年末から昨日にかけて観た映画 

カテゴリー │映画

年末から昨日にかけて映画館で観た映画を並べる。

12月24日(日) シネマe~ra  フランソワ・オゾン監督「私がやりました」

1月3日(水) シネマe~ra 石井裕也監督「愛にイナズマ」

1月7日(日) TOHOシネマズ浜松 ヴィム・ヴェンダース監督「PERFECT DAYS」

1月11日(木) シネマe~ra 荒井晴彦監督「花腐し」

1月24日(水) シネマe~ra 鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」

浪漫三部作と呼ばれる鈴木清順監督作品「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」が、
ただ今シネマe~raで上映されている。

「ツィゴイネルワイゼン」を観て、思ったこと。
監督の美学が映画のすみずみにまで行き渡っているなあ。
これは監督の演出だけでない。
プロデュース、脚本、俳優、音楽、美術、衣装などが一体となって、ひとつの作品を作り上げている。
あたりまえのことではあるが、あらためて実感した。

平日夜の鑑賞後、映画館を出たら、ある劇団の役者さんがいて、
同じ映画を観ていたようで、話しかけた。
「もう2本も観たいね」





 

メロープラザ多機能ホールで「MY LIFE-9割ドキュメンタリー朗読劇-このまちに暮らすひとびと」を観た

カテゴリー │演劇

1月21日(日)14時~

袋井市のメロープラザには何度か来たが、
浜松から行くと、裏口にある駐車場に停めるので、
表玄関から建物を観たことがなかったことに、この日初めて気付いた。

公演終了後、会場内を巡ってみようとしたら、
表玄関があることに気付いたのだ。
外に出て見たら、ハッとした。

そうだよなあ。
裏玄関からしか出入りしていなかったので、
それまで、建物の印象があまりなかった。
何とも雰囲気のある建物じゃないか。
朝方雨が降っていた空は晴れていた。

「MY LIFE-9割ドキュメンタリー朗読劇-このまちに暮らすひとびと」は、
メロープラザと演劇集団esの共同主催。

この地域に住む人の経験を朗読劇にしたとある。
脚本・演出は澤根孝浩さん。
短編朗読劇3本作品。

地域に住む人と話を聞く人の2人の対話がセリフとなり、
それぞれの役を朗読者が演じ、読む。
時には対話の相手が、現地で出会った人と変わり、
演劇的な盛り上がりを増す。

この形式が面白いと思った。
ご本人が語る方法もあるだろうが、
それはお話会のようなものになり、
ここでは朗読作品として客観性を持たせている。
(もしかしたら、1本目はご本人がご自分の役を読んでいたかも?)

当事者が本人以外にもうひとり増えることになり、
練習や本番を通して、
誰かが他人の人生を生きる体験を持つ。

この作業は芸術が出来る役割だと思う。
例えば徳川家康はかつて何人もの役者が演じている。
クリスマスになればサンタクロースは世界中のお父さんが扮し、
子どもの前で演じられている。
人生が複製していく。
それは同じものでなく、それぞれの解釈で。

人は自分の人生を生きている。
その人生を、さまざまな人が演劇を通して、もう一度生きる。
それは時や場所を越えることもある。

会社勤めをしながら演劇をやっている二十二歳の女性が、高校を卒業して就職し、一人暮らしを始めた時の葛藤していた頃の話。
さみしさを通し、両親やまわりの人に恵まれていたことに気がつき感謝する。
背景には、菜の花畑の中、父と母に抱かれる女の子の写真が大きく映し出されている。

静岡県内の大学を卒業し、袋井市の法多山に勤めている男性が、コロナ禍、催し等が中止となる中、花を生けるなど新しい試みを始めていく。
SNSにも力を入れ、思わぬ多くのフォロワーを得て、つながりを広げていく。
背景には、境内にカメラを向ける法被姿の男性の写真。

バロセロナで日本人の奥さんと出会ったスペイン人の宝飾デザイナーの男性が、森町の茶畑と集落にひかれ、移住する。
戦国時代に建てられた八幡神社に魅せられ、例祭に行われる神事に氏子として参加することになる。
背景には、神社を見上げる外国人男性の写真。

