シネマe~raで「海炭市叙景」を観た

カテゴリー │映画

26日(土)18時55分~
17時にからころの練習を終え、磐田から帰宅し自転車で浜松街中へ。
佐藤泰志の18篇の短編小説集の映画化。
18篇の内の5編が映画では使われている。
海炭市という仮空都市を舞台に市井の人たちの日々の暮らしを描いている。
悲喜こもごもであるが、多くは悲しみを帯びている。
喜びは・・・
初日の出がうす暗い雲間から昇る。
「こんなものしかなくて・・・」の年越しそばがまあまあうまい。
強制退去をせまられている一人暮らしのおばあさんの行方がわからなくなっていた猫が戻ってくる。
プラネタリウムに妻の不倫を疑う男が勤めているプラネタリウムに母から虐待を受けている少年がやってくる。上映が終わっても帰らない少年に男は星座表をあげる。そのふたりがある日同じ路面電車に乗り合わせる。互いに気がつかないのであるが。という偶然。
久々に会う父子だが、会話が少ない。
映画やドラマで描かれる幸せは得てして日々暮らしている中の実感とは異なる。
美しい俳優により演じられ、理想化された幸せは肉付けされている。
対して「海炭市叙景」は原作の意思を汲むかのように、息苦しく、うす暗く、面倒で、痛い。
時はクリスマスや年末年始を経るがその華やかさはない。
これが人々の生活なのだ。
映画化は今は故人である作家の高校時代の同級生他、故郷である函館の市民たちの手によって作り出された。
エキストラだけでなく主要キャストにも演技経験ゼロの一般人が配されたとのこと。
エンドロールには協力者たちの名前が流れる。
叙景とは、風景を文章に書き表すこと。
人間の営みという景色を丹念にフィルムにおさめた。
そんな映画かと思う。






 

菊川アエル小ホールでステージ21「ルナティック」を観た

カテゴリー │演劇

20日(日)14時30分~
ミュージカルシアターSTAGE21 10周年記念公演とある。
第一部 月になれない女たち
第二部 月にあこがれる男たち
オリジナルの脚本、オリジナルの楽曲による本格的ミュージカル。
歌あり踊りあり芝居あり。
これは日本を代表する劇団四季でもあまりやらない。
四季は主にブロードウェー等で上演された既成作品を日本語に翻訳して上演する。
そんな四季でさえもあまりやらないことを菊川周辺に住む人たちが集まってオリジナルのミュージカル作品を作っている。
まわりくどいいい方になったが、僕はこのことだけでもかなり感心する。
そんな姿勢がいい。
そして、実現してしまうことがいい。
舞台に立つ人たちが生き生きと自分たちが信じることを目いっぱい表現していることがいい。
パンフに団員募集とあり、対象として小学校(4年生以上)、中・高・大学生・社会人とある。
僕は4回目の観劇だが、今年は特に大人と子供が一体化して舞台を作り上げている印象が強かった。
舞台を囲んで360度客席があるという構造。
舞台の下に照明を仕込み、点灯すると舞台に空けた穴から一筋の光が立ち上る。
写真を合成して作成した凝った作りのチラシ。
第一部の月からやってきた7人のルナティックたちの衣装。
多くの人の手がかかっているという印象だ。
ある意味アマチュア離れしているといってもいい。
オリジナルの音楽という魅力はあるが、PCで作っている音は仕方のないことかもしれないが当然オーケストラやバンドと比べると弱さはある。
歌もマイクがきいてないためか、近くの席だったが、多少距離を感じる。
いわゆるプロのミュージカルは話の筋以上に先ずは“音”で持っていく。
ミュージカルの要素。
芝居・歌・音楽・ダンス。
どれが一番重要か、というのは愚問だ。
互いに引っ張り合い、ベストのものになっていく。
今回は実は芝居が引っ張っていたのではないかと思っている。
第二部でカフェのママが舞台狭しと動き回り「狂うのよ。叫び続けるのよ・・・」(すみません。セリフまったく正確でありません)と言うところで確実に舞台は“動いた”。
若い男女の心情を歌に乗せた所は少ない音数のギター音が効果的でせつなく、芝居と歌と一体化していた。
続いて恋のベテランVSビギナーという新旧女の対決に移行し、一転情熱的なフラメンコ調の曲での歌の応酬でこれぞミュージカルという感じだった。
印象に残ったこと。
第一部を終えた出演者たちが第二部の上演中会場の後ろの方で見守っている姿。
表情は見えないけどどんな表情をしているかはよくわかる。
それは共演者だけに与えられた特権。
それらが見えたのも僕が360度の客席の内、舞台上に設けられた席に座っていたから。
すみません。
とても気が散る客で。






 

