なゆた浜北で絡繰機械’S「ヨコシマ デイドリーム」を観た

カテゴリー │演劇

5月28日(日)14時30分~

「ヨコシマ デイドリーム」とタイトルがついたのも理由があるだろう。
なげやりなアイロニー♪でも
裏切りのレイニーデイ♪でもなく。
当然、「わがままジュリエット」というタイトルではない。
BOOWYだし。

ヨコシマなデイドリーム♪というフレーズに
何かが埋まっている予感がしたのだろう。
とりあえず、話の舞台は「島」ではある。

完成形を観るとそうは思わないかもしれないが、
完成形に至る過程は、行き当たりばったりだったりする。

いや、ほぼ行き当たりばったりだ。
偶然の産物とも言える。
でも偶然は待っていて棚ぼた式に訪れるのではなく、
用意周到なたくらみの末、訪れる。

今回の作品「ヨコシマ デイドリーム」は
絡繰機械’Sの10周年記念と銘打たれている。
記念公演だからだろうか。
ロビーにはかつての出演者が
スタッフとしていつもより多く並び、
舞台上も12人といういつもより
多めの出演者が、並んでいた。

いつもより多めの俳優の構成が功を奏していたと思う。
適材適所に俳優が配置され、
いつものように足りない役は兼任でまかなわれるのだが、
主とする役の輪郭がはっきりしているので、
入れ替わりに無理がなかった。

舞台上に揃った12人が
「ヨコシマ デイドリーム」を生んだとも言える。
卵が先か鶏が先かの議論と同じく、
戯曲が先かキャスティングが先かの議論をすれば、
キャスティングが先というのは実は珍しくない。

キャスティングありきで戯曲が生まれる。
他力本願のように思うかもしれないが、
僕は、世の戯曲の少なくとも半分は、そうなんじゃないかと思っている。

代表的な劇作家はウイリアム・シェイクスピア。
作品はそれぞれ風合いが変わり、
シェイクスピアは実在でなく、
いろいろな作家の集合体なのではないか言われたりする。
完全なオリジナルかというとそうでもなく、
元となる話があったりする。

極端な話をすると
劇作家自身に書きたいことなんてないのではないか。
周りからの要請で
行きがかり上書くことになったのではないか。

俳優のピースが埋まるに伴い、
戯曲も仕上がってきたように思う。
これは、ひとつが終わったから次、
というものでもなく、
なかなか有機的に定まってくるものなので、
これまた無責任に思われるかもしれないが、
意志ひとつで決まるものでもなく
やっかいだ。

それでも行ってきたことは
裏切ることなく、
結果的に形になる。

そんな10年を象徴しているような気がした。
俳優のピースが埋まることで、
話のピースが埋まり、
劇団が銘打つ
「ハイスピードエンターテイメント」に
結実していた。

最後、悲劇的な結末のあと、
時間をかけずむくりと立ち上がり、
冒頭のシーンと同じく
歩みを刻む動作に移ったのが
とてもよかった。

なゆた浜北で絡繰機械’S「ヨコシマ デイドリーム」を観た


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