浜北文化センター小ホールで「はままつ演劇オムニバス」を観た

カテゴリー │演劇

11月26日(日)14時~。

はままつ演劇オムニバスは
はままつ演劇フェスティバル2017の一環で、
複数の劇団やユニットの公演が一日で観ることができる企画。

今年は4本。

Kinomi Produce 「霧に動く影」・・・正岡子規、夏目漱石 生誕150年に寄せて

子規、漱石の作品の朗読の他、
自作の子規の人生を詠んだ詩を朗読。

この詩が子規の人生の応援歌となっていた。
去り際の幕や照明や音楽を駆使しての演出が詩を際立たせた。
それは同時に子規の仕事を際立たせる。

途中読み手の息子さんが登場しアクセントを加える。
度胸の良さに驚いた。
セリフを発する佇まいがいい。
あえてセリフとして言おうとしていないのだ。

読み手が去った後も
読み手をそっちのけで
勝手に観客に向かいあいさつをするという
オチの役割で登場し、
終いまで共演者としての存在を発揮する。


座☆がくらく 「アパート」

「アパート」というタイトルから予想した内容とは違った。
今考えても思いつかない。
「キャンパス」ならわかるが。

学生たちで脚本を書いたのだろうか。
但し、普段このような会話はしていないと思う。
演劇をやろうとしすぎたのではないだろうか。
むしろリアリティから離れていく感じがした。

今までは演出の存在と重要性を感じた作品となっていたが、
今回は残念ながら演出の存在を感じることが出来なかった。
今までは自主公演、今回はオムニバス公演、
この違いが原因ではないとは思う。

夏に行われた柴幸男さん作の「あゆみ」は上演の狙いがわかる気がした。
今回はあえて学生たちに任せたのであろうか。

高校演劇を観ても、
指導者の存在は非常に大きい。
自分たちでやる時は自ら指導者の存在を探さなければならない。
それは、他の演劇作品であったり、他ジャンルの作品であったり、
世間のあらゆるものだったりする。

終了後ロビーに出るとOBたちの姿が見えた。
アドバイスし合えるとしたらそれはひとつの歴史の証であろう。

今回10人の出演だが、25人劇団員がいると紹介された気がする。
当然ながらもっともっと可能性はある。


Sfidante 「Revolver」

Sifidanteとはイタリア語で挑戦者という意味だそう。
今後も常に注釈を入れないといけないなと、余計な心配をした。
好きな世界観があるのだろう。
登場人物の名前にも表れていた。

作者は出演者にも名を連ねているのでオリジナル作品であろう。
劇中歌の「約束」という曲に作者名があるので、
オリジナル曲かもしれない。

役者は言う理由があってセリフを言っている。
決して、台本に書いてあるから言っているのではない。
すべてのセリフに動機がある。
動機がないときは本来はセリフを言う必要はない。

高校の同級生の劇団らしい。
それ以上は触れられていない。
演劇部が作られるといいなと思う。
もちろん部外者であるが。


劇団Tips 「水平線の歩き方」

演劇集団キャラメルボックスの成井豊さんの作品で、
全国でたくさんの劇団や演劇部が上演していることだろう。
成井豊さんの作品が上演する側にとって特に人気がある秘密が
今回わかったような気がした。
人間はどこか「感情」の生き物であるのだろう。
喜怒哀楽のバランスが巧妙に仕込まれている気がした。
これは人それぞれ好みがある。

ハッピーが好きな人もいる。
バイオレンスが好きな人もいる。
ウエットが好きな人もいる。
笑いが好きな人もいる。

知る限りの日本の音楽にはラブソングが多いと思う。
普段言えないことをカラオケで歌えば、
言いぱなっしだ。
「大好き」「誰よりも愛してる」「君が好き」「あんたが好き」「死ぬまで一緒」「アイ ラブ ユー」。

そのあたりを成井豊さんの作品はうまく救い上げていると思う。
喜怒哀楽の中では哀の分量を多めに配合。
つまり涙。

その上、印象付けるたとえ話がうまい。
水平線とラグビーの話を結びつけるのが
ラグビーのゴールポストの「H」と
HORIZON、つまり水平線の頭文字「H」。
何ておしゃれ。

劇団Tipsは数多い上演の中でも
そのような良さを最大限に生かしていたように思われた。
いろんな意味で。






 

浜松市福祉交流センターで劇団からっかぜ「蠅取り紙~山田家の5人兄妹」を観た

カテゴリー │演劇

11月25日(土)18時30分~。
その日は路上演劇祭にエントリーする「砂山劇場」の活動があり、
砂山町の街歩きをした。
終了後やはり歩いて、成子町の福祉交流センターへ向かった。

演目の「蠅取り紙」は、飯島早苗と鈴木裕美の共作。
2人が所属する自転車キンクリートとして1994年に初演、
自転車キンクリートSTOREとして、1996年、1999年の2回上演されている。

1987年に青山円形劇場で「リンゴ畑のマーティン・ピピン」という自転車キンクリートの作品を観て以来、
自宅に公演案内のDMが届いていた。
いつまで届いていたかは忘れてしまったが、
数年の間は届き、いつしか届かなくなった。
公演に行ったのは東京に住んでいたその時だけである。

