12月14日(土)14時~
この日は、12時30分~13時30分、SPAC文芸部・大岡淳さんによる【一般向け】はじめての別役実講座及び、終演後のバックステージツアーにも参加した。
今回の上演は昨年8月23日~9月8日、富山県の利賀芸術公園で開催されたSCOT SUMMER SEAZON2024に端を発する。
SCOT主宰の鈴木忠志さんが、次代を担う舞台芸術家が作品を創造し発表する企画「桃太郎の会」を立ち上げ、賛同した宮城聰さん、平田オリザさん、中島諒人さんが推薦する演出家が利賀の劇場で上演された。
鈴木忠志さんが選定した課題作品は、大岡昇平「野火」と別役実「象」。
会期中、上演されたのは以下4つ。
「野火」 演出:瀬戸山美咲 芸術監督:鈴木忠志 制作:SCOT(富山)
「野火」 演出:堀川炎 芸術監督:平田オリザ 制作:アゴラ企画(兵庫)
「象」 演出:福永武史 芸術監督:中島諒人 制作:鳥の劇場(鳥取)
「象」 演出:EMMA(旧・豊永順子) 芸術監督:宮城聰 制作:SPAC-静岡県舞台芸術センター(静岡)
同じ戯曲を2本ずつ別のクルーでつくり上演するというのが面白い。
今回静岡で「象」を観ると、瞬間的に福永さん演出の「象」はどんなだったろう、と思いをはせる。
バックステージツアーでは、
舞台監督、衣装、照明、音響と、話を聞く機会のないスタッフの声を聞くことが出来、新鮮だった。
その際、利賀村での作品より20分延長されているという話を聞いた。
利賀村の舞台と静岡ではサイズが異なり、そのあたりの苦労も語られた。
EMMAさん演出の利賀村での「象」はどんなだったろう、とこちらもまた思いをはせる。
EMMAさんは1988年生まれの演出家。
地域特有の文化や歴史を調べ、その場所に寄り添い制作することを大切にされていると言う。
今回は課題作ありきなので、そのようなつくり方とは違ったかもしれない。
紹介動画で、芸術監督の宮城聰さんが、これをやるのは一番難しいと思っていた「象」をEMMAさんがぜひやりたいとおっしゃったと語られていた。
「象」は1962年に早稲田小劇場にて別役実さんが書き、鈴木忠志さん演出により創立第1回公演として俳優座で上演された。
1969年、別役さんは作家として食っていくため退団し、日本を代表する不条理劇作家として、活躍される。
戯曲では、「男」による冒頭の長いモノローグは、今回の演出では、俳優が手分けして演じられていたのではないか?
実はこの作品は、「男」の話なのであるということが良くわかる。
それが、複数で共有して演じられたとしたら、「男」一人でなく、自分も含む我々の話なのだと言うメッセージかもしれない。
こうもり傘をさし、私は月であり、さびしい魚なのだと言う。
原爆による被害の悲惨さを訴える表現とは遠い。
きびしい口調ではなく、泣き叫ぶわけでもない。
あくまでも淡々と、心の内を語る。
僕は、この場面、もっとゆっくり語ってほしいと思った。
詩的表現は、日常会話と異なるので、さらっと言ってしまうと、何をしゃべられたのか記憶にとどまりにくい。
喋っている側はわかっていても聞く側は頭で咀嚼する間もなく、言葉はつらつら過ぎ去っていく。
時々、詩は文字に書かれたものを読んだ方がいいと思ったりもする理由だ。
つまり、風がさっと通り過ぎたあとのようで、まるで何も起こらなかったよう。
それは僕の感受性の乏しさや理解の足りなさかもしれない。
または、風が通り過ぎただけでいいのことなのかもしれない。
なかなかそれは体験できないが。
リアルは病室のシーンで表出される。
決まりきった病院のベッドに寝ていることで、場所は定着し、時間の経過は落ち着く。
俳優は身体表現のほとんどが封印されている。
阿部一徳さん演じる被爆者である「病人」は、病状の悪化により入院している。
かつて街頭で背中のケロイドを見せていた。
まるで大道芸人のように。
ヒロシマの様子を語り、冗談で笑わせたり、見せるポーズを考え楽しませたりしていた。
ところが原水爆禁止大会で演台に立ち背中のケロイドを見せた時、熱烈な拍手で迎えられると思っていたらみんなシュンとしている。
そして気付く。
観衆はケロイドの背中を見ていたのではない。
自分の眼をのぞきこんでいたのだということを。
それがなぜなのかわからないと言う。
「病人」は自らが受けた悲劇・被爆を肯定したかった。
そんな可哀そうな自分をみんなに認めてもらいたかった。
戦争の肯定などではない。
原子爆弾の肯定などではもちろんない。
犠牲者となってしまった自分だが、そこを否定してしまったら、
自分が生まれて来た存在意義はどうなるのだ?
