路上演劇祭Japan in 浜松のリモート実行委員会

カテゴリー │路上演劇祭

11月21日(土)17時からリモートで
路上演劇祭 Japan in 浜松の実行委員会が行われた。
一部参加者がリモートというのは今までもあったが
完全リモートは初めて。

路上演劇祭Japan in 浜松は来年5月29日(土)に浜松有楽街にて行うことが
予定されている。
演劇祭は毎回エントリー制で参加者が決まる。

基本的な手順は以下の通り。

①参加希望者(団体)が規程のエントリーシートを締め切りまでに提出。

今年5月に予定していた路上演劇祭の
エントリーシートの内容は
・名前・団体名
・代表・担当者名
・出演者人数
・上演時間(30分を目安に)
・出し物の名前・演目(作者・演出者)
・音響が必要かどうか
・出演者・団体プロフィール
・なぜ「路上」なのか
・私にとって「浜松の路上」とは何か。
・代表者連絡先
・上演に関しての要望・質問

②実行委員会でエントリーシートをとりまとめて、参加者(団体)が決定。

③エントリーシートの記入内容を元にPRチラシを作成。

④上演プログラムの決定。

⑤路上演劇祭にて上演。


今回はエントリーシートの提出の締め切りなどスケジュール、
上演にあたってのコロナ対策などを話し合う予定だった。

ただし、先のことは見通せない状況である。
エントリーに関しても同様。

そこで、先ずは今年参加予定だった人たちに
今の気持ちを聞く「お気持ちシート(仮名)」を提出してもらうことにした。
提出の締め切りは来年1月15日。

1月23日(土)17時からは「お気持ちシート(仮名)」を元に
再びリモートで実行委員会が開かれる。




 

シネマe~raで「喜劇 愛妻物語」を観た

カテゴリー │映画

11月14日(土)14時10分~

何かの映画をシネマe~raで観た時、予告で流れ、面白そうだった。
上映スケジュールをタブレットでながめていて、
脚本・監督の足立紳さんが舞台あいさつに来場することを知り、
観に行くことを思い立った。

脚本を担当した「100円の恋」という作品は面白かった。
今日の舞台あいさつで、
「100円の恋」がご本人が100円ショップで働いていた体験から生まれたことを知った。

また、脚本家であるが仕事のない夫と、夫に裏切られ続け罵倒の言葉をかけるしかない恐妻、まだ小さいひとり娘の親子三人を描いた
「喜劇 愛妻物語」は、ほぼ実体験だそうだ。
これも舞台あいさつで知ったが、
奥さんの怖さは実際は映画以上だそうだ。
そんなことを平然と言うことができる夫婦関係と言うことだ。
制作時は子供さんが一人だったが、
今は一人増えて二人だそうだ。

駆け出しで年収が50万円もいかなかった頃を描いている(実際はもっと少なかったそう)
が、今はその頃よりは余裕があることだろう。
映画中、妻は「あんた小説書けば?」と夫に促すセリフがあるが、
それは実践されたのだろう。
この作品も2016年に発行された自身の小説が元となっている。
妻が言う「自分で小説書いて、それを脚本にして、監督やればひとりでできるじゃん」
と他人の原作を脚本化しても実際の映画化まで結びつかない夫をみて、
叱咤激励の言葉だが、
それはまさに実践している。
元々小説のタイトルは「乳房に蚊」だったが、
映画化にあわせるように小説も「喜劇 愛妻物語」と改題されている。

「喜劇 愛妻物語」のタイトルには先行する作品がある。
それは1951年上映の新藤兼人脚本・監督の「愛妻物語」である。
未見の上、全く知らなったので、調べたら、
新藤さんの自伝的な駆け出しのシナリオライターとその妻を描いた作品と言うことだった。
新藤さんは生涯に約370本の脚本を書き、
自身で監督をした映画も多くある。
僕もシネマe~raで観たが、
生涯最後の監督作品である「一枚のハガキ」は
御年99歳。
依頼があればまだ撮りたいと言っていたそうだ。
翌年100歳で老衰のため亡くなられる。
何てすさまじい映画人生なのだろう。