以前劇団からっかぜで取り上げた「法王庁の避妊法」も自転車キンクリートにより上演され、
飯島早苗さんと鈴木裕美さんにより戯曲が書かれているがこちらは原作の小説がある。
こちらも「蠅取り紙」と同じく初演は1994年。
ちなみに「蠅取り紙」が7月で「法王庁の避妊法」が12月。
自身での再演はもとより全国各地でいろいろな劇団が、
しかも今でも上演されている戯曲である。

自転車キンクリートは1982年に日本女子大学の学生6名により結成された。
その頃の僕には、抜群に印象に残る劇団名だと感じられた。
もちろん今回の劇団からっかぜの公演には自転車キンクリートは全く関係ない。

僕ははじめて「蠅取り紙」を観たが、
仕掛けがうまいなあと思った。
前半の終盤まで、
この芝居はいったい何を伝えたいのかわからない。
その時間を支えるのは、単純に言うと、
演技力なのかもしれない。

ハワイ旅行へ行くという両親を見送るために
5人の兄妹が集結させられる。
自宅に住む長女、次女、次男。
それに婿養子に行った長男、結婚し家を出た三女。

それぞれが両親というより主に母を心配させている種があるという設定。
母がハワイに発つと、
自宅ではそれら心配させごとを披露しあうのが前半になる。
だからダメな部分のみが舞台上に充満する。

次女の夫が登場するが、
前妻がいたのだが、
次女と出会い、
略奪愛の末、離婚し、
次女と結婚した男という設定。
にも関わらず元の妻ひとみちゃんに
今も連絡を取っている。
その上、長男の高校時代の同級生である。

そんなダメな人たちのダメさの発表会を観客たちは
他人事としてただただ楽しんでいればいい。

ところが、電話が1本かかってくることにより様相は変わり始める。
母が、渡航中盲腸にかかり、緊急手術したというのだ。
兄妹たちは、盲腸がいかに死亡率が低くて安心できる病気かについて
議論する。
手術は成功したが、麻酔がききすぎ、
意識が戻っていないというのだ。
一同は、ここでは不安感はない。
じきに意識は戻るにちがいない。

そこで突然母が家に帰ってくる。
兄妹たちは混乱し、
電話で入院中のアメリカの病院に電話をし、
母の体の存在を確認し
今ここにいる母の姿は幽霊もしくは意識のみが
視認できる姿形をもって戻ってきたものだと確信する。

ここからとたんに舞台は転がり始める。
それぞれのダメさはそれぞれの中だけでよかった心配させごとが
母をこんな状況にさせた責任問題に発展し、
より深くえぐり合う展開となる。

そこで得る効果は、
自分をよく知ることである。
いいのがれをし、
他者に責任転嫁していたことを
自分事としてとらえ、
時には反省し、
ダメさを認める。

観客はここで、
前半は他人事として笑っていたものを
少し自分事としてもとらえる。

兄妹たちは
三女の夫が発した
昔聞いた中国の魏呉蜀の三国時代だか何だかわからない逸話話から、
母の心配事をなくさせ、楽しませることが
この事態を脱却する唯一の方法と妄信し、
行動に移すことに一致団結する。

母においしいものを食べ、大いに楽しんでもらい、
安心して元の体に無事帰ってもらおう。

食後、家族は揃って
ダウトというトランプをやっている。
家族団らんである。
母は楽しいのか饒舌で、
子供たち5人の思い出話を語りだす。
その話のひとつが
蠅取り紙の話である。

ここでようやくタイトルと結びつく。
ここまではまったくタイトル「蠅取り紙」の意味はわからなかった。
内容と直結するタイトルではなく、
芝居全体の雰囲気を象徴するふんわりしたタイトルであることを知る。
予想するが、戯曲を書き終わったあとにつけたタイトルではないだろうか。

山田家では蠅取り紙であったが、
それぞれの家庭で異なるだろう。
自分の家では何だっただろう。
一瞬考えた。

5人は意図せず、
自らの未来を明確に整理し、
決意を語りだす。
結果それは心配をさせていると思っていた
母への安心宣言となる。

そして舞台は終幕へ向かう。






 

浜松勤労会館Uホールでシニア劇団浪漫座「直虎伝説」を観た

カテゴリー │演劇

11月19日(日)14時~
昨年もふれたが、
チラシを見た時、
出演者名はやはり本名がいいと思った。

それぞれ役を担い、演じている。
決してその他大勢の役ではない。
覚悟を持ち、別名を名乗るのならいいが、
多少の自信のなさのあらわれなら、
それはまったく不要だと思った。

今回の公演のきっかけになったと思われる
NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」は
始まった頃は、
竜宮小僧という寓話が話に出てきて、
まるでジブリアニメ(具体的に言えば宮崎駿の風の谷のナウシカ)かよ、
と一見して感じたが、
その竜宮小僧を「直虎伝説」では狂言回しとしてうまく使っていた。