下呂温泉に行った

カテゴリー │こんなことあった

18日(金)~19日(土)岐阜県の下呂温泉に社員旅行。
名古屋からホテルの直通バスで下呂温泉にあるホテルへ。
飲み、食い、(温泉)入り、喋り、翌日ホテルから直通バスで名古屋へ。
帰宅したのは夜。




 

からころと苺

カテゴリー │思うこと

12日(土)はからころ。
4月9日ゆやホールでの第7回公演「だいじょうぶ」の練習。
「空から星?」

写真は赤くなってきた苺。



 

掛川名作映画祭で成瀬巳喜男監督作品「めし」を観た

カテゴリー │映画

13日(日)10時~11時40分
掛川市生涯学習センターホール
1951年の作品。
大阪で証券会社に勤める夫(上原謙)と住む妻(原節子)が実家のある東京に戻るのだが、そこは戦争の焼け跡に建った新しい町。
但し、まだ傷跡を引きづっているため、たくましくもまだおぼつかなく、今後訪れる「雨後のタケノコ」の前段階という感じ。
対して東京からやってきた二十歳の姪と夫が妻抜きで観光バスで巡る大阪は大阪城、道頓堀のくいだおれ人形、通天閣、大阪証券取引所などが戦争などなかったかのように存在する。
会場の年齢層は“高し”。
覚えのある風景や習慣に共感の頷きや笑い。
年代の異なる僕も頷くこと多し。
言葉が多すぎないところがいい。
夫と妻。
母親と娘。
近所の人。
向かいの人。
いとこ。
兄嫁。
会社の同僚。
世界はこの辺りで成り立っているのだ。
今の時代の人情の機微という表現について考えた。
原作は林芙美子の新聞小説。
続いて3本成瀬作品を上映するが、僕は1本で帰る。
ホールの外ではそこかしこに用意してきた弁当を広げる人々の輪。
中高の部活の試合の昼の休憩時間の様子と似ている。
年令はずいぶんと違うが。
作品と作品の間にこうして30分ずつ休憩時間がある。
4本目の「浮雲」を観終えると18時15分。
これは正しい1日の使い方だと思った。
朝10時から夜6時過ぎまで。
30分の中休みをはさみながら、4本の日本の名作映画を観る。
昔の歌舞伎や芝居見物や寄席や相撲の見物。
ひとつ違うこと。
会場に放送が。
「場内では飲食は禁止となっています」
ひとりで観に行った僕は成瀬作品を4本観る意欲よりも1本のみ観て、1日の残りの時間、他のことに費やすことを選んだ。
もちろんどちらが有意義だったかはわからない。








 

長久手町文化の家 風のホールで「劇王Ⅷ」を観た

カテゴリー │演劇

6日(日)10時に集合し、浜松西インターから東名高速で長久手インターで降り、長久手町文化の家。
前日土曜日に行われたAプログラム4作から勝ち残った1作とBプログラム4作から勝ち残った1作と3連覇中の鹿目由紀さんが巴戦で戦う決勝戦。
上演時間20分・役者3名以内・数分で舞台転換可能という条件のもと上演される短編演劇連続上演イベント。
13時から予選で敗退した劇作家が審査員(今年は佐藤信・泊篤志・長谷川孝治・安住恭子氏の4名)から講評を受ける(ぶった斬られる)『落武者を斬る!』。
14時30分から決勝巴戦。
出場作は「お昼」平塚直隆、「ひようりいつたい」納谷真大、「溝」鹿目由紀。
このイベントはすべての作品上演後、審査投票と観客投票で勝者を決める。
観客の数と同数の票が審査員に与えられる。
今年は予選も含め如実に出たようだ。
観客点が高かったが、審査員点が比較的低い作品。
そして、観客点が比較的低かったが、審査員点が高い作品。
予選のBプログラムと決勝でそれが出た。
そしてどちらも観客点が高かった方が総合点が高く、勝ち残った。
それがとても興味深かった。
講評等の発言権は審査員のみに与えられる。
「どちらが演劇的だったか」等もっと聞きたい気がした。
そして、観客の言いたいことはそれぞれの心にある。
帰りの車はそれそれの心をしゃべりながら帰った。
浜松に戻り、19時から北部公民館で西部演劇連絡会。
劇王の日程はいつも2月の第一土日。
西部演劇連絡会の例会は2月の第一日曜日。
つまり劇王の決勝戦を観に行くと、その後続けて連絡会。
去年もそうだった。
そして劇王Ⅷは鹿目由紀の4連覇で幕を閉じた。







 

