シネマe~raで「ベル・エポックでもう一度」を観た

カテゴリー │映画

8月22日(日)12時10分~

実はこの映画の前に上映された「14歳の栞」という
14歳(中二)のリアルを描いたドキュメント映画を観る予定を入れていたのだが、
もたもた支度をしていたら、
10時からの開始時間に間に合わなくなってしまい、
次の映画は何だろうとネットで調べた末、観ることにした。

「ベル・エポックでもう一度」ってタイトルどうかなあ?
「『いちご白書』をもう一度」?
「あの素晴らしい愛をもう一度」?
竹内まりやの「もう一度」?
B’zの「もう一度キスしたかった」?

過ぎ去った過去の美しかった思い出をしつこく思い続けて、
何らかの思いも寄らぬ偶然な出来事がきっかけとなり、
それが叶ったり、叶わなかったリする。

きっとそれを手軽に実現するとしたら、
タイムトラベルだろう。
タイムマシーンは
「バックトゥザフューチャー」が完璧な形で
やりきった。

などと、気恥ずかしさもあり、何となく気が乗らないタイトルだったが、
レビューを読むと、展開に意外性があり、
何かの脚本賞を取っていると書かれたりしていたので、
優柔不断にも評判につられ、観に行くことにした。
(僕は人の感想を信じる方だ)

とある倦怠期の老夫婦。
倦怠期というより、旦那は妻に家を追い出されてしまう。
老夫婦というのは語弊があるかもしれないが、
スマホやITが日常的となった“今”から
出会った頃の1974年に戻るという設定であるので、
映画の製作年の2019年から換算すると45年前。
65歳とか70歳とかの年齢かもしれない。

過去に戻る仕掛けは時空を超える
タイムマシーンではなく、
タイムマシーンごっこをサービス内容とする会社である。

依頼者の希望の年、場所、思い出を再現するのである。
セットを建てこみ、小道具を使い、衣装を着込んだ俳優を使い。

1974年の、夫婦が出会った店「ベル・エポック」を舞台に
有料サービスのタイムマシーンごっこが展開される。

設定はまるで映画的であり、演劇的である。
テレビ番組でも成り立つかもしれない。

依頼者はその場所に存在する何者かを演じることが出来る。
主人公の男性は、自分自身をリクエストする。
他の依頼なら、例えば、大人気歌手になってみたかったという夢を
叶えることが出来るかもしれない。

そんなに珍しい設定でもない気もしたが、
登場人物がそれぞれ個性的で、
展開も決して日本的でなく(当たり前だが)、
どうしてもフランス的と言いたくなる内容なのだ。

年齢や性別や国籍や人種などでひとくくりにするのは
慎重にしなければならないが、
乱暴なのを承知で、いい意味で「フランス的」と言いたいのだ。
いくらフランスなど知りもしないくせにと突っ込まれようとも。
何だろなあ。
おおらかさとか。
めげない感じとか。
ああ。
人生は謳歌すべきものなのだ。
あたりまえだが。

あと、音楽の選曲がとても好み。

あと、今、パラリンピックの開会式を観ていて、
演劇を観ている気がしてならないのだが、
人によっては音楽ライブ。
人によってはダンスショー。
人によっては光のショー。
しかし、それが単独ではなく、一体となった総合芸術の形となっている。

何だろうな。
一言でいうと、
しがらみがなく解き放たれた感じ。

誰に見せたいか目標がはっきりしている。
それは、障碍者であるアスリート。
オリンピックの是非が盛んに言われた頃、頻繁に聞いた
“アスリートファースト”という言葉が頭に浮かんだ。

あと、
片翼の飛行機役の主人公の表情が魅力的。






 

シネマe~raで「アメリカン・ユートピア」を観た

カテゴリー │映画

8月9日(祝)17時55分~

元トーキング・ヘッズのディヴィッド・バーンが発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」のワールド・ツアー後、
ブロードウェイショーとして披露していた作品をバーン自身の依頼によりスパイク・リーがライブ映画にした。

観ながら、ちょっと思ったのは、
オリンピックで、アスリートたちは、5年間(前回オリンピックからという意味)準備してきたけど、
開・閉会式は、結局準備が足りなかったんじゃないかなあということ。
1年延期となったが、継続して5年間準備をして欲しかった。
コンセプトが変わろうとも東京オリンピック2020には変わりはないのだから。

「アメリカン・ユートピア」は、予想もしていなかったが、
東京オリンピックの基本コンセプト「多様性と調和」と妙に合致していた。
そこには、ディヴィッド・バーンの人生分が準備に費やされているのだ。








 

オリンピックと演劇

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■オリンピックと演劇
                      フィールド 寺田景一


東京オリンピックが始まった。
開会直前にもいくつか問題が起こり、開閉会式のショーディレクターを担当していた小林賢太郎氏が過去の作品の表現が理由で、本番前日に解任となった。
小林氏は、ラーメンズというコントユニットで、テレビのお笑い番組に出演していたこともあるが、その後舞台を中心とした活動に移行し、ソロ公演やプロデュース公演、また、カジャラというコント集団などで、公演を重ねた。
そして、2020年11月16日をもって、表舞台での活動は停止するという発表がされた。