重要なことを知らせたい時に
「手紙」を送るという演出は
ご都合主義だが、
それが面白く、
その時に登場する黒子もひとつの役として成立していた。
最初に出てきた時、
うまくいって小さくガッツポーズするなど。
約束事がOKなのは演劇の特長である。

ダンスチームの爆華’Sの登場の仕方は感心した。
演劇に違う色を与え、
なおかつ演劇の中に溶け込んでいる。
そんな必然性があった。
セリフもあり、役割を演じていた。

衣装は特に時代物になると
ますます磨きがかかっている。
予想するにとても楽しい作業ではないだろうか。
演技をするよりとは言わないが、
細かい遊び心も感じられる。

合戦場面も
ダンス風に演出したりして、
工夫の様子が感じられた。
かっこうよく見せる演出は大切である。

見本としているのは何だろうかと考えた。
これは「大衆演劇」なのではないだろうか。
以前バーデンバーデンという入浴施設で上演されていたし、
有名なとこでは下町の玉三郎と呼ばれた梅沢富美男さんとか。
早乙女太一さんとか。
登場ごとに役者の名を呼ぶ掛け声がする。
おひねりが飛び交う。

そうか。
掛け声か。
本名である必要はないのかもしれない。
きっと会場に来ているであろう
ご主人やお子さんやお孫さんや
友達たちになじみのある呼び名でいいのだ。
その人たちに笑顔になってもらえればいいのだ。
アイドルだって、同じ構造だもんね。






 

シネマe~raで「新感染 ファイナル・エクスプレス」を観た

カテゴリー │映画

11月18日(土)18時25分~
開演まで時間があり、モール街のサイゼリアで過ごした。
16時まえに終わった絡繰機械’Sの観劇の後、
浜松街中で時間を過ごすことにした。
以前は、板屋町にあったガストだったりしたが、
ステーキガストに店舗形態を変えて以来、
別の場所をさがすことになった。

仕事で一緒になった人と映画の話をしていて、
少しだけこの韓国映画「新感染 ファイナル・エクスプレス」の話になった。
原題のタイトルの方が好きだという話を聞いたが、
その時は具体的に聞かなかったので、
どんな原題なのか知らなかったが。
後ほど調べたら、
「釜山行き」というタイトルなのだそうだ。

そうなのだ。
日本の新幹線のような列車で釜山へ行くという話である。
調べたら、韓国高速鉄道(KTX)がソウル~釜山間を走る路線等がある。
ただし、技術は日本の新幹線ではなく、フランスのTGVの技術を導入しているそうだ。

タイトルについての感想も寄せられ、
原題の方を好む人が多いように思われた。
これは、観た人の鑑賞後感に起因する。

「新感染 ファイナル・エクスプレス」は、たぶん配給会社が、
噛まれると次々にゾンビに生まれ変わる
ホラーパンデミックパニック映画として、
売り出そうとしたことによりつけたタイトルではないだろうか。

だが、観客はホラーともパニック映画ともゾンビ映画ともとらえず、
家族などを描く人間ドラマとしてとらえるという結果となった。
そこに相違が出来たのだと思う。

釜山に向かう、
つまり別れ話が出ている父と
娘が母に会いに行くというよくありそうな人情ドラマに
ゾンビが重なっているのがこの映画の最大の特長である。

パニック映画も決して、人間ドラマをおろそかにして作っているのではない。
でも、パニックを成立させる方に重きが置かれ、
人間ドラマの方は薄くなってしまうのが実際の結果だろう。

話の進ませ方がオーソドックスなだけに
計算され、脚本がよく練られているのが
よくわかる気がした。

でも、何よりゾンビ映画としてもパニック映画としても
とてもよくできている。
列車に中でも外でも感染が広がり、次々とゾンビになっていくという設定。
襲い来るゾンビの映像もリアリティがある。

「シンゴジラ」が受け入れられたのもリアリティだと思う。
絵空事ではあるが、
今生きている世界と無関係ではない。
うそっぽくない。
ほんとうっぽい。
それはCGなど技術の発展により、
成し遂げられているのかもしれない。

俳優の演技もとてもほんとうっぽかった。
娘が学芸会で歌った「アロハオエ」というハワイ音楽が物語の鍵のひとつとなるが、
その使い方も心憎かった。






 

万年橋パークビル8Fで絡繰機械’S「コンクリートシアターvol.2」を観た

カテゴリー │演劇

11月18日(土)14時~
短編芝居3本を各回ごとに2本ずつ組み合わせて上演。
「迷宮の夢」は観たことがあったこともあり、
「Rush」と「錯綜」の2本の回を選んだ。

短編と紹介されているが、
40分~50分の作品であるので、
中編と呼んでもいいのかもしれない。

朝起きた時からそぼ降る雨が、
気温を下げていた。
万年橋パークビルのパークは駐車場の意味で、
店舗と駐車場の複合ビル。

コンクリートシアターは、
8Fの駐車場を劇場として活用し、上演される。
入場すると、
「ああ、コンクリートだなあ」
むき出しのコンクリートに囲まれた中に
板で組まれた舞台が設置され、
その上には、いくつかの椅子らしきものが置かれていた。

