クリエート浜松ホールでMUNA-POCKET COFFEEHOUSE「青い星とトイレット」を観た

カテゴリー │演劇

23日(日)16時30分~

例えば、死んでしまった人が、今はどこにいるのか?
お墓の中にいるという人もいれば、
風になって、空を飛び回っているという人もいれば、
天国なるところ、地獄なるところににいるという人もいれば、
どこにもいない、無という存在なのだ、
という人もいる。

要は、よくわからないというのが一番近いかもしれない。
そうだ。
私の心の中にいます、という人もいるだろう。

死んだ人は、そうやって後世に引き継がれていく。
徳川家康さんだって、
出世大名家康くんと名付けられ、
浜松市のゆるキャラとして使われるとは、
夢にも思わなかっただろう。

例えば、死んでしまった人が、
今確かに生きている私が住む青い地球を
遠いどこかから見ているとしたら。

「あなたが
みていた青い星。
わたしが汚した
トイレット。」

これは公演のチラシに大きく書かれた
キャッチコピー。
そのバックにはこれまた大きな
青い地球。

芝居を観終わり気が付く。
「あなた」と「わたし」は別の人ではない。
同じ人なのだ。
つまりこれは、
「あなた=わたし」による一人語りの物語なのだ。
青い星を見ているのも。
トイレットを汚すのも。
その人自身が生きた証が語られる。
「わたしはこうして生きてきました」

冒頭で、
生まれ、名をつけられるとき、
でっかく生きろ、という希望を込め、
デカ太郎、という名が候補にあげられるが、
実際つけられた名はチエコ。
平凡な人生を歩むようになるからと言われた
普通の名がつけられた。

でも、平凡な人生ってなんだろう?

チエコさんの一人語りの物語が多くの人により語られる。
チエコさんは、すべての人と同様、
生まれ、出会い、生き、死ぬのだが、
それらの過程(人生ともいう)を
役者たちが、入れ替わりながら演じる。
性別も年齢も関係なく。
また、他の時間の公演では異なるキャストで演じられる。
意図して、個をバラバラに解体する。
一見、自分というものなどないかのように。

そうか。
やはり「境界線を越える」のか。
月末はハロウィンだ。
昨年以上に仮装した人たちが街に繰り出すと聞く。
これもひとつの個の解体作業かもしれない。
自分ではない自分として、街に繰り出す。
マリオを仮の自分として、
ピカチューを仮の自分として。
その日が終われば
日常の自分に戻ることを知っている。

ただし、遠くから青い地球を見ている人は
同一の役者が演じる。
バラバラに解体されていない。
確固たる自分自身である。
もちろん死んだ後のことはよくわからないのだが。





 

木下惠介記念館で「万華の園への誘い 寺嶋真理 映像個展」Bプログラムを観た

カテゴリー │映画

23日(日)13時~

浜松市中心に活動する映像制作団体、シネマ・ヴァリエテの主催。
寺嶋真理さんという映像作家の作品は初めて観た。
Bプログラムのみ観た。
Aプログラムは都合が重なり、観ることができなかった。
以下、2作品。


「姫ころがし」 1999 35分

作者が出身校でもある
京都造形芸術大学の助教授だったころ、
「姫ころがし」の主人公である
軽度の知的障害のある小夜美ちゃんと出会い、
「この子で撮りたい」とひらめき、
撮影された作品。

小夜美ちゃんはミッキーマウスが大好きなので、
雛飾りの前で、着物を着て、
ひなまつりの歌を歌う時も
「ミッキ マウス ミッキ マウス ミッキ ミッキ マウス あかりをつけましょ ぼんぼりに ♪」
とミッキーマウスマーチとうれしいひなまつりを混同させて歌う。
しかも本人のお母さん(だよね)と一緒にひなまつりを祝って歌う様子が美しい。

