劇団からっかぜアトリエで劇団からっかぜ「切り子たちの秋」を観た

テトラ

2024年11月26日 22:52

11月10日(日)15時~

劇団からっかぜ70周年記念公演第2弾。

当日配布されたパンフレットにはOB・OGや関係者からの言葉の他、「舞台美術で綴る」という、1971年 三好十郎「獅子」演出 深沢大助から、2024年 ふたくちつよし「切り子たちの秋」演出 布施佑一郎までの舞台写真が掲載されていた。
そこに写る俳優は、声も出さず身体も動かさないが、
微動だにしない舞台美術と共に、雄弁に語り出すようだ。
その時代、確かにその場で生きていたということを。

切り子とは、旋盤工場で、金属加工で製品を作るために削り出されていく切りくずのこと。
舞台には目立たぬ場所に、バケツの中に盛られた「切り子」が置かれている。
ただし、それは、ふとした場面のセリフに「切り子」のことが触れられ、その存在に気が付く。

そのように、舞台上に存在している物に、不必要なものはない。
「切り子たちの秋」と言うタイトルは、登場人物たちを新製品を作るために捨てられる切りくずにたとえている。

2011年10月、劇団青年座が青年座劇場で上演した、ふたくちつよしさんにより書き下ろされた作品。
1974年、東京大田区の町工場を舞台にしているが、当時でも37年前のこと。
劇団からっかぜによる2024年では、50年も前のことになる。

なぜその時代のことを描いたのか?
2011年や2024年の今でも当てはまるテーマがあるのだろう。

佐久間製作所の事務室と自宅の居間は併設されている。
事務室には、社員の休憩所や客との応接兼用のテーブルと椅子が置かれている。
自宅の居間で切ったリンゴを、
家族も従業員も隣の従業員や取引先も近所の人も、一緒に食べたりする。

狭い東京の建物や部屋の間も人の関係も、狭かった頃の話。
戦後、経済も物価も給料も右肩上がりで駆け上っていった時代。
ただし、そんな中にもすでに大きな歪みが現れている。

中東戦争をきっかけに原油の供給ひっ迫及び高騰によるオイルショック、
次々と新しい技術が更新され、それに伴い取り残されていくものたち。
ひとつの会社がつぶれれば、そこには社員がいて、取引先がいて、それぞれ家族もいたりする。

舞台は、殿様キングスの「なみだの操」が流れるところから始まる。
なみだの操は1973年11月に発売され、翌1973年大みそかの紅白歌合戦で歌われる。
つまり、まる1年以上、世の中に流れていたということ。
流行歌と言う言葉がふさわしく、今のようにネット中心にバズる曲が次々入れ替わるのとは違う。

音効を使うことが少ないイメージがある、からっかぜの演劇では珍しいと思った。
ただし、宮路オサムのだみ声で、一気に時代をさかのぼっていく。
(まったく知らない世代の人にはどう聞こえたかわからないが)
その後も暗転による場面転換でインストゥルメンタルの曲が使われていた。

経営者で偉大な職人だった父が亡くなり、離婚し一人娘を持つ次女幸子が会社を継いでいる。
受注は減っているにもかかわらず、積極的に営業するというのでもなく、来る電話を待っている状態。
実質、工場は母、照代が仕切っている。
中学卒業して就職して以来、以前はもっといた職人の中でひとり残っている信吉。
パート従業員だが、長く働いていて、居間にまで上がり込んでいる菊乃。
隣の工場の従業員だが、こちらの方が居心地がよく休憩時間になるとたむろする満男。
信吉と満男は小さな頃両親を亡くしている共通点からか、兄弟のように仲がいい。
近所の主婦、典子は、もらったおかずのお礼と、得意料理のおからを持って工場にやってくる。
取引先の社員で配偶者と別れた藤崎のことを、照代は、不憫でならない幸子の後添えになってくれればと願っている。
父のことが大好きだった幸子の娘、直子はこんな自分の家も住む町も大嫌い。
そして長女、光子は、工場を腕のいい職人として支えていた杉山と、恩をあだで返すかのように飛び出してしまっている。

誰もが何かを失ったまま、生きている。
失ったものはそれぞれ違う。
人によっては、そんなことで?と思うようなものかもしれない。
それでも、みんな自分のことだけを考えているのではない。
他人が何を考え、どんな状態か、
顔色を見て、声を聞いて、
予測し、合っているときもあるが、間違えるときも多く、
口に出し手を差し伸べたり、見守ったりしながら、
そんなこんなで、狭い空間の中でひしめき合うように生きている。

俳優たちは、ここのこと、よくわかってるという感じで演じていた。
この場所に生きているようなのだ。
特に直子役の鈴木千笑さんは、反応の表情や仕草が的確だった。
出演者一番の年少者が落ち着いて演じることにより、全体の調和が生まれたように思う。
時間が経つとともに、その場に生きている存在は凄みを帯びていき、感動が増していく気がした。

解決は、ひょんなところから訪れる。
完璧だと思った人が、実はそうでもなかったということが判明する。
もしこの世にいたとしたら、それをひた隠し、無理やりにでも完璧を守り通していただろう。
不在ゆえの効能だったかもしれない。

でもこれもひとつの天国からの贈り物で、
この世で、じたばた格闘していたからこそ、訪れたのだと思う。
でも、実際の現実的な状況は変わっているわけではない。
変わるかもしれないという、心の変化が訪れたのだ。

2024年の現在として考えてみる。
時代が刷新されていくに従い、追いかけるように歪みが生まれていく。
それは変わらない。
たぶんいつの時代も。
誰もがつまずくのだ。
時代もつまずくのだ。
そして、それでも人は生きていく。

切り分けられたリンゴは、お芝居の嘘として、エアーで食べられていたが、
とてもおいしそうだった。

※12月1日(日)14時~ 浜松市勤労会館Uホールで、はままつ演劇フェスティバル2024参加作品を観た。






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