「Rush」から上演される。
寒さを気使いしきりにブランケットの入用を聞く前説者が話している最中に
俳優が登場し、椅子らしきものに座りだす。
椅子らしきものは当然のように椅子として使用され、
家族がリビングでテレビを観ながら御飯を食べるという
ごくありふれた状況から始まる。

どうやら、父にボーナスが出るのを目当てに
家族そろって食べ放題の店に行くのを
前年悔しい思いをした雪辱戦の意味合いも込め、
ストイックなまでに準備を整え、燃えているらしいのだ。

NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の話を持ち出した事を発端に、
『家族VS食べ放題の店』の様相を呈してくる。

アメリカンフットボールは攻守を交代して試合が進む。
これは常に同じ状況でせめぎ合うサッカーやラグビーと決定的に違う。
むしろベースボール(英語を使う必要はないのだが、つまり野球)と構造は同じかもしれない。
攻め手と守り手をわけて、点取りゲームを行うのだ。

アメフトの攻め手の代表はクォーターバックである。
クォーターバックがボールを排さなければゲームは始まらない。
そしてベースボールの守り手の代表はピッチャーである。
ピッチャーが投げなければベースボールは始まらない。

あ、アメフトは実はあまりテレビで観る機会ありません。
かたくなな考えがあり、家で観ることができるのは地上波のみで、
唯一観られそうなスーパーボールは時差の関係で
勤務中の月曜午前が日本での中継時間なので。

何でスポーツの話になったんだろう。
そうなのだ。
「Rush」はまるで、アメフトについて語るかのように演劇が展開する。
アメフトの中継番組を観るかのように専門用語が語られ、
初心者向きに説明もなされる。

攻め手は、家族であり、
守り手は、食べ放題の店である。
シーンの展開は、攻守の交代による進んでいく。
攻守は同じ役者が演じる。
守り側のリーダーである食べ放題の店の店長以外は。

ラスト、襲撃した(来店した)家族の前に立ちはだかる(お迎えする)
店長を前に、クォーターバック(母)の合図に、一斉に攻撃体勢を取る。
この体勢のことを何て言うのか調べたら、
FFP(ファンダメンタルフットボールポジション)というのであろうか。
両足を肩幅くらいに開き、腰を落とす。
オフェンスでもディフェンスでも用いられる安定した姿勢だそうだ。

集約されていて、思わず笑った。

「錯綜」の舞台セットはひもだった。
15分の休憩時、セットの準備がなされることがアナウンスされ、
その様子を観ていてもいいと言われたが、
ビル内は先客がいたので
そばの第一通り駅までトイレに行って戻ってきたら
すでに準備は終わっていた。

真ん中に白いひもが円の形に置かれ、中に女がいる。
大相撲の本場所中だから言うのでもないが、
相撲の土俵にも似ている。
相撲も本来は神事から発する。
まわりを棒を持った人たちが、円を囲うように配置され、
舞踊のような儀式のような動きでセリフを唱えながら廻っている。

女は幽閉されている。
囲うひもは檻であり、まわりは敵ばかりである。
むしろ神に見放されたという状況である。
未来を予見し、災いを呼び寄せたとして、断罪されている。
その対話は厳しい。

人間に未来を予見する資格はない。
神ではないのだから。
相当な過去をイメージするその時代は
現代以上に過酷な日常であったろう。
科学という観念がないので、
呪術の価値が大きく、
災いを収めるには生贄が有効とされたりした。

転じて、麦畑で育った女が登場する。
貧しいながらも、大地と人に恵まれ、
同じ場所で育った。
時が立ち、おのずと年をとる。
そばにはその年輪を理解する人がいる。
肯定してくれる人がいる。
その対話はやさしい。

大きなことを成し遂げたのではないかもしれない。
でも人生の象徴である麦畑の麦は収穫の季節にはたわわに実り、
そのたわわの麦は、それまで、幽閉する檻としても使用されていた白いひもが使われる。
人と人が片側同志を持ち、
収穫の実りを表現する。
そう言えば、ハロウィンも秋の収穫を祈る儀式を根源とする。
仮装は悪魔祓いである。

現代の日本で急に流行りだしたのも、
ほぼ収穫を祈る悪魔祓いの意識はないだろうが、
どこか、意識は古来とリンクしているのかもしれない。
科学を信じ切ることができない、
どこか呪術的なものを信じるという。

タイトルは「錯綜」である。
入り混じる気配を提示して幕を閉じる。
もちろん重なっているかどうかはわからない。
時代も場所も違う。
人も考え方も違う。

それは僕たちも同じである。






 

木下惠介記念館で「はままつ映画祭2017」を観た

カテゴリー │映画

12日(日)
昨年は2日間の開催期間、すべての映画を観た。
今年は前日の11日は路上演劇祭に参加する砂山劇場の活動で、砂山町の街歩きがあり、行くことが出来なかった。