生演奏で朗読を支える、ギター演奏・歌のHIROさんの音楽は多彩で、作品に添って工夫が凝らされていた。
奏でたフレーズをサンプリングし、それを使いながら演奏するのは、僕自身演劇ではあまり観たことがなく、感心した。
準備しているところで「やってるな~」。
そして、ギター演奏と重なって「やった~」。
役者だけでなくミュージシャンも当然、演じている。
また、ギター演奏だけでなく、縦笛も吹き、神事の場面などでは、特に効果を発揮していた。

歌も朗読の間とラストに2曲披露される。
どちらも愛する人とのことを歌っていた。





※建物の正面からの写真には、観客を見送る白いシャツの演者たちの後ろ姿が見える。






 

『雄踏歌舞伎』を観ることが出来なかった

カテゴリー │演劇

1月21日(日)

『雄踏歌舞伎』を観るために、会場である雄踏文化センターまで行ったが、
駐車場が満杯で、待てば空きが出ただろうが、
まだまだお客さんがやって来そうな雰囲気に、急遽行先を変えることにした。

飲食店でも行列を見ると、入るのをやめたり、
映画を観に行って、混雑していると観ずに帰ってしまうことがある。
自覚している僕の習性だが、
どこか、こんなに観る人がいるのなら、
僕ひとりが客席にいなくてもいいじゃないか、
という変な、驕ったような気持ちがあったのだと思う。

きっと会場には、地域や近辺、または遠方から、
この日を楽しみにやって来た人たちがいる。
普段演劇をあまり目にしない人もいるだろう。
出演者の身内や子供歌舞伎だったら、親やおじいちゃんやおばあちゃんもそろって来ているだろう。

昼飯時を挟むから、お弁当も持参で詰めかけているかもしれない。
公共ホールは飲食禁止の所が多いが、
少なくとも銀座の歌舞伎座は飲食自由だ。
雄踏文化センターがどうかは知らないが、
客席では禁止でも、ロビーではお弁当を広げる輪が広がっていることだろう。

『雄踏歌舞伎』は新聞で読んだ開催時間は10時30分から14時30分の4時間。
江戸時代の歌舞伎は1日かけて1本を上演していたと言う。
物語の発端から終幕まで通して上演する「通し狂言」。
まさに庶民の楽しみだと思う。

現在の歌舞伎は興行的な理由から昼の部と夜の部と別れている。
でも大相撲なんかは朝9時くらいから前相撲が始まり、幕内の結びの一番が終わるのは18時近く。
実に9時間の催しだ。

以前、引佐の横尾歌舞伎に行ったことがあるが、
全国各地で専業俳優意外の役者により演じられる素人歌舞伎が行われている。
農村歌舞伎、村芝居などと言う場合もあるだろう。
有名な時代物の歌舞伎を演じるのが一般的。
(素人歌舞伎という言葉が、素人演劇、素人音楽、素人ダンス、素人絵画などと言わない中、どうかと思うが、Wikipediaより引いた)

「大鹿村騒動記」という原田芳雄さん主演の映画では、
長野県下伊那郡大鹿村で300年にわたり行われている素人歌舞伎、大鹿歌舞伎を題材にしている。

お祭りで舞いを踊ったり、お囃子を演奏するなど、
演劇的なことは文化・伝統の継承や住民の娯楽・楽しみとして、
全国のどこででも行われている。

決して特別なものではない。
でも、やはり特別なもの。
演劇とはそういうものであるといいと思う。

『雄踏歌舞伎』もぜひ観たかった。
路上演劇祭で知り合った仲間が雄踏歌舞伎を手伝っている話を聞き、
今回行こうと思った。
それを果たせなかったのは申し訳ない。

でも、満杯の駐車場を見て、
地域に十分支持されていることを理解できただけでも、
良かったと思う。

何かを観ようとした時、
情報で知り得ないことは想像してみる。

時間と体は有限なので、
他の用と重なることもあるし、
当然気持ち的な問題もあったりし、
行くか行かないかの選択をすることになる。

もちろんいくら想像してみても、
実際に観て見なければわからない。
横尾歌舞伎では子供たちによる「白波五人男」が演じられた。
それは当然ながら無条件で拍手喝采ものだ。

