23日(土)路上演劇祭JAPAN in 浜松2015が終了した

カテゴリー │路上演劇祭

写真は2番目に登場したアルス・ノヴァ
拡声器にヘルメット。

抗議運動の運動員のようでもあるが、
語っているのは
真説「桃太郎」。






 

5日(祝)静岡芸術劇場でポワン・ゼロの「聖☆腹話術学園」を観た

カテゴリー │演劇

5日(祝)16時~
ポワン・ゼロはベルギーの劇団である。
SPACがフランスのアヴィニョン演劇祭に参加した際、
演劇祭の分厚いパンフレットをめくっていて、
気になって観に行った劇団なのだそうだ。

演劇祭はINと呼ばれる招待とOFFと呼ばれる自主公演があり、
OFFは600余りの劇団が参加する。
OFFとして参加していたポワン・ゼロは
SPACの芸術総監督の宮城氏の目に留まり、
今回静岡で開かれたふじのくに⇔せかい演劇祭2015
で、静岡の地を踏むことになった。

人形劇でもある。
俳優が自ら等身大の人形を操る。
操る俳優の顔は見える。
文楽で人形を扱う人形遣いが黒子に徹しているのとは違う。
操るものは人格を持ち、操られるものも人格を持つ。
腹話術学園にひとりの男が入り込むという設定なのだが、
それ自体がすでに確信犯で、
これは人形についての話であることを最初から宣言している。

果たして人形とは何なのだろうか。
人の形をした作り物であるのだが、
扱いによっては命を吹き込まれる。
その人の代わりではあるのだが、
その人自身とも言える。
自ら言うよりも雄弁であるし、
乗り換え可能な自由さもある。

演出家は今後も人形劇をやっていきたいと言っていた。
ベルギーの地元では、
劇団の作業工房で、芝居作り、
人形作り、音楽作りなども行われているようだ。

ちなみに台本は映画監督でもあるアンドレイ・ホドルフスキー。
ホドルフスキーの「ホーリーマウンテン」を観たことも
この作品を観たきっかけである。
演劇祭では期間中、複数本上演される。
時間と金の制約があり、選ぶのは苦労する。









 

5日(祝)「例えば朝9時には誰かがルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする」を観た

カテゴリー │演劇

5月5日子どもの日
11時から静岡市駿河区の池田地区周辺で行われた
ふじのくに⇔せかい演劇祭2015の演目である
「例えば朝9時には誰かがルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする」を観た。
この公演は、劇場で行われるのではない。

集合場所は池田公民館。
JR東静岡駅前から無料のチャーターバスが出て、
程なく池田公民館に着く。

よく使い込まれた「公民館」だと思った。
浜松市では以前、「公民館」という名称が
今では「協働センター」に変わった。
変わった経緯を調べればすぐわかるのかもしれない。
面倒なので、後に回すが、
「協働センター」は呼びにくい。
いや、呼びたくないほどだ。
だからかどうか知らないが、
今でも僕は浜松のそれらの施設を
「公民館」と呼ぶ。
または元○○公民館。

各地域にこれらは点在する。
会合や用事で使用する機会もままある。
僕が○○協働センターとてらいなく呼ぶ日は来るのだろうか。

池田公民館に集まった観客たちは
4つのグループに分けられる。
配布された案内書で、グループにより
これから歩むコースが違うことを知る。

そうなのだ。
移動型観劇なのだ。
誘導しのスタッフに前後をはさまれ、
主な注意は、公道を通るので、
当然交通に留意することと
集団から離れないように移動すること。

それゃそうだ。
いくら気になったものがあったからと言って、
あらかじめ用意されたお芝居を観せるのが主旨なので、
勝手にはぐれてはいけない。

コースが4つに別れていて、
なおかつ同時進行で、芝居が繰り広げられるので、
観れるところと観れないところがある。

それらが計算しつくされて、
脚本が構成されていたかどうかは、
やはりすべてのコースに参加したわけではないので
わからない。

ただ、すべての観れるなんて、
何事もあり得ないので、
それは問題ではないのだろう。

ただでさえ、
大手を振って、他人の家の軒先を覗けるのだから、
芝居の世界の外に気が散って仕方がない。

少なくとも、僕は必要以上にキョロキョロしていたと思う。
日本の家の造りは様々である。
壁、屋根、庭の様子、生け垣・・・。
新旧織り混ざった
過ごしやすい住宅地であったから特にそう感じたのだろう。
もちろんこの場を選んだ3人の連名の主宰者たちの意図である。





