Pops倶楽部で「寺田町・おぐまゆき・音緒ライブ」へ行った

カテゴリー │音楽

12日(土)19時~

Pops倶楽部とは田町にあるライブハウス。



人はどのようにして、ギターを持って、歌い始めるのだろう。

この日は3人のギターを弾きながら自作の歌を歌う人が
順番に出てきて、歌った。

1人目は音緒さん。
ネオと読む。
MCで「過去を振り返るなと言うが、過去を振り返るのが大好きで~」と始まり、
「ただし、その頃に戻ってやり直したいと思うことはあまりない。
唯一、高校時代をやり直せるとしたら、野球をやりたかった。」
と、開催中の甲子園大会を観ながらそう思うと言っていた。

そこから、野球も関連する歌が歌われる。
過去を振り返ることは歌に昇華する。
出来た夏、出来なかった夏、
やり直すことは出来ないのかもしれないが、
今の歌に再現させることは出来る。

2人目はおぐまゆきさん。
MCで2度ほど神奈川県の横浜市から来たと言った。
横浜から来たと言えば少なくともここにいる人は全員わかるのにと思ったが、
丁寧なのか緊張なのかわからないが、
横浜在住であることは、僕の記憶に定着した。

また、丁寧に、歌う前に曲名を言ってくれるので、
それも定着する。
「土の中から」「旅人のうた」「からすのうた」「人間になりたい」等。
「音楽」という曲もやったかなあ。
曲名がとてもシンプルなのも定着する理由。

12限ギターを9弦にして使っているようだが、
演奏を聴いているだけではわからない。
多くが使う6弦ギターにプラスされた3弦分が、
シンプルな歌に複雑さを増すのかもしれない。
クラシック出身の素性を少し表しているのかもしれない。

3人目は寺田町さん。
毎年このお盆時期に浜松に来るので、
聴くのは何度目だろう。

さまざまなタッグを組むことがあった。
演劇だったり、映像だったり、
ドラム演奏だったり。

単独の演奏であっても、
他の演者との共演であることを意識していることが伝わる。
前の2人の紹介を欠かさない。

アンコールは、
まだまだ歌っていくぜという意思を込めた曲を
クラップと歌のみで歌い上げた。
ギターはおきっぱなしで去っていった。

僕は高校1年の時、
YAMAHAのフォークギターを2万円で買ったが、
結局弾けるようにはならなかった。

もしも高校時代に戻ってやり直せるとしたら、
ギターを弾いて歌う人になりたかった、
ということはまったく否定はできない。

今からでもやれば?
というのは高校野球がその時しか出来ないように、
例え出来たとしても、本当に取り戻せるわけではない。

でも何かを取り戻そうとして、
なにがしかをやっているのだろう。





 

静岡芸術劇場でSPAC『アンティゴネ』アヴィニヨン演劇祭公演報告スペシャルトークへ行った

カテゴリー │いろいろ見た

11日(祝)13時30分~
アヴィニヨン演劇祭はフランスの9万人ほどの人口の町アヴィニョンで、
第2次世界大戦後の1947年に始まった。

今年7月アビニョン演劇祭で旧法王庁中庭で行われるオープニング作品として
SPACの「アンティゴネ」が上演された。

旧法王庁とは1309年~1377年まで(アビニョン捕囚から協会大分裂の時代)、
ローマ法王の宮殿があった場所ということだ。
現在は本来あるべくローマのバチカン市国に法王庁はある。

アビニョン演劇祭は、イン(IN)と呼ばれる招待作品とオフ(OFF)と呼ばれる自主公演作品があり、
それぞれ運営団体は異なるようだ。
今年はインが50作品、オフは1500以上の作品が上演されたそうだ。
スペシャルトークの際、
静岡市内の地図とアビニョン演劇祭の開催されるエリアの比較がされたが、
こんな狭いエリアでこんな多くの演劇上演が行われているのかという感想を誰もが抱いた。
オフ作品のみ、ポスターの貼り付けが認められていて、
会期中は、街中がポスターで貼りめぐらされる。
1500以上の団体が一斉にポスター貼りに街をかけめぐるのだから、
ポスターが演劇祭を盛り上げる要素のひとつになるのは間違いがない。

トークの登壇者のおひとりはSPAC芸術総監督で、「アンティゴネ」の演出家でもある宮城聡さん。
もうおひとりは、映画監督でもある本広克行さん。
自身監督のももくろ主演映画「幕が上がる」で、
SPACの稽古等等を使用した等の経緯で、
知り合いとなり、今回のアビニョンにも同行し、
記録映像を撮影されたということで、
スペシャルトークでも映像が紹介された。

元々、演劇を観るのが好きで、
東京から静岡までSPAC等の作品を観に来ていたそうだ。
バスでということなので、
SPACで出している東京からの格安送迎バスかもしれない。

