静岡文化芸術大学で映画×演劇プロジェクト「哭く」を観た

テトラ

2024年06月02日 15:37

映画制作チームbfの2020年度作品「哭く」の映画上映と、
それを元に舞台化した舞台公演を組み合わせた企画。

映画上映 18時15分~ 南176講義室
舞台公演 19時~    講堂

どちらも30分ほどの作品。
再現性に大きな特徴を持つ映画と、
再現性が不可能な演劇。
同じ内容、同じタイトルの作品にそれぞれの特徴が活かされている。

映画に映っているのは四年前に作られた当時の学生で、
学内の講堂で演劇を演じているのは今の学生。
同じ大学の学生の間で時を経て、演劇作りにおいて引き継ぐ作業が行われる。

南176講義室と講堂という近い距離にある場所を移動し、
連続して観ると、その引き継ぐ作業がわかる気がして感慨深い。

映画のそれぞれのシーンが、演劇に落とし込まれていく。

舞台美術となり、衣装となり、演技となり、演出となり、戯曲となり。
それぞれの担当者が、各自映画「哭く」のことを考える。

天井のバーから吊るされた赤い紐が印象的だった。
前段は中央寄りに椅子を間に2本真下に吊るされている。
後段は左右から3本ずつまとめられ、舞台に置かれた椅子にがんじがらめに括り付けられている。

俳優の登場は左右から静かに登場し、所定の位置に配置されると演技を始める。
まるでベルトコンベアーに乗っかって、あらかじめ組み込まれていることが起こるという感じで、
とても整理整頓されているように思った。

俳優が主体なのではない。
俳優による演技も演劇全体の一部であり、
その他のものと合わさって演劇は出来ている。

だからと言って俳優の演技がおろそかにされているわけではなく、
伝えるべきことをシンプルに伝え、かえって言いたいことが明確になるような気がした。

映画には登場しない、ギリシア劇で言うコロスが活躍する。
梶井基次郎の「桜の樹の下には」だろうか。
順番に出て来て「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と読みだす。
その他にも、簡単な肉体パフォーマンス(基本は立ったり座ったりだが)、
言葉が書かれた紙を持って来て並べたりする。

彼女たちは、上が白、下が黒の出で立ちだが、服のタイプはそれぞれ違い工夫されている。
衣装の色は、登場人物の服装とも関連している。

同級生の3人組(男性役だが、演劇では女性が演じている)が、いつものように集まってくっちゃべっている時に、
現れる黒づくめの服の唯という女性。
彼らと同じ大学に通う学生だが、まわりと合わせることはしない。
その中のひとり伊織はまわりに合わせる性格で、正反対の唯のことが気になる。

公園で話をするきっかけができる。
映画ではその前にひとつのエピソードがあるが、演劇ではクライマックスのあとに現れる。
心を開くきっかけとなる会話がされたのち、唯は伊織に夜の11時だから、お子さまは帰りなさいとたしなめ、
今から仕事と、その場を去る。

映画では、何の仕事かわからなかったが、演劇ではそれ以前に唯が学生ながら流行作家として活躍していることを示唆している。
だから、仕事の意味が執筆であることを知っている。

そのように、映画と演劇、情報の出し入れの箇所が異なり、観ている人の印象は変わる。

赤いリンゴや煙草のマルボロなど、映画で使われている小道具も効果的に使用されていた。
冒頭、リンゴをボンボンと床に落とす音は、刺激的だった。
唯という女性を象徴する煙草のシーンも感心するほど、さりげなかった。

クライマックスで真下に垂れた赤い紐が唯一使用される。
今まで整理整頓され、律義に時間を使って来た劇がここに集約される気がした。

その後の結末は、もはやすべて語り終えた後の結論。
伊織の服装が唯と同じ黒に変わったことが観客に伝わればよいのだ。





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