僕は、小林氏の舞台などをテレビやYouTubeなどで観たことはあるが、生で観たことがない。
豊橋の劇場PLATで公演情報を見つけるが発売後すぐに完売となっていた。
小林氏の公演は、僕の中ではコントと言うイメージだが、戯曲集という形で著作物を出していて、演劇とも言えるし、そして、ミュージシャンと組んだり、映像作品を発表したり、ジャンルというくくりは重要でないのかもしれない。

ジャンル分けは僕もどうでもいいのだが、興味深いのは、あくまでも僕が活動する範囲での情報であるが、演劇に関わる人に小林賢太郎ファンが多いことだ。
僕と同年代だとつかこうへい、野田秀樹、北村想などとなるが、もっと下の年代であることは断わっておく。

一体何が引き付けるのだろう?
それは、発想と仕上がった作品が、とても斬新に見えるからなのではないか?
その発想が、今までこの世になかったまったく新しいものであるということではない。
新しく見えるということが重要で、小林さんはそのように見えるように意識的に計算してもの作りをしているのではないか?

表舞台から引退するという発表の後、名前を聞いたのは、7月15日、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式についての発表を行った際である。
ショーディレクターとして、クリエイティブの名簿のトップに小林氏の名前があった。
その時は、お笑い番組だったり、コントや演劇などの活動の先にこれがあるのかと、少なからず驚いた。

それは歓迎だけではない。
コロナ禍、1年の延長を経て、開催が発表されながらも反対の意見が渦巻く中、突入しようとしている式典は一体どんな演出をすれば、多くの人を満足させられるのだろうと部外者にもかかわらず心配した。

小林氏が、今まで行っていたように見えた、自分の目が届く範囲を注意深くコントロールしながら広げていく手法とマッチするのだろうか?
あ、でも今回は、非常事態時のオリンピックの式典だ。
全世界から新しい価値観を求められるのではないか?
そんな理由で、小林氏は選ばれたのではないか?

僕は、ここでは、解任の件については言及しない。
今までもこれからも表現活動の価値が変わるものではないと思うから。

開会式が終わっての反応で驚いたこと。
それは、新しい価値観を求められていたことは共通認識だと思っていたのだが、思いのほか、過去のオリンピックやコロナ禍以前に計画されたプランとの比較で例えばしょぼかったとか、感想が述べられていたこと。
それはないんじゃないか、と思うが、人は頭で考えるよりも心で反応しがちであることを認識。
組み込まれている各々の価値観が表に立ってしまうのである。

演目の中に、1964年の東京オリンピックの際に導入された競技種目の50のピクトグラムを実演するパフォーマンスだが、僕も多くの方が述べているように、仮装大賞だ、と観た途端に思ったのだが、これなど小林氏らしいなと感じたのも確か。
ミニマムに必要最小限の人数で行うこと、オリンピックの歴史を継承するつながりを持つこと、無観客でテレビの向こうの視聴者を意識したものであること、言葉の壁を越えて誰でも理解できること、上質なエンターテイメントであることなど、様々な状況から生まれてきた条件の中で考え抜かれたことが伺える。

平常時だったら、やらなかったと思う。
その時は各国の参加者たちはグランドに集結していて、大型ビジョンでは観ることができたと思うが、会場にいる人が生で観るには、表現のサイズが小さすぎる。

演劇畑では著名な劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏もコロナ禍以前の総合演出チームの中で、開会式のステージ演出に抜擢されていたそうだ。

演劇というものは、生の舞台で行うということが本質となるので、日ごろの活動からすると、会場の規模が表現の枷となる。
観客が拡大なしで観ることが原則となるので、小劇場から始まった劇団が大きなホールで公演するようになっても、一番遠い客席のお客さんから観ても満足できるように作る。

それが、数万人収容のスポーツ競技場が舞台となると、音楽なら音というものの強みで、距離を乗り越えてしまうが、演劇はそうはいかないのも現状。
まあ、サーカスのようなものなら出来うるかもしれないが。

僕は多くの人と同様オリンピックの開閉会式が好きだが(これも今まで観てきた経験から組み込まれていると思われる)、やはり開催国の文化財産を駆使した、ある意味金に糸目をつけない本気の見世物が楽しみなのだろう。
そして、オリンピックというスポーツの祭典で、文化というアプローチで一緒になって盛り上げることに高揚感を感じるのだろう。

表現は当然、自分のためだけにしていいが、おのずと対象者が必要となる。
文章なら読んでもらわなければ意味はない。
音楽なら聴いてもらわなければ意味がないし、映画や演劇なら観てもらわなければ意味がない。

オリンピックの開閉会式の対象者は誰なのだろうか?
世界中、という表現が当てはまるのかもしれない。
でもそれは顔も見えない人たちである。
インターネットでの表現(YouTubeとかSNSとか)も、対象は世界中という言い方もできるが、実際はそんなことは意識せず、あくまでも自分発信で発進したのがたまたま世界に届いてしまう時もあるという感覚だろう。
僕が開閉会式の演出に選ばれることは万に一つもないが、そんなことを考えた。


(静岡県西部演劇連絡会会報 2021年8月1日号より)