11時30分からクリエート浜松で行われたムナポケの公演を観た後、
歩いて木下惠介記念館へ向かう。

13時45分からのEプログラムに少しだけ遅れて客席に座った。
Eプログラムは
「探し求めて」と「くゆるひ」

終了後、「探し求めて」の監督、出演者と映画祭関係者とによるトーク。
黒沢清、ゴダール、鈴木清順の映画の影響を指摘され、
映画の型について話が及んだ。
僕はそのように見ることあまりないので、
とても興味深かった。

Fプログラムは
「今夜新宿で、彼女は」と「He:Re-ヒア―」

東京で作られている映画は
概して役者がうまい。
それはまわりに声をかけることができる
人材の豊富さなのかもしれない。
演劇を演出するとき、
実は演技指導をすることも多い。
プロばかりを使えば、
純粋に演出をすることができるのかもしれない。

アマチュアの映画を観ていても
演技指導をしながら監督しているのか
ほぼそのままやらせてるのか
気になる時がある。

クロージング上映として
Iプログラム
「At the terace テラスにて」
こちらの作品の監督は
山内ケンジさん。
2年前に岸田國士戯曲賞を受賞した「トロワグロ」という演劇作品を映画化。
CMディレクターでもあり、静岡ではコンコルドのCMで超有名。
なんと、コンコルドのCMは19年もやっているそうだ。

CMは当然ながらスポンサーの存在があり、
それが制限ともなる。
ただし今回の映画ではその反動か「トヨタ」や「三菱重工」など
CMでは御法度の当該する企業以外の企業名が出てきた。

コンコルドの最新のCMをみても、
ネガティブやわからなさを効果的に使ったりして、
自由にやらせてもらっているなあと感心する。
だって、「パヤ」って意味わからないもんね。
実際は実在する何とかというアリクイなのに。

スーパー銭湯のサウナでテレビを見ている時、
他の人たちの反応は、
観察しているとなかなか面白いが、
よく流れるコンコルドのCMは
どこかポカンと見ている気がする。

笑うわけでもない。
眉をひそめるわけでもない。
ポカンと見ているのである。
コンコルドのCMで発せられる言葉を
流行語のように外で口にするというわけでもない。

「コンコルゲン」って言っている。
「パヤ」って言っている。
何なんだろ。
わけわかんないなあ。
いつもの人出てなんか踊ってるなあ。
やっぱ、わけわかんないなあ。

とポカンとしながらも、
コンコルドという名前は頭に残るのである。

僕の横にゲストで来ていた出演者のおひとりが座っていた。
確かに面白くて笑ったが、
必要以上に笑ったかもなあ。
ちょっと喜ばせようと思って。

いやいや、十分面白かった。
一言。
うまいなあ。
暴かれ方が。
腕が白いというきっかけから。
タンクトップが伏線になっている。

ちなみに映画は別荘のテラスというワンシチュエーションという
演劇と同じ設定で作られ、
キャストも演劇とまったく同じだったそうだ。
なぜわざわざ映画にしたのだろう。
演劇でいいじゃないかとも思うが、
演劇の要素をそのまま生かして
映画化する実験をしたのだと思う。

通常、映画にしようとしたとき、
映画の文法を考えて組み立てる。
違うものを作ろうとすると思う。

それを、演劇の文法をそのまま持ち込んで、
映画にしてみた。
それが成功したように思う。
むしろ新鮮であった。
かといって演劇ではない。
映画である。

CMを十分やっている人の、
演劇を十分やっている人の
どこか余裕を感じさせた。

キャッチコピーが、
「100%富裕層向け映画」。
このコピーを
スーパー銭湯のサウナで
目にしたら、
みな、ポカンとするだろう。

パチンコはそれぞれの欲求で行く人もいるだろうが、
映画を観る人は、
ある程度選別されるかもしれない。
それをまったく怖がってはいないように見える。
やはり余裕だ。






 

クリエート浜松2FホールでMUNA‐POCKET COFFEEHOUSE「熊人」を観た

カテゴリー │演劇

11月12日(日)11時30分~
10時からチラシの折込があり、
手伝ったため、開演まで時間があり、
同じクリエート浜松で行われていた
静岡県高等学校美術・工芸展 西部展を観た。

静岡県西部地区の高校生が描いた絵やポスター、彫刻などが展示されていた。
作品と共に作者のコメントが手書きで添えられている。
最優秀賞、金賞、奨励賞を受賞した作品は、賞の名称が書かれた紙が貼られている。
絵や言葉は、こんなにも内面が現れるものかと思った。
出品作品が多い高校があり、
題材への視点の鋭さはきっと指導者の影響もあるのではないかと推測した。

その後、2Fホールへ。
「熊人」を観る。
人間になりかわった熊が人間社会にいるという。
しかも姿は完全に人間のままで「熊人」が熊であるかはわからない。

熊の胃の中から人の骨が出てきた、というニュースがあった。
昔話の金太郎では金太郎は熊と相撲を取るが、
サーカスで自転車に乗る熊も普段は檻の中である。
11時30分からの1回目の公演は、
小さなお子さん連れOKのパパママ公演。
とは言え、未就学児に見せるということではなく、
未就学児を持つお父さんお母さんも
安心して観劇してほしいという配慮。