前日、豊橋で観た木下歌舞伎「勧進帳」のキーワードが「境界線を越える」であったが、
重なるように感じた。


「宙ブラ女モヤモヤ日記 ~ダンナに言えない秘密~」  2016 60分

しばらく制作活動を中断していた作者が、
今まで、作りこんできた世界を描くことが多かったが、
自らの日常をテーマにドキュメンタリータッチで描いた作品。
考えたら、1本目に観た「姫ころがし」も他人ではあるが、
小夜美ちゃんの日常をモチーフに、ドキュメントと創作を混在させて作っている。

創作のモチーフは
何らかの理由で創作できない自分や状況と今の思いとのギャップである。
作るべくして作ったとも言える。
何てストレートなタイトルだろうと思った。
後ほど語った作家自身の言葉によると、
今後、作りこんだ作品も創作していきたい、ということだ。
僕も観たいと思う。





 

PLATアートスペースで木ノ下歌舞伎「勧進帳」を観た

カテゴリー │演劇

22日(土)19時~

その日は浜松駅南口のサザンクロス商店街では大学生たちが主催するイベント
はままつハロウィンフェスティバルが行われていた。



アクトサンクンプラザではクリエーターたちによる即売イベントが、
駅北口のキタラでは高校生たちのブラスバンド演奏が行われていた。
ジャズウイークでもある。

イベントラッシュは今週末も続く。
11月に入る来週末も続くだろう。
表現したい人たちが街にあふれだす。

そんな浜松街中を後にして、
車で豊橋へ向かう。

穂の国とよはし芸術劇場PLATアートスペースで行われる
木ノ下歌舞伎「勧進帳」を観るためである。

木ノ下歌舞伎は歌舞伎の演目を現代アレンジして上演する劇団である。
稽古の過程をアフタートークで語られたが、
まずは歌舞伎の映像を見て、
セリフを完コピすることから始めるそうだ。

今までの公演は現代アレンジと言っても、
セリフは元のままを使ったりしていたのだが、
今回は、セリフもすべて現代風に書き換えたそうだ。

「境界線を超える」
というのがひとつのテーゼであったようだ。
古典中の古典をを題材とする場合、
テーゼを設けることは、
大きな拠り所になる。

歌舞伎ファンの「歌舞伎の勧進帳では○○でしたが、この作品では・・・」等の質問に対し。

勧進帳は、兄頼朝に追われる身の義経率いる弁慶ほか一行が
安宅の関で、待ち受ける関守の富樫らとの通す通さないのやりとりを描く。

「境界線を越える」象徴がキャスティングに現れる。
弁慶を演じるのは巨体の外国人である。
関西在住の吉本興業所属の芸人(役者としても活動)ということだ。
関西弁でしゃべるだけで笑いが起きる。
そして、義経を演じるのは・・・。

パンフで紹介されていたが、
事前に読んでなかったので、
きれいな女性、
でもたまにしかしゃべらないが、声は男?
きれいな男性か?
とずっと考え続け、
判明したのは、
終盤、安宅関を無事通り抜けた義経が、客席を通り去る際、
後方の座席にいた僕の目の前を通り過ぎた時だ。

終演後読んだパンフには
性別適合手術、豊胸手術を受けたニューハーフであり女優、
と書いてあった。
目の前で見た義経は紛れもなく女性だった。
生まれながらの女性より女性らしい。

僕はこのように騙されたわけだが、
「境界線を越える」体験をした気がした。





 

そういえば、路上演劇祭Japan in 浜松2017の実行委員会も始動していました。

カテゴリー │路上演劇祭

10月9日の浜松劇突2016のオープニングイベントに
路上演劇祭実行委員会としてブースを出展しました。

10月10日には18時~20時 浜松青少年の家(住吉)で実行委員会を開きました。

次回会議は11月6日(日)18時~20時 浜松青少年の家(住吉)で開きます。
新しい参加者をお待ちしています!!

路上演劇祭Japan in 浜松のブログはこちら。

http://rojo-hamamatsu.blogspot.jp/







 

そういえば、浜松劇突2016がすでに始まっています!!