 

5月23日は浜松駅北口で路上演劇祭

カテゴリー │路上演劇祭

5月23日(土)14時~19時に浜松駅北口遠鉄百貨店前で開かれる
路上演劇祭JAPAN in 浜松2015にエントリーしている
「はとまとまとつ」の練習をやっている。

静岡文化芸術大学の学生が多く、
大学の教室を練習場所として使わせてもらっている。

今日、明日と夜、練習をやって、本番です。

当日のタイムスケジュールはこちら。




2015のチラシはこちら。




ぜひお越しください。


 

サールナートホールで「ホーリー・マウンテン」を観た

カテゴリー │映画

4月26日(日)10:30~
ふじのくに(相互矢印)せかい演劇祭2015関連シンポジウム
「アングラ!カルト!アヴァンギャルド!!! 映画におけるオルタナティブ 上映会&トーク」
で、「ホーリー・マウンテン」を観た。
監督・脚本はアレハンドロ・ホドルフスキー。
上映後のトークで登壇者が「観ていて段々と、浄化されていく気がした」と
言っていた。
この映画の流れが、そのようになっている。

カルトムービーという言葉がある。
カルトとは
ウィキペディアをそのまま引用させてもらうと、
「元来は「儀式・祭祀」などの宗教的活動を意味しており、
否定的、批判的なニュアンスはなかった。
しかし、現在では、反社会的な団体を指す世俗的な異常めいた
イメージがほぼ定着し、犯罪行為を犯すような反社会的な集団を
指して使われ、よい意味には使われない」
とある。

またカルト・ムービーは
「熱狂的なファンによる小グループによって支持される映画のことである」
とある。

ホドルフスキーの作品はカルト・ムービーと称されたりする。
カルト・ムービーとは、言ってみれば
「変わった映画」と言い換えることができるかもしれない。
では「変わった映画」とはどういう映画なのだろうか。
反対は「変わってない映画」と言うのだろうか。
それは「普通の映画」と言い換えれるのだろうか。

「変わった人」という言葉を聞くことがある。
反対は「変わってない人」。
言い換えると「普通の人」。

表現方法は「変わっている」のかもしれない。

上映が始まる直前、メガネのありかがわからず、
カバン、身に付けた衣服のあちこちを探すが、
ない。
会場の照明は消え、スクリーンのみが明るくなり、
観客たちのおしゃべりも消え、
そんな中、いつまでも、メガネを捜すため
ごそごそしているわけにもいかないので、
「ああ、今から2時間、メガネなしで観ることになるのか・・・」
と観念し、
最後の最後、胸元にある左右2か所のムナポケットの内、
右をさわると、
「あった。メガネだ」
というわけで、
無事、メガネにより矯正された視力で
観ることができた。

冒頭、マリリン・モンローに似た裸の女性(2人)が
剃髪し、なぜか爪をはぐ。
そして、はりつけにされたイエス・キリストに似た男が
子どもたちによる投石を受ける。
傷口からウジ虫が大量にわく。
(すみません。表現は正確ではありません。うろ覚えです)

そこで多少吐き気を覚えながら思う。
「ああ、メガネ見つからなくてもよかったかな」
そこに手助けに入るのが、両手足のない男。
既知の間柄のように寸法が合わない同士が、
抱き合い喜び合う。

もちろん、何のことやらわからない。
そこから、上映された1973年当時、1500万ドルの制作費をかけた
さまざまなシーンが連続して映し出される。

最終的に男は「不老不死」の世界を求め、ホドルフスキー自身が演じる錬金術師らとともに
「聖なる山(ホーリー・マウンテン)」を目指すことになる。

内容の紹介にはほとんどなっていないが、僕も
どこか浄化される気持ちで観ていた。
そういう流れになっている。

14時から寺山修司監督の「田園に死す」も上映されるのだが、
夕方から、浜松で路上演劇祭の実行委員会が開かれるので、
会場を出て、静岡を後にした。