朗読の夕べ~アソート・チョコレート~を聴いた

カテゴリー │いろいろ見た

25日、20時からたけし文化センターで朗読会を聴いた。
たけし文化センターとは昨年10月末から来月3月22日まで期間限定のフリースペースとして、連尺町の旧文泉堂でNPO法人クリエイティブサポートレッツが運営している場所。
レッツペーパーという会報誌によると「そこにくる人達が社会やまわりの人、普段接点のない人たちとつながっていく公共スペースとして、またそうした状況から生まれる新たな文化を発信していく拠点として実験的に開いています」とある。
僕自身は2度目だが、開館してからの時間を感じさせる痕跡があちこちに感じられる。
そこで、平日の夜、朗読会は開かれた。
主なメンバーは劇団のM-planet。
詩、短歌、絵本、マンガ、小説、自作の詩、校歌、とメニューはいろいろ。
演劇的趣向も活かされ、楽しかった。
が、ちょっと欲張りすぎか。
次から次へとメニューがこなされる感じで、仕事おわりの頭にはちょっと想像がおいてきぼりをくう。
「休憩時間にいただいたチョコレート。これくらいがちょうどいい」

夜のたけし文化センター
下




 

富良野GROUP公演「谷は眠っていた」を観た

カテゴリー │演劇

24日、磐田市民文化会館で19時から行われた富良野GROUPの「谷は眠っていた~富良野塾の記録」を観た。
作・演出は脚本家の倉本聰。
役者と脚本家を育てるべく、「北の国から」の富良野に受講料ほか一切無料の私塾、富良野塾を作って26年になるそうだ。
そして、今年春をもって、富良野塾は幕を閉じる。
この作品は22年前に公演され、バージョンを変え演じられ、今回が最後の公演となる。
手元に倉本の書いた「谷は眠っていた」の本があるので、そこから富良野塾構想の目的をひく。
『人智への過信を捨て、第一次産業的労働を通じて人間の原点に立ち戻り、知識より智恵を重視することで、地に足のついたシナリオライター、俳優を育てる。及び、
それに類する若者を育てる。
その拠点をこの地富良野に定める。』
とある。
富良野塾の開塾当時の話を中心としたドキュメント演劇はその時々の塾生が舞台に立ち、富良野塾そのものの姿を映し出してきた。
つまり、そこにいる若者たちの生の姿だ。
それは青春と呼んでいい。
今ではプロの脚本家となった卒塾生の塾生だったころの回想という形をとり話は進む。
それは目新しさよりもそのままをストレートに伝えたいというかたくななピッチャーのまっすぐ勝負のようで、観劇中、僕はその時代遅れの様子をただただ観ている。
誤解をしないでほしい。
時代遅れという言葉は僕のシンパシーがこめられている。
スタンドバイミー、中島みゆきの替え歌、さだまさしのアメージンググレイス、長淵剛の乾杯・・・。
ど真ん中のストレートを臆面もなく投げ込んでくる。
でも、それって意外とないよな。
変化球の方が当たり前になってるかも。
「感動を忘れないでほしい」
倉本の塾生たちへ贈る言葉に出てきた言葉。
僕は今も芝居をやっている。
そのことを観ながらずっと考えていた。
感動を伝えたくてやっているのか。
その前に、自分が感動したくてやってるんだろうな。
それでいい。
勝手に思った。









 