カテゴリー │演劇



はままつ演劇・人形劇フェスティバル2016
通称 《浜松劇突2016》
8月20日から始まっています。

僕も参加しています。
平塚直隆氏による劇作ワークショップ。
安住恭子氏による劇評ワークショップ。
合同公開稽古も少しの時間ですが見学しました。
関係者等が一堂に会す
オープニングイベントは先週9日に終わりました。

さあ、次は自主公演など本公演です!!
オムニバス公演、人形劇自主公演、高校生選抜公演もあります。
来週23日のムナポケ公演から始まります。
僕は観る専門ですが、
観る専門家の気分で観ます。
もちろん都合と言う
事情次第ではありますが。

チラシの中面上部です。



中面下部です。





 

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことについて

カテゴリー │思うこと

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。

ボブ・ディランの曲は多くの人にカヴァーされている。
ローリング・ストーンズが、「俺たちのことを歌った曲だ。」と
「ライク・ア・ローリング・ストーン」を
ボブ・ディランが作ってから
ずいぶん経ってシングルレコード化している。

ニーナ・シモンという黒人歌手が
「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」や「時代は変わる」を歌っている。

「見張り塔からずっと」は
ジミ・ヘンドリックスやU2もやっているが、
ジミヘンのはボブ・ディラン曰く。
「俺よりいい。」

「天国の扉」は
エリック・クラプトンやガンズ・アンド・ローゼスもやっている。

LIVE AIDというかつて開かれた慈善ライブで
パティ・ラベルというゴスペルシンガーが歌った
「フォーエバー・ヤング」は強烈でとても印象に残っている。
(何年も経ってからDVDが発売され、購入したので、
幸い見ようと思えばいつでも見ることができる)

「風に吹かれて」は
ピーター・ポール&マリーやスティービー・ワンダー他多数。
忌野清志郎もCOVERSというアルバムで、
歌詞をほぼ全面的に書き換えて歌っている。

「その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ」の部分と
言いたいことは似ているような気がするが。

The answer my friend is blowin in the wind.
The answer is blowin in the wind.

元々、ブルースやカントリーなど
古くからの音楽に敬意を抱き、
それらをベースに曲を作り
歌ってきた。
だから、口ずさみたくなる
つまり、カヴァーしたくなるのかもしれない。

もしかしたら、
新しいことをやってきたという意識などはないのかもしれない。
「ライク・ア・ローリング・ストーン」などは
当初50番くらいまで歌詞があったそうだが。
また、じゃんじゃん湧き上がるように曲ができた奇跡的な時期も
ある一時期だったというような言葉も残している。

ノーベル文学賞受賞に関し、
本の世界で頑張ってきた人のことを考えると
違和感を感じざるを得ないと言っていたのを聞いたが、
たとえば、村上春樹さんも
無類の音楽好きであり、
予想するに別に悪い気はしてはいないだろう。
家にあるボブ・ディラン関連を集めたら、
ポートレートによるちょっとした一代記のようだった。




 

PLATアートスペースで劇団チョコレートケーキ「治天ノ君」を観た

カテゴリー │演劇

2日(日)14時30分~

この作品は時代劇である。

明治天皇が崩御する前の明治の終わりごろから
大正天皇が即位し、
即位後10年で、病に倒れ、
後年の5年をのちの昭和天皇である皇太子に
摂政として実験を握られ、
大正15年、48歳の若さで崩御し、
昭和天皇に引き継がれる。

そんな近代を描いた時代劇。
アフタートークで作家は言っていた。
「タブーを破りたい」
皇室を題材に、
人間大正天皇を描いたこの作品は高く評価された。
今回は再演となる。

平成天皇の生前退位の話題もあり、
タイムリーとも言えるが、
僕が観ながら思ったのは、
事実の強さである。
作家は、読める範囲の資料にあたり、
想像力で書いた、と言っている。

確かにそうだろう。
でも礎になるのは、
事実であろう。
年表にすれば、それぞれ1行で済む。
たとえば、
1900年(明治33年)大正天皇 九条節子と結婚
1901年(明治34年) 節子、昭和天皇を出産
1904年(明治37年)日露戦争勃発。 
1912年(大正元年)明治天皇崩御を受け、大正天皇即位。
1914年(大正14年)第一次世界大戦勃発。
等。