素人歌舞伎をやっている人たちは、例えば歌舞伎座や南座で行われる歌舞伎を超えたいと考えることはあるのだろうか?
先進的な演出、歌舞伎役者を超えるような演技や舞、衣装や演奏‥‥‥。
おそらく、そのような世界で成り立っているものではないと思う。

自分だけのためのものではない。
何者かに突き動かされやっている。
それは神かもしれないし、宇宙や大地のようなものかもしれない。
文化の根源的なもの。

急遽変えた行先は、袋井市内の旧浅羽町。
地域に住む人の話を元にした朗読劇。
当日の入場可のSNS情報を目にしていたのも行くことを決めた理由。
浜松の西側にある雄踏から自宅あたりを通り越し、
天竜川を越え、東へ向かう。



 

浜松市勤労会館Uホールで、はままつ演劇フェスティバル2023「高校演劇選抜公演」を観た

カテゴリー │演劇

1月13日(土)と14日(日)の2日間に渡り、
『静岡県西部高等学校演劇協議会 高校演劇選抜公演』が行われた。
はままつ演劇フェスティバル2023の一環である。

運営に携わっている静岡県西部演劇連絡会のメンバーが、
各日上演終了後、『座談会』と言う名の質疑応答の会を設ける。

前年までは舞台の上から、客席の高校生たちに向け、講師と言う立場で、
講評を行うという方法が取られていた。

今回、あらたに、同じ目線に立ち、互いの顔が見える関係で対話をしようということになった。

高校の演劇部には秋の大会があり、それに向けて作品を作る。
それが終わった後、こちらの「高校演劇選抜公演」のため、準備を進めることになる。

秋の大会で、上級生が引退する、
日があまりない、
授業はもちろん、学校のテストもある、
風邪にかかる人もいる‥‥‥。

そんな中で、今回の公演のための作品を作り上げる。
高校に入ってから演劇を始めた一年生は、
演劇経験が一年未満だ。

13日は上演後、ホールでは翌日のリハーサル中のため、
ロビーで2校との「座談会」を行った。
14日は4校のため、客席で、2校ずつに分かれ、
西部演劇連絡会のメンバーも二手にわかれ、担当した。


13日(土) 
◎浜松西高校「Mr. My Friend No.9」 

世界にアンドロイド2人きりという鮮烈なラストが印象的な作品。
近未来ではあるが、とても現代的でもある。
「外に出た今」と「内に居た過去」を音楽と照明で分け、
伝えるべきメッセージが浮かび上がって来る。
つなぐのは先生と僕の同じ誕生日。
AI 時代はプロ棋士がAIに将棋で負けるが、
ここではアンドロイドは作った先生にチェスでは勝つことができないまま、
永遠の別れとなる。
人の心が宿るアンドロイドも人間が作った生産物なのだ。
座談会の中で、オリジナル作品を用意していたが、
コロナの中、上演できなかったと語っていた。
その時々で部員の事情もあり、時期が変われば上演が難しいこともあるだろう。
でも、書かれた脚本は上演されて初めて役割を終えるので、
こだわりがあるのならぜひ何らかの形にしてほしいと思う。

追記
座談会後「今までで一番影響を受けた作品は?」と問われ、明確な答えが出来なかった。
演劇をやっている影響は作品だけでなく、いろいろな要素があるので、頭が一瞬パニクる。
小学校の林間学校のクラス発表で台本を書いたこと。
大学時代演劇を始めようと思ったけどうまく始められなかったこと。
社会人になり黒テントを招聘するアマチュア劇団に入ったこと。
共同創作をする作り方に共感していた劇団青い鳥の芹川藍さんが講師の磐田の講座に参加したこと。
はじめて歌舞伎座で歌舞伎を観て「これ「演劇じゃん」と思ったこと。
劇団四季の「ライオンキング」のオープニングに「高度な仮装大賞だ」といたく感動したこと。
今も観たり書いたり戯曲も読んだりしていること。
「一番影響を受けた作品」を探し中とも言える。
これは本音である。