また、足立さんは舞台あいさつで、
「夫婦善哉」という映画も意識したと言っていた。
これも僕は未見なので調べたら
織田作之助の小説を原作とし、
1955年に森繁久彌、淡島千景を夫婦役で「夫婦善哉」というタイトルで映画化。
そして1968年には「喜劇 夫婦善哉」と言うタイトルで藤山寛美さんが出た作品がある。
「喜劇 愛妻物語」と名付けたのは、こちらの影響があるのかもしれない。

そして、映画の音楽に、
確か向田邦子さん脚本のNHKドラマ「阿修羅のごとく」に使われていた
ジェッディン・デデンというトルコの伝統的な軍楽の音楽のメロディを場面により
いくつかのパターンで曲調を変えて使用している。
(たぶんこれ、聴けばああ、これ、と思う曲)

おそらく、足立さんはこれら先達たちが生み出した作品に
大いなる敬意を抱き自分の作品に取り入れている。
先達の名の大きさに躊躇することなく、
ある意味図々しく。

その図々しさが
持ち味なのだと思った。
この夫婦の関係性は
毒性がある。

妻の夫に対する激しい物言いに
嫌悪感を感じる人もいるだろう。
それはそうだ。
妻と夫は対等には見えない。
格差構造とも差別構造ともいえるのかもしれない。
エスカレートすればするほど、
間に立つ子供は一番の被害者となり。
やさしい観客は子供への同情の念を禁じ得ない。
もちろん監督には計算の範疇なのだが。

笑っている人も
同時に沸く苦さを感じながら笑う。
苦さが大きければ反動で笑いも大きくなる。
思わぬ笑いが自分だけだと少し恥ずかしくなり、
多くの笑いが発生すると後ろめたさを共有するとともに
共犯者の多さに安心もする。
他人の不幸を無関係の僕らが笑う。

でもそれは笑う事が正しいと
タイトルが保証している。
“喜劇”なのだ。
その上、“愛妻物語”と来ている。
素敵な夫婦の愛情物語なのである。
小説や脚本の執筆も監督も兼ねる
当事者がそう保障するなら
観客は安心して他人事として笑えばいい。

それはいずれ、笑えない者も当事者として
笑える日が来るかもしれない。
それは笑うとも泣くとも言えない、
複雑な感情“泣き笑い”を持って。
それが、唯一頼りにしていた
命綱、映画化が進行していた脚本が
土壇場で没になったあとの、
クライマックスシーンのように。

川沿いの、自由の女神の像があるパチンコ屋?ラブホテル?が川の向こうに見える
絶妙のロケーションで。
夫と妻と子供は
共に笑い、泣き、抱き合う。
ひとつの家族として。

ファーストシーンの妻の赤いパンツの意味は
種明かしまでまったく気が付かなかった。
ただ尻を見ていた。
使い込まれていたこともその時はじめて気付いた。

役者が身を投げ出し、
みなさん魅力的。
大久保佳代子さんの登場場面は笑った。





 

穂の国とよはし芸術劇場PLATアートスペースで高校生と創る演劇「Yに浮かぶ」を観た

カテゴリー │演劇

11月7日(土)18時~

チラシにはこのようなキャッチコピーがあった。

傘を、捨てた。
雨の音が響いた。
わたしは、雨になった。

舞台は白砂が円形に敷き詰められていて、
周りの淵は並べた石で覆われている。

雨があがり、干上がった小さな砂漠に見えた。
いや、高校生たちを自由に遊ばせる公園の砂場だったかもしれない。

そこにひとりずつ登場し
(アフタートークによると出演者のひとりの指示で登場していたそうだ)、
砂漠は教室となったり、Y市という架空の市のどこかになる。
と言ってもY市と言うのは、劇場がある豊橋市と言うのは明白で、
豊橋市内で伝わる4つの民話が作品のモチーフとして使われている。

地域の老人、まゆじいから昔話を聞く機会があったようで、
それが普段の高校生たちの生活に静かに浸透していく。
高校生たちは高校生なりに感じていることがあり、
物質の成り立ちについて思いをはせる人もいれば、
生物の中の人間の割合を植物の割合と換算して、
何て人間は少ないんだろうと地球上の生物分布を考える人もいる。
クラスに好きな人がいる人もいれば、
好かれていることを知りながらさめている人もいる。
幽霊を見ることが出来る人もいれば
見ることが出来ない人は大勢いたりする。