ただし、その1行の強度が強い。
それを題材に2時間20分の演劇作品にまとめる。
それが時代劇の強さだと思った。

「真田丸」の人気も同様ではないだろうか。
事実をバックに自由に作家の想像力を発揮するというか。
でもそのためには事実に対しての対処の仕方が問われる。
丹念に資料を読み込むことも含まれる。





 

クリエート浜松で2016浜松フォトフェスティバル、でじふぉと浜松展を見た。

カテゴリー │いろいろ見た

1日(土)
9月26日~今日10月2日までクリエート浜松で開催の
でじふぉと浜松展の案内があり、
見に行った。
そうしたら、別の部屋で、
2016浜松フォトフェスティバルの展示も行われていた。
会期も同じであるので、
合わせてそうしたのだろう。

でじふぉとは、カメラで撮った写真に
パソコン等でソフト等を使い、
デジタル加工を施している。

ソフトは日々発展しているので、
表現できるさまも進化する。

カメラでできる技術で撮影した写真が並ぶ
2016浜松フォトフェスティバルの写真とは
対照的である。

といっても、カメラ自体もはやデジタル機器だ。
フィルムで撮影し、現像する人はどれくらいいるのだろうか。
デジタルの進歩により、できることが増え、
表現の幅が広がったと言えるかもしれない。

デジタル加工は、
デザインの部類に入るかもしれない。
デザインの現場では写真のデジタル処理は
デザイナーの必須技術になっている。
写真とデザインのコラボレーションとも言える。

でじふぉと浜松展ではもうひとつ試みをしている。
デジフォト作品と詩とのコラボレーションである。
詩を書く人は、あらかじめ課題となるデジフォト作品を与えられ、
その作品に対し詩を書く。
セットでひとつの作品となる。

写真家の浅井慎平さんの写真に俵万智さんの短歌、
というコラボレーションの企画を
かつて雑誌で見た。

詩人が写真家にどう対峙するか、
そのさまが詩人により異なり、面白い。





 

からっかぜアトリエで劇団からっかぜ「闇に咲く花」を観た

カテゴリー │演劇

9月25日(日)18時~

その日は、浜北で高校演劇の西部大会を観た。
朝10時から5校の上演があったのだが、
お彼岸の墓参りに行ったことも有り、途中からとなった。
最後の高校の発表が終わると、
「17時から結果発表、講評があります。」というアナウンスがあった。

浜北から篠原か・・・。
18時から、篠原町にある劇団からっかぜアトリエで行われる公演の
予約をしてある。
17時からの結果発表を聞くと、
間に合うか微妙だったので、
結果発表を待たず、会場をあとにした。

ただし、高校演劇の西部大会はまだ3日間ある。
本日の上演校分の結果発表らしい。

「闇に咲く花」は井上ひさしの作品で、
第二次世界大戦後すぐの話である。
石段を降りると、
焼け残った神社がある。

そこには戦争の被害者である
戦争未亡人たちがいる。
神社の宮司と共に
お面工場を営み、生活している。
その宮司も息子が戦地に赴き、
戦死した戦争の被害者である。

冒頭、女たちは、ふくらんだ腹をかかえながら
舞台に駆け込んでくる。
身重の体と思わせながら、
中身は隠した闇米である。
配給の米だけでは生きていけない。
つまり、法を犯さなければ生きていけない。

そこに戦死したはずの宮司の息子健太郎が帰ってくる。
喜びもつかの間、
戦争の不条理に巻き込まれる。

占領していたグアムに赴任していた健太郎は
現地の人とキャッチボールをしている時、
投げたボールが相手にけがをさせてしまう。
健太郎は元々職業野球のピッチャーだった。
日本が敗戦国となり、
健太郎は、この時の不慮の事故が元で、
C級戦犯として手配される。

これがこの話の肝となる。
健太郎は、二度と戻らない戦争の被害者となる。

そして、そんな状況にも前を向きたくましく生きる
人たちの姿が、描かれる。
戦争というものの不毛さを摘発しているのかもしれない。

でも、それ以上に、
「闇に咲く花」というタイトルの様に
ひたすら生きることにまい進する花、
そんな風に生きる人々の姿を照らし出している。