話を広げれば、テロや殺人なども日常の見分けのつかないところから
突如現れる。
被害者が出る。
「え?あの人が?!」
世間は騒ぐ。
そしてまた悲劇は繰り返される。

そんな世間の不安を
「限りなく人じゃなく熊」の存在がいる状況を生み出すことで、
演劇を通し具現化する。

MUNA‐POCKET COFFEEHOUSEの公演は毎回決まっていることがある。
先ずオープニングはYMOの「ビハインド ザ マスク」で幕が開く。
まるで、シリーズ物の映画のように。

そして、ダブルキャストの形をとる。
通常は、キャストの都合でダブルキャストの形をとることが多い。
ロングランのミュージカルなどは
単に公演数の多さが理由で、
完全ダブルキャスト性を敷いたりする。
主に営業的な理由が大きいと思う。

対して、こちらのダブルキャストはなぜなのか、
今回、それがわかる演出がされたように思った。

会場に入ると、
真ん中の演技エリアのぐるり360度に椅子が置かれ、
観客席となっている。
いくつかの椅子に「熊人専用」と紙が貼られている。
当然そこに座る観客はいない。

芝居は分かり合えない父と娘の対話の場面から始まる。
人間に化けた熊がいるということが観客に伝えられ、
ほどなくすると、するすると上から幕が降りてくる。
舞台と観客は半分に分断され、
それぞれで役者が出てきて芝居が展開される。

つまり幕の向こう側で行われているもうひとつの芝居は観ることができないのである。
幕一枚という事情から声は洩れ聞こえてくる。
もしかしたらこれも狙いなのかもしれない。

そうなのだ。
半分は見えない演出なのだ。
ダブルキャストの場合、
すべての公演を観れば、
すべてのキャストの演技を観ることができるが、
通常の観客は1本のみなので、
ああ、果たしてあの役者はこの役をどのように演技したのだろうか、
と夢想してみても、実際目の当たりにはできない。
その演技は想像の中だけである。

実は、このことを、
それでよしとしているのではないか。
足りないことをむしろ観客に与えている。

かつて、「桜田家族」という作品が上演された。
桜田家族とはサクラダ ファミリアをもじっていて、
スペイン・バロセロナにある建築家ガウディにより造られた教会をモチーフにしている。
ガウディの死後、現在も作られ続けている「未完」の象徴としてのサクラダ・ファミリアを
モチーフの骨幹にしていたように思う。

未完成。
完成させないのか、
それとも完成できないのか、、、

完成したら終わりなのか、
それとも終わりではないのか、、、

観客の持つ多少のストレスも
観劇の楽しみのひとつとでもいうように
観客を惑わせ続ける。
挑発し続ける。

とても暴力的な設定だと思う。
人と獣の共存である。
ただし、物語に実際の惨劇は訪れない。
用意された対策システムが機能し、
惨劇は未然に防がれ、
物語の主軸は父娘のわかりあえなさに帰結する。

これを普遍のテーマととらえることもできるが、
設定ならではの独自の展開に進むのを阻む気がする。
熊人の持つ危うさとギャグのバランスが気になった。
危うさが張り詰めれば張り詰めるほど
ギャグは悲哀を含み、より効果的になる。
笑いは落差と言われる所以だ。
笑えば笑うほど哀しくなる。

それが実現した時、
果たして、パパママ公演という範疇がふさわしいかどうかは
わからない。
本当に観たいものなら、
未就学児は父母に預けて見に来るだろう。
例えば夫婦が恋人時代だった時、
大好きでともに聴いたアーティストのコンサートとか。

当然ながら、演劇でそれを目指してもいいと思う。
誰がなんて言おうとも。
あえて言えば、面白きゃいいのだ。
怖すぎても。
変すぎても。
ああ、今、これ、自分に向けて言っている。







 

クリエート浜松ギャラリー35で「でじふぉと浜松展」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

11月11日(土)
翌12日から万年橋パークビル8Fで行われる
絡繰機械’S公演へチラシ折り込みの依頼に行った後、
クリエート浜松へ。

でじふぉと浜松は1996年6月にデジタルアートを楽しむことを目的に発足。

撮影した写真をベースに、デジタル加工を施し、アート作品にした作品が並んでいる。
以前は手書きだったデザインの世界は、
デザインソフトの登場で、
多くがパソコン上での作業となっている。
写真もカメラのシャッターが押され、現像されたものが作品のすべてだった時代から、
デジタル加工というもうひとつの表現手段が加わるようになった。

写真の見せ方のひとつの発展形である。
デザインの現場では撮影者と加工者は別だったりする。
カメラマンが写真を撮り、デザイナーが加工してポスターやチラシ作成に活用する。
僕が演劇をやる時、チラシの作成にその技術を使う。
但し、僕自身にはその技術がないので、技術がある人に依頼することになる。

でじふぉと浜松展に出展さえている作品は個人名で展示されているので、
写真撮影とデジタル加工は同一人物が行っているのだろう。
そこには写真の撮影とPCでデジタル加工するという二つの過程が伴う。
これは個人作業の中で2つのことをコラボレーションさせていると言ってもいいのではないだろうか。