◎浜松湖東高校「Araneae-アラーネア-」

アラーネアとは蜘蛛の糸の意味。
同級生が4人という過疎地域の高校生。
ひとりは村長の娘で、近所は年寄りばかり、最寄りのコンビニも遠く、バスも1日数本。
あさひ、いろは、しょうた、ひまりはそれぞれ特徴があり、そして夢があり、
小さなコミュニティーの中でもいろいろな葛藤がある。
リズムを生み出しているのは、思いついたことをすぐ行動に起こすあさひ。
そこから、クモの糸のようにそれぞれの関係に複雑に派生する。
友だちみたいな先生、たけねえと共に過ごすあたりまえの高校生活はどこか甘酸っぱい。
誰にでも思い当たる青春時代のひとつのわだかまりが解決した後は、
良い曲が流れる中、卒業までの日々がセリフなしの早回しで演じられる。
それが自然で、リアリティがあった。
演出者によると、秋の大会が生徒オリジナルのテーマが重めの脚本で、
今回は明るい自然体で出来る脚本を選んだということだった。
通常1時間の高校演劇の中で、今回はおよそ35分の上演時間。
これからの可能性については、楽しみしかない。


14日(日)
◎磐田西高校「弁護代理人」

幕開け、肝試しに校内の警備室に忍び込んだ生徒のひとりが幽霊の登場をきっかけに起こる死亡事故。
そして、暗転後、この学校では最高裁判官であるオダマキという生徒がいて、悪をさばいているという説明がされる驚きの展開。
完全な正義とも言えず、きらいな食べ物は他の人に押し付けるというかわいい横暴ぶり。
その支配に対抗し、弁護代理人部というクラブがあり、裁判の被疑者になろうとする生徒を守っている。
そこに、冒頭の生徒が何人も消えているという「神隠し事件」の話が入り、その解決が主題となっていく。
証言人として先生たちが呼ばれ、これが生徒に従う先生と言う矛盾の構造というのは面白い。
仕掛けられたオチはまさに戦慄の事実で、それはひとつのミステリー。
1時間の上演時間に詰め込むには情報が溢れすぎていて、後は入念なブラッシュアップ。
サイコパスの殺人鬼と弁護代理人部の世界が2つの題材が同居しているようで衝突してはいないか?
考えられたキャラクター造形は俳優にとりやりがいがあるが、脚本が整理されればされるほど、
練習でも丁寧に時間を費やすことが出来る。
そのあたりも考慮すると演劇全体の完成度がグンと高まる。
観客は命の軽さに慟哭し、同時に命の重さを知る。
タイトルは「弁護代理人部」が良いと思う。


◎磐田東高校「制服の落下点」

脚本を良く読み込まれていて、それぞれの人物造形が的確に思えた。
それは自然に聞こえ見える、セリフ、動作に反映する。
俳優自身が自ら考え、話し合いながら演技プランを立てているように見えた。
もちろんそれを全体で支える演出がある。
陸上部のジャージの子は舞台に入退場する時の走り方が、舞台効果の為に意図的で美しい。
同年代の高校生を演じるというやりやすさはあっても違う人格の役を、
今生きている自分が持っているものを活かしながら演じているように思えた。
それは他者との関係性にも現れる。
登場人物との濃厚なコミュニケーションが、
キーとなる舞台に現れない2人の人物の存在を浮き立たせ、それが客席を切なくさせる。
脚本の問題だが、2人目の人物は違う結末であった方が良かったかもとも思う。
そうすれば、舞台に登場する人物同志で終わる結論が、もっと外に向かったかもしれない。
ただ、じゅうぶん脚本が持つメッセージは伝わって来た。
「制服の落下点」は青春の1ページと言うには、あまりにも哀しい場所である。


