなお世話だと言われるだろうが)
今までは「歌劇 ブラック・ジャック」の2016年の再演を観たのみ。
オペラをあまり観たことがない僕も、随所に演劇的な演出が見られ、
演劇と近く感じたことを思い出す。(むしろ近すぎたのか?面白かったが)
↓
https://ji24.hamazo.tv/d2016-09.html
今回の「かぐや」は、
作・監修:荒井間佐登さん、作曲・音楽監督:鳥山妙子さんのほか、
各役割、例えば総監督、指揮、演出、プロデューサー、舞台監督、美術、衣装等に、
専門家がきっちりと配置されているのが何といっても特徴だと思う。
あたりまえのことと言えるかもしれないが、
個人の集まりの中でやる場合、
ひとりが各分野を兼任していたり、
そんなに得意でない人が、便宜上名前を振り分けられたりする場合もあるものだ。
市民でつくりあげる市民オペラとは言え、
かなり強固な組織つくりを心がけてつくられたように思う。
専門の教育を積み、広く活躍されているキャストを担うソリストたち。
市民オペラをきっかけに結成された浜松オペラ合唱団のほか、公募で集められた市民合唱団。
子どもたちのジュニアクワイア合唱団、浜松少年少女合唱団、浜松ライオネット児童合唱団。
オペラと言うクラシックのジャンルを超えた
さざん座能舞台、モダンやコンテンポラリーのダンサー。
音楽も、浜松交響楽団の管弦楽ほか、箏、太鼓と和の音も登場する。
浜松というより、東京等で活動されている方も多い。
練習に不可欠なコレぺティトゥア(ピアノ伴奏をしながら歌手に音楽表現のアドバイスを行う)や、
合唱ピアニストの存在。
演出部として、静岡文化芸術大学の11名(1名は教員)もパンフレットには名が記されている。
将来のための教育とともに、実践としての貢献も期待されている。
第8回浜松市民オペラ実行委員会では制作、広報、イベント企画、資金獲得の部会、事務局が組織される。
その成果として、アクト大ホールには多くの観客が訪れていた。(すべての席を使用ではないが)
僕が行ったのは1日目の28日だったが、翌2日目はチケットが完売と言うアナウンスがあった。
かぐや姫の竹取物語を翻案し、地球からの視点だけでなく、宇宙からの視点も描かれる。
平安時代に生まれ現存する日本最古の物語といわれる竹取物語。
当時は月は見上げるもので、月から見下ろす視点はまだなかったと思われる。
考えてみれば、かぐやは、自ら行動しない女性だ。
でんと存在するだけで、まわりが勝手にやきもきする。
日本的な女性としての象徴なのかもしれない。
つまり運命に翻弄されるのだ。
自らの意思が及ばないところで、どんなにあらがっても及ばない。
行動はしないが強い。
そこにドラマが生まれ、歌となる。
歌い手により表現される。
銀河世界で、恋を認められないかぐやは、傷心をいやすため、地球に送られる。
ここでは“かぐや姫”でおなじみのおじいさんとおばあさんに愛され育てられるかぐや。
劇中劇がふたつあり、そのひとつが父と母に愛される娘のイメージが懐かしきわらべ歌のように描かれる。
少女役の増田琴羽さん(28日)が、天性の芝居心で演じ、観客の心を和ませる。
もうひとつが、ジャジーな曲調の音楽が特徴の酒場の場面。
天井から降りてくる複数の空飛ぶ貝のような不思議なオブジェに、ヒッピー調など時代をまたいだ衣装と印象的。
銀河世界のものたちが勢ぞろいすると、ギリシア悲劇やワーグナーのオペラ(知らんくせに)のような荘厳さを醸し出していて、
おじいさん、おばあさんと住む地球の場面とのギャップが、演出の意図を感じさせる。
作者の方が、きっと決まりきったオペラの世界にとどまらず、能や舞踊など広いジャンルとの融合を視野に入れた作り方をしている。
そこから発し、演出、演者に広がっていく。
そこに肝心かなめの楽曲の力がある。
そうしてオペラが出来上がる。
音詩劇 かぐや、か。
それもまた、意図的だ。
音・詩・劇。
ジャンルが融合する。