シネマe~raで「エル・トポ」を観た

カテゴリー │映画

3日(木)19時35分~
仕事帰り、年会費を払い、会員の更新。
以下、映画のHPからそのまま引く。

1970年真冬のニューヨーク。真夜中から始まった伝説

70年代、次々とこの世に産み落とされたカルト・ムービー。その頂点に君臨し、《最高の完成度そして最もクレージー》と評される伝説的作品が「エル・トポ」である。
なんの宣伝もされないまま、真夜中に上映された本作は瞬く間に当時のニューヨークを熱狂の渦に巻き込み、歴史的なロングランを記録。
アンディ・ウォーホル、ミック・ジャガー、デニス・ホッパーといった当時の最先端を行くアーティストたちを魅了し、自ら4度も劇場に足を運ぶ程本作に惚れ込んだジョン・レノンはその配給権を買い取るまでに至る。
寺山修司の絶賛を受け、本作が日本初公開されたのは1972年のメキシコ映画祭。その後、15年の歳月を経て、1987年、ついに一般公開。日本でのカルト・ムービーを牽引する大ヒットを記録。そして今回、製作40周年デジタルリマスター版として23年ぶりの劇場公開となる。


引用はここまで

1970年のメキシコ映画
監督・脚本・主演・音楽 アレハンドロ・ホドロフスキー
エル・トポとはモグラの意

人生とは思ったようにはいかないもので、こうなりたいと行動してもこうならなかったり、そうしたいと思ってもそうできなかったりする。
それは自分もあり、他人もあり、社会もあり、時代もあり、多くの障害があるからだ。
そして、どちらかというと逆に逆に進みがちでもある。
でも逆説的に一見矛盾しているようでも、それはなるようになる道であったともいえ、良きにつけ悪きにつけ、時間を経れば誰も何らかの形になっている。
映画の主人公エルトポは全身黒づくめの腕利きのガンマンとして砂漠の中を馬に乗って現われる。
但し、後ろには真っ裸の小さな息子を乗せている。
立ちどまると、息子におもちゃと母親の写真を砂に埋めさせる。
こうして映画は始まる。
悪党たちに理不尽に虐殺された村の復讐を果たし、西部劇のヒーローよろしく立ち回るエルトポは助け出した修道士たちに息子を預け、というより悪党たちにとらわれていた女との新たな旅を選ぶため息子を捨てる。
実の息子より、他人である女をとる。
そして、女の男への理不尽な期待、「一番になってほしい」という欲求に応え、砂漠に住む4人のマスター(強者)と対決を挑む。
彼らは修行者であったり拳銃さばきが上であったり、完全者であったり、賢者であったりして、まともな勝負ならかなわない相手である。
しかし、エルトポは姑息な手段で勝っていく。
本来の西部劇なら、正々堂々と勝っていく。
逆説の物語は加速していく。
もはやエルトポが望んでいるのか望んでいないのかはわからない。
欲望というより、振り回されている。
まだまだ話は続く。
瀕死の状態になり、長い眠りにつき、大道芸人として金を稼ぐなどする。
エルトポはいったい何をしたかったのか。
それはよく生きたかっただけなのだ。
よく生きたいと行動すればするほど、空間がねじまがっていくかのように逆説の物語が展開する。
この映画が生まれた背景には60年代から70年代にかけたカウンターカルチャーの流れはあるだろう。
ザ・ビートルズの時代。
そこはある種新しい文化に寛容な時代であったとも言える。
映画はその一瞬をフィルムに閉じ込める。
その時代生き生きと存在していた一瞬を、40年後の今もスクリーンでながめることができる。
もちろんほとんどのものは違う。
観ている僕らも違うし、映画館を出れば2011年の2月3日だ。
そう映画の中味がリアルに感じられるわけでもない。
でも、なんとなく映画の中味に引きずられながら街を歩く。
なんとなくだが、映画の冒頭、砂漠の砂山の向こうから姿を現す黒づくめのガンマン、エルトポの気分なのだ。
あくまで、なんとなくだけど。

写真は夜だったのでフラッシュの反射が写り込んでます。












 