◎浜北西高校「天魔のヒト仕事」

悪魔のような天使「天魔」が天からの指令を受け、
テストの点はいいが、友だちも仲の良い異性もいない、孤独と思い込んでいる男子学生アキラの元に訪れる。
話しの設定はある種物語の王道。
すぐ思いつく代表的作品は「ドラえもん」(未来から冴えない先祖のび太くんのため、ドラえもんが送り込まれる)。
助ける側と助けられる側と言う構造だが、
特徴は世話を焼く側も焼かれる側も同様にコンプレックスがあることにある。
一見一方的な立場関係だが、お互いに足りないところがあり、
それが同じ目的に立ち向かう時は、共闘する同志となるのだ。
そこに大きなテーマ、「友情」が生まれる。
前に立ちはだかる壁が高ければ高いほど、生み出す友情は熱く、心に残るものになる。
アキラが友だちに声をかける時、気になる子に告白する時、天魔が絡むと、
もっと物語が展開すると思ったが、この話はアキラが家で天魔とのやりとりがすべて。
アキラの外での行動が生み出され、結果成長と言う目的を遂げる。

追記 僕がMCとして担当したため知ったのだが、
本当は演劇部の生徒達でオリジナルの脚本を書きたかったが、完成せず、
今回は部室にあった戯曲から選んだそうだ。
ぜひ次回公演はオリジナル作品を、というより、先ずは1本書き上げて欲しい。
なにせ、戯曲の描き方の第一歩は「最後まで書く」ことなのだ。
タイトル、何を書くか、いつ(時)、どこ(場所)、誰(登場人物)をひとつひとつ決めて行く。
僕が今まで教わった事でもあるが、どこか自ずと実践していることでもある。


◎磐田南高校「Excellent!!ケミストリー」

僕が担当した高校ではなかったので、帰り際出入口で、
「80年代のロック好き?」とオリジナル作品の作者に話しかけたら、
「はい!」と答え、その後、最初の曲デヴィッド・ボウイ?と観劇時の印象で聞いたらポカンとされ、
他の生徒が「ビリー・アイドル」と一言。
知ったかぶりしたみたいで、見事に恥をかいたが、そんな今生きている自分が「好きなもの」がストレートに現れた演劇だった。
ビリー・アイドルの曲に乗り、車のハンドルと工具を手に、踊りながら現れるチアキ先生。
そこで行われる作業はエドのダイヤル式電話につながり、それは過去である80年代。
2023年の高校に1980年代のチアキ先生の大学時代から同級生であるエドを呼び寄せる。
つまりタイムトラベル。まさに「バックトゥザフューチャー」の逆バージョン。
SF好きで今に不満を持っている現代の女子高生リンが、
予感のように80年代の若者エドに恋をして呼び寄せたようにも見えたが、
チアキ先生とリンの行動はつながっていたのだろうか?(見逃したかも)
作者は、80年代の若者エドを「男でアメリカ人(アメリカ×日本のハーフ)で男」で生きやすかった時代と表現している。
また、学生の頃のチアキとの会話で「集会行って来た」と、
学生運動の時代(盛んだったのはもう一世代前だが)のような会話がなされる。
80年代のロックからパンク、ニューウェーブと分化していく音楽論、ミュージシャンやバンド名、
「エイリアン」「ターミネーター」「バックトゥザフューチャー」「フェリスはある朝突然に」等の映画が会話に織り込まれる。
スマホに情報が集約していく現代への疑問が語られる。
あふれ出る多方向への思いが抑えきれないように。
リンが本音を語るかのように言う。
「今の私には何もない。この世界はつまんない。孤独になりたくない。未来は変えられる」








 

2024年の始まり

カテゴリー │新年の始まり

路上演劇祭Japan in 浜松2023で、
テラ・ダンス・ムジカにて演じた「ブラックボードマシーン」。

本番で使う大きな黒板をつくるため、試しにミニチュア版をつくってみた。
上演後、小道具は役目は終えるのだが、
この度、海へ連れ出してみた。

暮れも押し迫った30日の中田島砂丘の駐車場には、
県外ナンバーの車も多く停まっていた。

初めは遠州灘海浜公園で撮影していたが、
すぐそばの海岸へと向かい、防潮堤にて。

HAPPY NEW YEARとチョークで書き込んだ段ボールでつくった黒板を、
全長17.5キロ防潮堤のほんの一部で、
通行者の邪魔にならない端っこに置いたら、
「きょうはなに学ぶ?」のキャッチコピーが浮かんだ。

本年もよろしくお願いします。




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