地域情報センターで木の実プロデュース「朗読劇 蜜蜂と遠雷」を観た

テトラ

2018年10月19日 08:12

10月14日(日)17時~

会場のすぐそばのクリエート浜松で行われていた
浜松放送劇団の公演とはしご観劇したのだが、
この後、浜松街中で飲み会参加の予定があったので、
一度車で家に帰り、車を置いて
運行バスで出直してきた。

僕は、直木賞受賞作品である恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」は未読である。
浜松市で3年に一度行われている
浜松国際ピアノコンクールを題材に書かれたことは知っていた。
恩田さんは開催期間浜松に滞在し、
しかも複数回にわたり通いつめて書き上げたという。
想定よりも書き上げるのに時間がかかってしまったという。
毎年行われているのならいいが、
3年に一度なので
2回にわたったとしても
最低4年は費やしている。

五名の読み手のうちの一人としても登場した
近江木の実さんは構成と演出も担当している。
当日のパンフレットのコメントで
この小説との出会いが書かれている。

クラシック音楽ファンである近江さんは
浜松のピアノコンクールに取材した小説であることを知ると
興奮し本屋に走ったという。
そして、面白く読み始めたが、
一気に読んでしまうのがもったいなく、
ちびちびとなめるように昨年一年かけて読んだという。

その思いから端を発し、
今回の朗読劇に帰結したと思う。
さまざまな趣向が凝らされ
朗読劇は展開されていた。
個性的な読み手も多く、
演劇での役者同士のやりとりを彷彿させ、
スリリングでもあった。

これこそ朗読劇。
読み手であり、役者なのだ。

但し、その作品への愛が
マイナスとなった点もあった。
それは小説と朗読との
表現のジャンルの違いでもある。

小説にも
漫画にも
映画にも
演劇にも
朗読劇にもなっている。
そんな作品もあると思うが、
それぞれジャンルの違いによる
見合った表現の方法がある。

それは
発信する側の表現者だけで成り立つのではない。
いかなる表現も
読者だったり観客だったり
受け手がいて成り立つのである。

小説は一年かけても読むことができるが、
一つの場所に決められた時間に集める表現の場合は
そんなことはできない。

好きすぎると
非情の手が下せなくなる。
切ることができるエピソードなど何もない気がしてくる。
それは一文一句に及んでくる。

むしろジャンルがまったく違う
小説の演劇化や映像化の場合は
小説を換骨奪胎して書き直さないと成り立たない。
その点、朗読の場合は、書き直すことはできない。
一文が長いからと言って、端折ることはできない。
むしろエピソードをバッサリ切るしかない。
その非情を下せるかどうかが、
大きなポイントだと思う。

もしかしたら、バッサリ切った中で、
小説ではない新しい朗読劇ならではの
核心が浮かび上がってくるかもしれない。
その時はきっと
小説の力と対等の関係にも見える力を持つのだろう。



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