表現する日々

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

表現する日々

                       2004年8月1日号連絡会会報より


4年前の5月、欽ちゃんの仮装大賞本選に出場した。
つまり、テレビに出た。
そして、14点で不合格だった。
20点満点で、15点以上が合格する。
かれこれ20年以上続く番組なのでご存知の方は多いと思うが、わりと多くの出場者が合格する。
懸命に得点アップを懇願する姿に。
子供のなみだを一杯に溜めた表情に。
欽ちゃんの、そして審査員の心が動き、点数はパパパ、と上がりパパパパパ~ンと合格となり、バニーガールに祝福のメダルをかけられる。
それらの光景はややもするとテレビの世界のマンネリズムとして、嘲笑のネタになったりもする。
また、出場する作品すべてが面白いわけではない。
仮装大賞は全国10箇所で、予選が行われる。
予選に出たい場所の締め切りに合わせ、申込書を送る書類審査から始まる。
それを通ると実際に作品を作り、予選会場で演じる。
そこで合格しても全国でまだ予選があるので、本選に出場が決まったわけではない。
プロデューサー、放送作家等多くのスタッフたちに囲まれ、「ここはこうしろ」「これはダメだから、こう変えなさい」と、多くのダメだしが出される。
まさに、ダメだし。
「こうした方がいい」という生易しい言葉でない。
こうしてプロの物作りの中に巻き込まれていく。参加者から出たアイディアがプロの手により、ひとつの仮装作品として形作られていく。
私達は多くの修正箇所をどっさり抱え、ほとんど予選参加時からイチから作り変え状態となり、ビデオによる最終選考への参加を要請される。
もう一度作品を作り、ビデオに写して送る。
全国から集まったビデオ作品から選ばれ、最終的に出場者が決まる。
これまでかれこれ、約2ヶ月。
ほとんど仮装にかかりっきりになった印象である。
物作り、演技、スタッフが納得した作品になるまで何度でも変更を命じられる。
例えば、いい加減な絵では却下されるから、絵を描ける人に頼んだりするケースもあるだろう。
実際わたしもビデオを送った後、「直接直しを言いたいから、今度の日曜日、東京まで来れる?」と言われ、東京予選が終わった後、静岡予選より多くのスタッフが並ぶ前で、送ったビデオを見ながら、修正箇所が具体的に指示された。
そうして出場したのだが、結果は不合格。
でも私は確実に何かに夢中になった。
それは作り手たちのプロ意識だ。
全国ネットのゴールデンタイムだから、スポンサー料も高く、制作費も莫大だ。
面白い番組を作り、視聴率も取る、という明確な目標がある。
これに関しての弊害は多くあるだろうが、仮装大賞において求められるもの、それは『仮装』という範疇において、面白いかどうか、それだけ。
プロデューサーは言う。
「俺たちは『仮装』ということにだけ長い間こだわり続けている。」
スタッフであるワハハ本舗の主宰者である放送作家である喰始氏は言う。
「仮装大賞には自己表現のすべての要素が含まれている。
仮装ではそれぞれが持つ様々なものが武器になる。
子供も子供らしさ、または子供らしくなさを目いっぱい武器にする。
お年寄りも同様。
スポーツをやっている人はスポーツを。
または、ダンスを、バレエを、歌を、お笑い的肉体を、精神的情けなさを、図々しさを、ばかばかしさを、かっこよさを、芸術性を、新しいアイディアを・・・。
個性や、チームワークがいやというほど問われる。
でもあくまでそういった要素が評価されるのではない。
仮装というジャンルにおいて、結果として作品のみが評価されるのである。
私はそれが今までに覚えのないくらいに潔さ、純粋さを感じ、気持ちよかったのである。
もちろんその何倍もの悔しさと共に。
実は私が今なぜか演劇をやっている人生はここに始まる、といってもいい。
全国ネットのテレビに出るという事実は少なからず、ご無沙汰の人たちと再開するきっかけになったり、私という人間がどういう人間か、大袈裟に言うと意志表明みたいな役割もした。
このあとはしばらく、暇さえあれば仮装大賞の案を考える日々が続いた。
何を見ても仮装にできるかどうか結び付けた。
再会した人たちと、仮装に挑戦したこともある。
(最終選考に残ったことも地方予選で落ちたこともあるが、結果的には本選に出られず。)
ただし、仮装はやっぱりテレビ番組。
そこではおさまらない表現はたくさんある。
そして、演劇も始めた。
多くの新しい人と知り合った。
多くの人と喋るようになった。
昔よりも文章を書くようになった。
それらが今では私の日々の大切な一部だ。
その他は仕事をしたり、食べたり、本読んだり、演劇、映画、TVを観たり、眠ったり、ぼんやりしたり、・・・したり、・・・したり、している。
こうして、あえて言う!
私の“表現する日々”は続く。

                        おわり


先月の1月はじめ、仮装大賞を観た。
家にいるとどうしてもチャンネルを合わせてしまう。
そして、観始めると終いまで観てしまうオレ。
上記は6年半前の文章。
仮装大賞に出たのはそのまた4年前。
欽ちゃんは当時、満60歳で仮装大賞も第60回だった。
電波少年で有名になったチューヤンが同じく有名だったロバのロシナンテと一緒に出てゴジラならぬロジラという仮装をやった。
彼らも不合格だった。

写真は記念にもらった60回記念のロゴが入った壁掛け(使ってはいない)と放送に使われたクレジット。
本来は“サイドミラーに映るさよなら”だったが、欽ちゃんが“~さようなら”と言ったら放送時のクレジットもこうなった。