個人作業でもさまざまな要素を互いにコラボレーションさせながら
ひとつのものを作っていく。
コラボレーションとは異なる分野間で共同作業をすることであるが、
個人の場合も同様の過程を経ると思う。

写真撮影は自宅で撮影する場合もあるが、基本的には外出する。
街に出る。田舎へ行く。外国へ行く。
山にも登り、海にも潜る。
つまりアウトドアである。

対して、デジタル加工の作業は基本的には自宅のPCの前で行う。
自室でやる。リビングでやる。キッチンでやる。
つまりインドアである。
2つの異なる要素がドッキングされて、1枚の作品が出来上がる。

3名×2篇 計6篇の詩と[「でじふぉと」とのコラボ作品も展示されていた。
3名の詩作者は、でじふぉと作者の作品を題材に詩作をする。
個人内のコラボレーションが、
他者、しかも他分野の表現とのコラボレーションに広がる。





 

静岡文化芸術大学・碧風祭で映画制作チームblinking frame「bf movie theater2017」を観た

カテゴリー │映画

11月5日(日)
演劇も観たが、映画も観た。
実は昨年もこのサークルの上映を観た。

撮影スタジオという場所で行われる。
講義で使用されるのだろう。
昨年も思ったが完全暗転になる
この大学以外ではほぼ考えられない上映場所ではないか。

3本のオリジナル作品が上映された。
僕が観たのは
「影のない世界」と「PS」の2本。
「眩き(くるめき)」は同時多発で行われる他会場の演劇公演を観たため
断念した。

発足して3年目だそうだ。
確か38人のメンバーがいることが紹介されていた。
たくさんメンバーがいるなと思った。
映画制作のためにとてもいい条件だと思った。

ロードショー映画を映画館やDVDやネット配信で観る。
エンディングロールに非常に多くの名前が流される。
多予算のハリウッド映画などは
いつ終わるのかと心配になったりする。
主要な役が終わると5列くらいになって、小さな文字でまとめて流れる。
文字見えねえよと思いながらも
それでもいつまでも続く。
自宅では早回しはあたりまえだし、
途中で切るのも度々だ。

アマチュアの自主映画だと
てきめんに名前の数は少なくなる。
今回のようにこれだけの数の名前が流れる自主映画はなかなかない。

映画撮影の醍醐味のひとつはロケ撮影にあると思う。
ロードムービーという言葉もあるように
全編ロケという撮影もあるだろう。
聖地巡礼という言葉も、ロケの存在から成り立つ。
アニメの場合は、撮影というのとは違うが。

関わっている人数が、作品のよしあしを決めるわけではないが、
映画館で観る映画がおしなべて相当の人数が関わっているのを見ると、
映画は、人が集まって作るものだという事がわかる。

そのクルーをどう構成するかが、
題材や脚本と共に、完成を実現するには必須作業となる。
ロケは、人数が多いとそれなりの効果がある。
俳優は緊張するかもしれないが、
その緊張がいい演技をする要因になると思う。

とかく映画サークルだと
脚本や演出を担当したい人ばかりの集まりのように思うが、
俳優のみならず、
さまざまなスタッフの仕事が、
映画を成り立たせている。

38人のメンバーで3本の映画制作。
映画制作集団としていい関係なのだろう。

「影のない世界」は、私以外は抽象的なセリフと象徴的な登場人物で構成されている。
セリフの中の大事そうな言葉が、時折抽出され、テロップで現れたが、この演出は何だったのだろう。
なんかテレビのドキュメントっぽかった。
プロジェクトXとか。

「PS」は、アイドルグループのよく知っている類の話かと思い気楽に見ていたら、
5人のメンバーそれぞれの心情を丁寧に描いていて、時間を追うごとに引き込まれていった。
秋元康さんを思い起こすビジュアルのプロデューサー役がいい味出していた。
60分描き切れるということは、もっと長いのもいけると思う。

映画が終了して、撮影スタジオから外へ出ると、
碧風祭は終わりに近い様相を呈していた。
僕はこれから静岡県西部演劇連絡会の会合があり、
担当でもあるので、スーパーで茶菓子を買い、一旦自宅へ帰る。
















 

静岡文化芸術大学・碧風祭で劇団マエカラサカナア「めでたしめでたし」を観た

カテゴリー │演劇

11月5日(日)静岡文化芸術大学 碧風祭へ行った。

13:30~ 劇団マエカラサカナア第3回公演「めでたしめでたし」
アポンナ公演 「桃太郎が来ない」を観た。
午後から行ったので、
11:30~のワンス公演「7番の事情」は観ることができなかった。

全体がよく練られ、実行された公演だったと思う。
演劇は実際に上演されたものだけで成り立っているのではない。
強引に言えば、必要と思われるいくつかの項目を埋めていく作業が演劇である。