生まれて来なければよかったのか?
そんなせめぎ合い、自己葛藤の中、選び取った行動なのだ。
街頭で背中のケロイドをみせること。
それが、世の他人、みなさんが、自分のために生きることとどう違うのだ?
そんな当然のことを訴える叫び。
他人はなぜケロイドに侵された自分をひけらかす「病人」の眼をのぞきこんだのか?
それは、醜いケロイドを珍しがる、いや、気の毒に思うよりも、
このような行動を選ぶ人間の思考に懐疑の意識を抱いたのではないだろうか。
なぜ?
自分だったらこんな行動はしない。
みっともない。
何より恥ずかしい。
「病人」が、かわいそう、頑張ってと熱烈な共感を抱いてもらいたいという期待に反し、思いは拒絶される。
より一層、両者の距離は離れ、孤立する。
もっとも近く、病室で寄り添う存在であったはずの「妻」は、なぜか食べ続け、身体は大きくなっていく。
ただでさえガタイの良い男性俳優・吉植壮一郎さんに「妻」を演じさせる演出のたくらみ。
「病人」が「妻」におむすびの食べ方をレクチャーする場面が妙に生々しい。
ここのみが生きている現実とも言える。
結果「妻」は「病人」のことが理解できないまま、この場をいったん離れ、生まれた町に戻っていく。
病院の「看護婦」も被爆者である。
彼女は彼女で、それにより失った幻想に囚われている。
「医者」も表面的な病状以外に理解は示すことができない。
みな自分のことのみに一生懸命なのだ。
果たして、残された「病人」は今後どう生きていけばよいのか?
冒頭のこうもり傘の「男」は、「病人」の甥である。
「男」も同じ被爆者。
ただし、「病人」の行動と逆に、静かにそっと生きていきたいと願っている。
そこにはある種の諦念がある。
良く言えば、無駄な抵抗をせず、今の自分を受け入れているとも言える。
「男」も病状は着々と進行している。
「病人」は「男」に、「妻」が断ったもう一度街に出るためのリヤカーとゴザとオリーブ油の用意を所望する。
自己の存在意義を証明するために。
ただし、本当の問題は隠されている。
一番の問題は、なぜこんな状態に至ったのかなのに。
戦争反対なのに。
壊滅的な争いが起きる理由を消し去るのが唯一の特効薬なのに。
人間が自分のためにだけしか生きられない哀れさ。
しかし、それが真実。
我々は自分で自分をコントロールして生きているようであるが、
実際は周辺に翻弄されながら生きている。
戦争や天災は多くの人に価値が共有される象徴的なものだ。
起きるたびに自らのことのように顧みたりしてみる。
上演前の、SPAC俳優によるプレトークで、
「大いに笑ってください」と言うようなことが語られていた。
それは、しんとしてしまいがちな空気をほぐすためのレクチャーに思えたが、
なかなかそこまで到達するものではない。
「病人」の背中のケロイドを見て、観衆が笑うことが出来ず、思わず眼をのぞきこんでしまうように。
他人の眼を見ることは自分の眼を見ることと同じ。
他者が演じる演劇を観ながら、自分をのぞき見るという体験になるのだ。
自分を笑ってしまうことは以外なほど難しい。
象と富士山
日本平動物園かよ!
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