チャップリンの「ライムライト」をTOHOシネマズで観た

カテゴリー │映画

今、TOHOシネマズ浜松で「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本」という企画をやっている。
で、21日(日)午前10時から「ライムライト」を観た。
おちぶれた老道化師が自ら命を絶とうとしていた若いダンサーの命を救うことから始まるラブロマンス。
チャップリンがはじめて素顔をさらした作品と言われる。
いわゆるチャップリンの映画といえば、あの衣装(だぼだぼのズボンにちっちゃい上着に山高帽)に白塗りの顔。
映画の中の彼はリアルに生活している人の中に"チャップリン"というおかしなキャラクターがひとり放り込まれるようにして、ドラマが始まる。
そこで、反逆というか、反社会というか、というよりも人と同じことができない愛すべきこの男の行動は観客たちが実際生きている場所の堅苦しさを、いとも簡単に外してくれる。
だから痛快で気持ちよく、そのナンセンスさに笑わざるを得ない。
その後ろにはいつもひとりの男の哀しさがあることはわかってはいるが、行動の痛快さに紛れ、ただただ笑わされる。
サイレントから続く初期のころはそんな作品が多かったと思う。
しかし、年を経るにつれ、後ろに存在する哀しみの分量が増えてくる。
人生とは実際そんなものだ、とでもいうように。
「ライムライト」ではチャップリンは彼自身の職業と重なる道化師の役である。
だから、作品全編、リアルさから離れることはできない。
チャップリン自身の人生に観客は向き合うことになる。
年配の人(つまり懐かしさにひかれて観に来た客)と若い観客もちらほらの客席にほとんど笑い声は起こらない。
おかしな場面はたくさんあるが、それは爆笑には至らない。
それは仕方がない。
かつては売れていたが、今では彼が舞台に出てくると、次々と席を立たれてしまう道化師なのだから。
そして、ラストシーンになだれ込む中、客たちは人生の哀しさにじっと泣いている(ように感じた)。
知らなかったが、ラストのチャップリン演じる喜劇役者と共演するピアノ弾きはバスター・キートンだそうだ。































そのあと3時から路上演劇祭のメンバーと旧松菱付近を見る。
柵の向こう側が見たかったので、上へ上へ。
最終的にはZAZA6F・7Fのこども館に入らせてもらい、屋外から眼下の旧松菱を見た。

そこから見た有楽街。






 

横山剣のラジオでの話

カテゴリー │思うこと

今日、仕事中、車に乗っていて、ラジオを聴いていたら、クレイジーケンバンドの横山剣がゲストで出ていた。
11時からの赤坂泰彦のディアフレンズであるが。
そこで、最近考えていることの質問に、
「楽曲に奉仕するということ」(言葉はちがったかもしれないが)
と答えていた。
方向性はあとからついてくる、とも言っていた。
楽曲の前ではどんな偉い人も全くの使用人で、奴隷のように身を粉にするのだ。
楽曲がこうしろと言えば、白のものも黒くするイエスマンだし、体も売ることもいとわない。

僕もそう思う。
そう思っていた。
ただし、音楽やる人ではないので、楽曲というより、演劇作品だ。
そして、方向性は作品が決めてくれる。




 

路上演劇祭の打ち合わせ

カテゴリー │路上演劇祭

昨日14日(日)17時~ あいホールで路上演劇祭打ち合わせ。
路上演劇とは何か?
今、路上演劇祭の場所をどこでやるかということで、そのことについて考えるきっかけとなっている。
少なくとも僕は考えている。
そのことで僕はしっくりいかなさもかかえている。
それを誰かすっきりさせてくれ。
でもまず自分で考えることだろう。

自由に人と出会える場所。
前向きに何かを語りあえる場所。
そんな場所であれば僕はどこでもいい。






 