例えば、ここに演劇公演を目論む人たちがいたとする。
劇作講座で「いつ、どこで、誰が、何を」を決めろと教えられるが、
演劇公演にもそれはあてはまる。

大学祭での上演は考えていただろう。
「いつ、どこで」はおのずと決まってくる。
碧風祭の開催日、11月4,5日の土日。
場所は学内ではあるが、いったいどこでやろうか。

今回行われた文化芸術研究センターは今までも
学内の演劇部等が公演を行っていた場所である。
声は反響するが、
街の片隅のパブリックスペースという感じで、
面白い場所である。
階段がそのままひな壇の客席になる。
用意されたクッションの気使いがうれしい。

大学祭という同時多発でさまざまなイベントが行われる状況を考えて
今回の公演形式をとったのではないだろうか。
1日に約20分の公演を3本上演する。
11:30~、13:30~、15:30~とそれぞれの公演の間にインターバルがある。

それも来場者が周遊する特徴がある大学祭ではふさわしい公演方法かもしれない。
演劇みて、タコ焼き食べて、展示みて、お好み食べて、ダンスみて、焼きそば食べて、サッカーの的あてやって、そういえば炭水化物ばかり食べているなとふと思い、唐揚げ食べ、映画みて、あ、今日はカロリーオーバーだと気が付いたのは後の祭り、開き直ってフランクフルト食べて・・・
これはあくまでも仮定に基づいたひとつのシミュレーションであるが、
限られた時間により多くのものを楽しもうという人は多いかもしれない。

偶然知った人と出会い話をしたら、
「ひとつに入れ込まないのが大学祭をみるコツ」と言っていた。
ひとつに入り込むと他のものが見れなくなることをさしていた。
なるほど、と思ったが、
僕は結果、演劇と映画でほぼ時間を使った。
ジャズとゴスペルとダンスも少しずつみたが。

「誰が」
劇団マエカラサカナアは劇部コーヒーメーカーのOBを主体とする。
今年は12月22日、23日「銀河鉄道の夜」を含め3回の公演を行う。
学生劇団は刹那がつきまとう。
卒業までという期限があるゆえだ。

「何を」
昔話をモチーフにした短編3本。
それぞれ「ワンス」「アポンナ」「タイム」と名付けられている。
合わせて、ワンスアポンアタイムで、「むかしむかし・・」の意味である。
それぞれの作品を違うメンバーが脚本を書いている。
演出もそれぞれ違うメンバーが担当する。
それもメンバーで話し合って決めたのであろう。
互いに脚本を書き合い、
演出し合い、
出演し合うのである。

もうひとつ「どのように」についても触れたい。
ツイッター等でこまめにPRを行っていた。
PR動画も制作されていた。
衣装や小道具は得意の分野なのだと思う。
発展してオリジナル商品の制作・販売。
当日の会場運営も考えられていた。
昔話をモチーフにした絵が壁に貼られていた。
先もあげたが、座席用にクッションが用意されている。

繰り返し言うが
演劇は実際に上演されたものだけで成り立っているのではない。

演劇公演に関わる人すべてにより成り立つ。
それはとうぜん観客も含めてである。
むしろ観客の存在で完結する。

そこまで気使うというのは実は
意外と難しいことなのだ。

僕は演劇はチームワークだと思っている。
仲がいいというのとも違う。
チームワークにもさまざまな形はあるが、
団体スポーツと同じように
チームワークが最後にものを言う。

アポンナ公演の後、
ジャズやゴスペルやダンスや映画を観て、
15:30~タイム公演「オオカミと一匹のコヤギ」を観た。
ラストはオリジナル曲を歌い、踊った。
やりたいことをやりたいようにやっている。

その後、映画を再び観たが、
残念ながら炭水化物や唐揚げを食べる時間はなかった。







 

朝市(砂山町)から時まちフェスタ(庄内町)へ

カテゴリー │演劇

11月4日(土)

サザンクロス商店街の朝市は毎月第1・3土曜日の10時~12時に開かれる。
遅がけではあるが11時過ぎに行った。
ハロー砂山のメンバーがいて、「砂山劇場」の案内をする。

そののち13時から浜松市西区の庄内町集会所で行われる
時まちフェスタ vol2 温故知新カフェ「音と朗読」&時まち収穫祭へ行った。

庄内町は舘山寺の少し南の方にある。
のどかと言われる場所はあちこちあるが、
地形により、のどかさの雰囲気が違うと思った。
山あい、田園地帯、海沿いなど。
この辺りは浜名湖畔である。
漁業と農業がまじりあっている気がした。

焼き芋準備・点火から始まる。
そして、集会所内で催し物。
先ずは2人組の女性デュオ「キリギリス」による演奏。
「里の秋」「通りゃんせ」他懐かしい歌をギター、リコーダーで奏でる。

続いて演劇家である柏木陽さんがおじいちゃんやおばあちゃんから昔の話を聞き、
その内容を元に朗読+歌。
伴奏にメロディオン。

終了後、焼きあがった焼き芋を購入して食べる。

またまた場所を移動。
浜北駅前で
「砂山劇場」の打ち合わせ。

写真はキリギリスのお二人。
高校生の時から一緒にやっているそうだ。
素晴らしい。