12月15日(日)14時~
はままつ演劇フェスティバル2024の自主公演参加作品。
先ずはこのモチーフを選び上演に至らせる心意気が潔く気持ちいい。
これがなければ生まれることはなかった「翔んで埼玉」は魔夜峰央による漫画。
映画化された時、僕も思わず原作を購入してしまった。
「埼玉県人にはそこら辺の草でも食わしておけ」という話題となった台詞が表しているように、地域間のいじり合い、ヒエラルキー、自虐ネタが面白さの根幹となる。
これは大っぴらに語らないが、ちまたでよく語られていることの証明。
そんな関心領域を、ギャグマンガとして表現した。
漫画だからなあ、とゲラゲラ笑いながら、実は自分のことを射抜かれているということがあると思うが、
風刺漫画など、笑いはそういう力もある。
ただし、いじられている自分を笑ってしまえること。
いじられて真剣に怒ってしまうと、始まらない。
怒ってしまうのさえ笑えること。
それが成立する条件だ。
ちょっと考えてみた。
日本国内の地域同士のいじりあいだから可能なのかもしれない。
国同士だったらどうだろう?
国内総生産の高い低いでのいじり、
肌の色でのいじり、
宗教観のいじり、
歴史観に基づいたいじり、
しゃれにならなくて、本気の喧嘩に発展するかもしれない。
それでも成立するのなら、世界は高度に平和を維持できることだろう。
まあ、さておき、はなわの「佐賀県」のように、自虐の免疫は出来ている。
そして、最後は「やっぱり、この町が好き~」と落とし込めば何の問題もない。
互いに笑い合い、喜劇として成立する。
「翔んで浜松」は、とある浜松市の高校と静岡市の高校との争いから始まる。
争う手段は、地域自慢のプレゼンテーション。
ルールに乗っ取った正当な戦いという安心感。
俳優たちがみな面白がって演じているのが良かった。
登場人物の役割をよく表現した衣装。
衣装制作にふんだんに専門性が発揮されていると劇団の作品を観るたびに思う。
昨年の「源氏物語」で優秀俳優賞を受賞されたアラナミテレサさんは、現在の年齢が話題になりがちだが、
それ以上にどんな場でも当意即妙に対応できる自由な居方が良い。
また、作・演出の松尾朋虎さんも、そんな特性を熟知している。
その他の俳優たちも、回を経るごとに経験が積み重なっている。
特徴としては登場人物の個性が立ち、その役割を演じきること。
それが奏功していると思うのが、客席をながめると、固定のファンがついてきているのではないかと言うこと。
何より証明するのが集客力。
もしかするとファンの中心は、友だちや家族など周辺の方なのかもしれない。
でもそれが基本というもので、大切なことである。
誰のために舞台に立つのか?
子どもや孫や友だちのために見せてあげたい。
見てもらいたい。
心から素晴らしいと思う。
ただし、当然のことながら演劇の世界はもっともっと広い。
シニア劇団と言うこともあるかもしれないが、稽古にどっぷりつかるということはできにくいだろう。
また、入団の目的が舞台に立つこと、という俳優志望がほとんどだとしたら、
「あなた、今回は役がいっぱいだからスタッフでね」とは言い難いかもしれない。
そんなことをすれば、目的と違うと辞めてしまうかもしれない。
そこは集団により演劇的成果とは別に優先させなければならない理由がある。
弱い点があると思えば、あえてそこに踏み込まず、得意な面を生かすのは時に必要だ。
ただし、どうしても各人の出番の量が限られ、どこか平面的な構造のつくりになるかもしれない。
でも、それも劇団が選び取っている方法。
しかしながら、後半に従い、「隠し玉」がどんどん出てくる。
それは作劇の巧みさだ。
終盤、観客参加場面が設けられるが、3択を迫られ、選ぶのに苦労した。
だって選ぶ理由が見つからないんだもの。
でもこれも芝居のお遊び。
楽しんだ方が得策だ。
登場人物の出番が平等な群像劇で、途中、協力のダンスチームが彩りを加える。
ダンスチームの登場も毎回のことになっているので、話の流れの中の関わり方も進化している。
強力キャラを登場させる場面を盛り上げる賑やかで華のある踊りの場面、
応援と称し、学ラン、リーゼントに凶器である鎖の踊りと、それぞれ芝居にぴたりとはまっていた。
作り方がひとつの形を確立しているとも言える。
きっとそれが、上演を重ねることにより見つけ出した、最善の方法なのだろう。
チラシがまた潔い。
これしかないという迫力。
チラシを手渡しする時が、最初のサプライズ。