「鬼と私の居ぬ間に」を読んだ

カテゴリー │からころ

13日(土)14時から、からころの集まり。
お菓子がたくさん集まった。
そして、「鬼と私の居ぬ間に」を読んだ。
1回読むのに、止めて、理解しながらすすめたので、2時間くらいかかった。
おかげで、初回にしてはずいぶん進んだ感じがするがどうだろう。
今まではまずはノンストップで読んでみることからスタートしていたと思うが、わけわからないまま、読み進むので、ラストまで到達してもやはりよくわからない。
それは当り前なので必要なこととしていいや、と思っていたが、わからないことが多いということは、読後感が悪い。
これはちょっと時間がもったいない。
書いた僕はもちろん最初はわかっている部分が多いので、そのギャップがどうも気落ち悪かった。
で、なるべく早く同じスタート地点に立った方がいいと思った。
みんなで話ながらやったのがよかった。
その場で疑問点も話し合った。
衣装や小道具のことまで話は及んだ。
テーマについても話した。
書き終わった時はずいぶん書きかえるかもしれないと予測していたが、みんなで読みながらどうしようか考えていたが、意外とそのまま活かせるなと思った。
物足らないクライマックスを少し書きこめばいけるんじゃないか。
家に帰り、バンクーバーオリンピックの開会式(再放送)を見ながら、手直ししていたら、ラストを少しだけ加えようと思いついた。
「鬼と私の居ぬ間に」は最初は「鬼の居ぬまにまに」というタイトルにしようと考えていた。
"~まにまに"はかなり、ゴロ的な理由で入れた感がどうしてもぬぐえなかったのだが、ある日(最近であるが)、"私"を加えた。
それで台本との関係がぐっと近くなったと気がした。
そのおかげで、書き終えることができたような気もする。
そういう意味でもタイトルはとても重要だ。

事件発生!!
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「鬼と私の居ぬ間に」を書いた

カテゴリー │からころ

4月17日(土)14時開演 ゆやホール 
いわた表現の会からころ第6回公演「開」
で上演する台本を昨晩深夜に書き上げた。
実は昨晩仕上がるとは思わなかった。
13日の14時からの集まりまでには何とか仕上げたいとは思っていた。
でも、最後まで行かないかも、という予測の方が強かった。
よかった。
祝日は貴重だなあ。
11日はけっこうはかどった。
午前はガストで午後から深夜までは家で。
とりあえず13日は台本を持っていける。


タイトルは

   「鬼と私の居ぬ間に」



イメージ写真はこちら

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「劇王Ⅶ」を観た

カテゴリー │演劇

7日、長久手文化の家 風のホールへ「劇王Ⅶ」の決勝巴戦を観に行った。
劇王とは上演時間20分・役者3名以内・数分で舞台転換可能という制約のもとつくられた短編演劇のイベントである。
前日行われた予選のAプログラムから勝ち残った渡山博嵩さんの「ラプンツェルの髪」とBプログラムからの平塚直隆さんの「とろろ」と2連覇中の鹿目由紀さんの「借り物と協奏」の3本の戦い。
審査員は青井陽治、マキノノゾミ、西山水木の3名だが、前日は柄本明が1日だけ審査員をつとめたそうだ。
仕掛けが魅力的で、3年連続行っている。
結果は鹿目さんが3連覇を果たしたが、ある審査員が言っていた。
「もっと大きな舞台で活躍するのを期待しています」
また、ある審査員も言っていた。
「戯曲としては今回そんなに差はないけど、作品としては圧倒的」
その審査員は(マキノノゾミさんであるが)持ち点50点のすべてを鹿目さんに投じていた。
近頃、演劇界では演出力不足がささやかれているそうである。(特に若い劇団の、という意味であろう)
そうなのか。
圧倒的に舞台を支配する演出力。
今の時代性もあるかもしれないなと少し思った。
浜松に戻ってから、19時からスペースCOAで西部演劇連絡会の例会があった。
初めは巨大なストーブが活躍していたが、途中燃料切れで、場所を隣のカレー処ヤサカに移動。
コーヒー1杯で話し合いは続く。
今年度のフェスの話。






 