昨年秋、オープニング上演のオファーを受け、
会場に行った時、
「これはアンティゴネだな」と上演作品の構想が浮かんだそうである。
そして、後日、「空間構想」を担当された建築家の方と会場を訪れた時、
その方が「影で行きましょう」と言うアイディアを進言されたそうである。

アジア初のオープニングでの上演と言うことで、
プレッシャーもあったそうだが、
ひとつひとつが決まり、着々と作品は作りあげられていく。

最後におひとりだけ質問をということでされた方が、
「本広監督はももくろの幕が上がる等を監督されていますが・・・」
と切り出されたので、
「え~。ここで映画の質問?」と思ったが、
「・・・SPACの俳優で映画に使ってみたい俳優はいますか?」と
「ああ。一応演劇に戻ってきたな」と思いつつ、
ずいぶん回答に困る質問だった。

まあ、本広さんは、具体的な名前は出さず、
「SPACの俳優は芯がしっかりしているので、たくさんいます」
というオトナな回答で、
幕を閉じた。





 

劇作のきっかけ

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■劇作のきっかけ
                            フィールド 寺田景一

劇作ワークショップが、今年もこの夏行われる。
さて、僕が戯曲というものを書き始めたのはいつのことだろう。
振り返ると、多分、小学校の時のお楽しみ会の出し物で、同じクラスの何人かとごく短い演劇のようなものを発表した時ではないだろうか。
お楽しみ会とは学芸会と言われるものと同義語。

当時、家族で名古屋に旅行か何かで行ったとき、名古屋駅の近くで初めて目にした乞食に衝撃を受け、乞食を登場人物とした戯曲を僕が書いた。
浜松でもホームレスの姿を目にするのは珍しくはない。
でもその頃は、テレビなどで「右や左の旦那様あわれな乞食にお恵みを」という常套句と共に、知っていたが、実際に目の当たりにしたことはなかった。

休み時間や放課後の友達同士の会話でも乞食のネタはよく出現した。
「この乞食~!」と乞食ではない同級生を馬鹿にしたり揶揄したり。
無理に分析すれば、小学生の子供という、大人が幅をきかす人間世界でも下層の立場ながら、できるだけ目下の、さげすむことが出来る安心な対象を見つけて、日頃の鬱屈の代替行為とする。
例えば小動物や弱いものをいじめたり虐げたりと同様。

今はむしろホームレスの方々は公共の場をうまく使い、居住地を確保し、悠々と生きているようにも見える。
昔は乞食と言うものは、空き缶を目の前に置いて、金(お恵み)をねだったものだ。
物乞いという行為だ。
今はそんな姿はあまり見ない。
援助するボランティア団体が充実してきたのか、飽食の時代でコンビニや飲食店の残飯が容易にありつけるのか。
それらもあるが、街頭で空き缶を置き、みすぼらしい格好をして座っていても、よけて通るのみで、金を入れる人などいなくなったのではないだろうか。

僕が書いた戯曲は、乞食が何人か登場する。
お楽しみ会の発表は教室の一番前を少しスペースを空けて、行われる。
何人かの乞食は互いに間隔を空けて、横並びに座っている。
そして、それぞれの目の前に空き缶が置いてある。
そこに1人の通行人が通る。
何か乞食に呼びかける。
乞食は「へん」と答える。
「へん」というのはその頃クラスで流行っていた言葉で、「返事をしない」という意味の返事であった。
つまり、無視している、相手にしていない、という意思表示の言葉だ。

通行人は乞食それぞれに呼びかけるが、皆、「へん」という返事をするのみ。
クラスのみんなは大爆笑であったのであろうか。
「へん」は確実にクラスの流行り言葉であったから、ウケた確率は高い?
ずいぶん昔のことだ。
上演の場面の記憶もない。
誰とやったのかも記憶にない。
記憶にあるのはコミュニケーション不全の物語の戯曲のおぼろげな概要のみ。

小6の林間学校で、クラス毎で何かを発表したが、白雪姫をパロディにした戯曲を書いた。
魔女が白雪姫に毒リンゴを食わせるのを、なぜか屋台で毒ラーメンを食わせた。

以後、多いとは言えないが、いくつかの戯曲を書き、今に至る。
関係ないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」は、浮浪者2人がメインの登場人物。
ちなみに「乞食」という言葉は、今では、電波媒体では放送禁止用語。
また、本来は仏教用語で「托鉢」の意味。

(2017年8月6日号静岡県西部演劇連絡会 会報より)

写真は文章の内容とは関係のない7月の終盤、仕事で南伊豆方面へ行った時、
思わず車を停めて撮った海。
この先には、伊豆七島がある。
世間の学校では夏休みが始まった頃。