■オリンピックと演劇
フィールド 寺田景一
東京オリンピックが始まった。
開会直前にもいくつか問題が起こり、開閉会式のショーディレクターを担当していた小林賢太郎氏が過去の作品の表現が理由で、本番前日に解任となった。
小林氏は、ラーメンズというコントユニットで、テレビのお笑い番組に出演していたこともあるが、その後舞台を中心とした活動に移行し、ソロ公演やプロデュース公演、また、カジャラというコント集団などで、公演を重ねた。
そして、2020年11月16日をもって、表舞台での活動は停止するという発表がされた。
僕は、小林氏の舞台などをテレビやYouTubeなどで観たことはあるが、生で観たことがない。
豊橋の劇場PLATで公演情報を見つけるが発売後すぐに完売となっていた。
小林氏の公演は、僕の中ではコントと言うイメージだが、戯曲集という形で著作物を出していて、演劇とも言えるし、そして、ミュージシャンと組んだり、映像作品を発表したり、ジャンルというくくりは重要でないのかもしれない。
ジャンル分けは僕もどうでもいいのだが、興味深いのは、あくまでも僕が活動する範囲での情報であるが、演劇に関わる人に小林賢太郎ファンが多いことだ。
僕と同年代だとつかこうへい、野田秀樹、北村想などとなるが、もっと下の年代であることは断わっておく。
一体何が引き付けるのだろう?
それは、発想と仕上がった作品が、とても斬新に見えるからなのではないか?
その発想が、今までこの世になかったまったく新しいものであるということではない。
新しく見えるということが重要で、小林さんはそのように見えるように意識的に計算してもの作りをしているのではないか?
表舞台から引退するという発表の後、名前を聞いたのは、7月15日、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式についての発表を行った際である。
ショーディレクターとして、クリエイティブの名簿のトップに小林氏の名前があった。
その時は、お笑い番組だったり、コントや演劇などの活動の先にこれがあるのかと、少なからず驚いた。
それは歓迎だけではない。
コロナ禍、1年の延長を経て、開催が発表されながらも反対の意見が渦巻く中、突入しようとしている式典は一体どんな演出をすれば、多くの人を満足させられるのだろうと部外者にもかかわらず心配した。
小林氏が、今まで行っていたように見えた、自分の目が届く範囲を注意深くコントロールしながら広げていく手法とマッチするのだろうか?
あ、でも今回は、非常事態時のオリンピックの式典だ。
全世界から新しい価値観を求められるのではないか?
そんな理由で、小林氏は選ばれたのではないか?
僕は、ここでは、解任の件については言及しない。
今までもこれからも表現活動の価値が変わるものではないと思うから。
開会式が終わっての反応で驚いたこと。
それは、新しい価値観を求められていたことは共通認識だと思っていたのだが、思いのほか、過去のオリンピックやコロナ禍以前に計画されたプランとの比較で例えばしょぼかったとか、感想が述べられていたこと。
それはないんじゃないか、と思うが、人は頭で考えるよりも心で反応しがちであることを認識。
組み込まれている各々の価値観が表に立ってしまうのである。
演目の中に、1964年の東京オリンピックの際に導入された競技種目の50のピクトグラムを実演するパフォーマンスだが、僕も多くの方が述べているように、仮装大賞だ、と観た途端に思ったのだが、これなど小林氏らしいなと感じたのも確か。
ミニマムに必要最小限の人数で行うこと、オリンピックの歴史を継承するつながりを持つこと、無観客でテレビの向こうの視聴者を意識したものであること、言葉の壁を越えて誰でも理解できること、上質なエンターテイメントであることなど、様々な状況から生まれてきた条件の中で考え抜かれたことが伺える。
平常時だったら、やらなかったと思う。
その時は各国の参加者たちはグランドに集結していて、大型ビジョンでは観ることができたと思うが、会場にいる人が生で観るには、表現のサイズが小さすぎる。
演劇畑では著名な劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏もコロナ禍以前の総合演出チームの中で、開会式のステージ演出に抜擢されていたそうだ。
演劇というものは、生の舞台で行うということが本質となるので、日ごろの活動からすると、会場の規模が表現の枷となる。
観客が拡大なしで観ることが原則となるので、小劇場から始まった劇団が大きなホールで公演するようになっても、一番遠い客席のお客さんから観ても満足できるように作る。
それが、数万人収容のスポーツ競技場が舞台となると、音楽なら音というものの強みで、距離を乗り越えてしまうが、演劇はそうはいかないのも現状。
まあ、サーカスのようなものなら出来うるかもしれないが。
僕は多くの人と同様オリンピックの開閉会式が好きだが(これも今まで観てきた経験から組み込まれていると思われる)、やはり開催国の文化財産を駆使した、ある意味金に糸目をつけない本気の見世物が楽しみなのだろう。
そして、オリンピックというスポーツの祭典で、文化というアプローチで一緒になって盛り上げることに高揚感を感じるのだろう。
表現は当然、自分のためだけにしていいが、おのずと対象者が必要となる。
文章なら読んでもらわなければ意味はない。
音楽なら聴いてもらわなければ意味がないし、映画や演劇なら観てもらわなければ意味がない。
オリンピックの開閉会式の対象者は誰なのだろうか?
世界中、という表現が当てはまるのかもしれない。
でもそれは顔も見えない人たちである。
インターネットでの表現(YouTubeとかSNSとか)も、対象は世界中という言い方もできるが、実際はそんなことは意識せず、あくまでも自分発信で発進したのがたまたま世界に届いてしまう時もあるという感覚だろう。
僕が開閉会式の演出に選ばれることは万に一つもないが、そんなことを考えた。
(静岡県西部演劇連絡会会報 2021年8月1日号より)