アンヴィル!夢を諦めない男たちを観た

カテゴリー │映画

デビュー30年、主要メンバーは50歳を迎えたヘビメタバンド「アンヴィル」。デビューから数年は音楽的にも注目され、輝かしいスーパーバンドとしての未来が待っているはずだった。
ところが、残念ながら、あまり売れなかった。
現在まで13枚のアルバムは出しているが、音楽だけでは生活ができなく、食品会社などに勤めながら、バンド活動も続けている。
デビュー時とメンバーも何人かはいれかわり、腐れ縁のボーカル・ギターとドラムのふたりがバンドを支え、今だ、売れる日を夢見ている。
ヨーロッパツアーに出ても客は入らず、ギャラももらえない状態。
起死回生と昔の仲間のプロデューサーに声をかけると、今の音を気に入ってくれて、新しいアルバムを作ろうという話に。
ただしスタジオで製作するのに200万円の金がいる。
彼らには200万円という金はすぐに用意できない。
・・・。
とてもまじめな内容のドキュメントだと思った。
観る前はもっとはちゃめちゃな感じかと思ったが、まっとうで共感できる男たちの人生を綴っていた。
ドキュメントとは生きているままをそのまま写し取ったものではない。
カメラを持ち込む側の演出はもちろん、撮られる側の演技も生じる。
想像するにパフォーマーである彼らの映し出される姿は誇張もあるだろう。
メンバー通し、もめたりすることとか。
最後、日本のライブイベントに呼ばれて、満員の観客の中で演奏をし、ハッピーエンド的になるが、それが彼らの成功かといわれるとなんか首をかしげるところもある。
と、ここまで書いてきて気がついたが、僕も演劇とかやっている性格上、同じ表現する人として、たとえば、彼らの音楽について考えてしまうのだ。
サウンドはいいといわれていて、なぜ売れなかったのか。
今の彼らの音楽はどうなのか。
彼らの希望通り、今後売れるかどうかわからない。
この映画から伝わってくるのは、"夢を諦めないことの素晴らしさ"ではない。
夢を見続けることの儚(はかな)さ。
おお。今、"はかなさ"を変換して気がついた。"はかない"とは"儚い"と書くのだ。にんべんに夢。
夢とはハカナイものなのか。
そして、人間だけが夢を見る。
もしかすると愚かなものかもしれないが、やはり素晴らしいとも言えるのか。
なんかよくわからない文章になったが、観たすぐには気がつかなかったようなことが、少し反芻していると違う考えが浮かぶものだ。
やはりこの映画は夢を諦めないことの素晴らしさを言いたかったのだ。
夢って何だろう。


今日、シネマイ~ラの会員の更新をして記念のティッシュボックスをもらった。
5日(金)の夜、観た。
















小三治とか杉本彩とか写ってます。


 

戯曲について

カテゴリー │演劇

昨年、名古屋で鈴江俊郎という岸田戯曲賞もかつてとった劇作家の1日(しかも3時間)だけという戯曲講座を受けたが、その時、鈴江氏は書いた戯曲は長いのも短いのも含めて、すべて上演されているという話をしていた。
本数もおおよそ言っていた気もするが、数は忘れた。
戯曲はやはり、上演されて成り立つものだと思う。
三谷幸喜などは自作をあくまで上演のための"台本"と称し、戯曲を出版することを基本的に許さない。
(唯一、岸田戯曲賞を受賞した「オケピ!」は受賞作は主催である白水社から単行本化されるという決まりがあるため、出版された)
演出や役者やその他スタッフとの共同作業を経て、戯曲は晴れて本当の作品となる。
そんな日の目を見ないで、書き終えて眠ってしまう戯曲って何?
せっかく書き終えた戯曲を上演までこぎつけるには何らかの行動が必要だ。
上演する人、そして、上演する場所がないと上演には至らない。
お父さんが子供を使って芝居を作り、茶の間で妻に見せるなんてのもいい。
自分で書き、自分が出て、浜松駅の前でひとりで演じるなんてのもいい。
生きていれば、日々物語の連続であるし、わざわざ物語なんか作る必要がないと思う人もいるかもしれないが、やはり僕は"わざわざ"新しく物語をこしらえて、そう強くたのまれてもいないのに、人の前で見せるという行為はとても必要なことだと思う。
それは別に演劇だけというわけでなく、音楽や絵や踊りやその他、わざわざこしらえるものには共通するものであるが。
ものをつくろう。
そして人に見せよう。