そんな高校生たちのありふれた日常に
民話が浸透していく。
SFのように当時の人が都合よく現れるのではない。
ここに登場する豊橋市に伝わる4つの民話は以下。
「傾城塚」
「山の背比べ」
「お弓橋」
「十三本塚悲話」

堤防工事のために人柱となった遊女、
お互いにどちらが高いか争う山同士、
橋を隔てて報われぬ恋に悩み死んだ女、
戦国時代、磔にされ、大槍で串刺しにされた十三人の人質、
時代の異なる過去の人々や自然物である山に対し、
現代の高校生たちの感受性を通過した反応が
演技となって現れる。

高校生とプロの演劇人が共に演劇をつくり公演する「高校生と創る演劇」は
PLATが2013年4月30日に出来て2年目から行われているそうだ。
今年度はオーディションにより選ばれた高校生出演者と
高校生スタッフが、
テキスト作成と演出を担当した
mizhenという演劇ユニットの藤原佳奈さんらとともに創る。

mizhenは他にも佐藤幸子さんと佐藤蕗子さんがメンバーとしていて、
このお二人も演出助手として参加されている。
PLATの広報誌にインタビュー記事があり、
その過程の一端がうかがえる。
そのチームによる手厚いケアが
集団を支えていただろうことは容易に想像できる。

高校生の公演は多くが無料公演ではないだろうか。
こちらは有料公演なのだが、
それはひとつの責任が生まれる。

しかしそれは高校生たちのみが負うものではない。
劇場がバックアップし、
プロの照明や美術や音響がつく。
商業演劇は観客のためにあるのかもしれないが、
今回の演劇の主体は高校生である。
高校生がどう感じ、どう考え、どう表現したか。
そのためにこの公演がある。
それを観客は見届ける。

そのような創り方をした公演だったと思う。
おそらく、砂場の舞台も
砂場に高校生たちの素足を触れさせたかったのだと思う。

最後にスタッフとして参加した高校生たちのことについて触れたい。
アフタートークに高校生スタッフも登壇し、話をされた。
スタッフ抜きに公演は成り立たないことを再確認した。





 

大日本報徳社大講堂前 広場でSPAC「おぉっと えぇっと ええじゃないか」を観た

カテゴリー │演劇

11月1日(日)15時30分~
ふじのくに野外芸術フェスタ2020 in 掛川と称し上演。
この日2回、前日2回と合わせ、全4回の公演。
1回あたりおよそ30分の上演時間。

2年前の10月13日にも同じ場所で同タイトルの作品が上演されたのを僕は観ている。
前回は台本を担当したユニークポイントの山田裕幸さんが演出をしたが、
今回はSPACの寺内亜矢子さんが演出。
キャストもほぼ変わっていると思う。

前回投稿記事↓
https://ji24.hamazo.tv/e8210095.html

前回は公募された市民も参加されていたが、
今回は、コロナ禍の上演と言うこともあるだろう。
市民参加はなかったように思われる。

また、上演にあたっても
コロナ対策に留意した作品作りがなされていた。
題材がシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」なので、
恋愛劇ゆえ生じる『接触』を回避するために
透明な幕が張られた衝立をコロナを逆手にとって
演出に取り入れて使用した。

ジュリエット(樹里恵というが)が幕にロミオ(露美男というが)への思いを
例えばハートマークとか、マジックで描いたり、
衝立を二人の仲を隔てる障害として使ったり。

また自由にに動き、セリフを発するのは
主役の2人とこの場所ならではの登場人物
二宮尊徳の3人のみである。

樹里恵の父と母は
セリフを発する者と動作をする者が別の俳優が行う。
SPACの宮城聡さんの演出ではおなじみの
手法がとられている。
セリフを発する者をスピーカー、
動作をする者をムーバーと称している。

この手法は人形浄瑠璃の
浄瑠璃語りの太夫、三味線、人形遣いの分業を
基にしていると思われるが、
結果コロナ対策にも役立っている。

ムーバーは、語らないので、飛沫を気にする必要がなく、
スピーカーは後方に固定して配置することが出来るので、
ソーシャルディスタンスが確保される。
スタイルが違う演技方法が共存していることで、
密が避けられる。

また演者たちは皆、
マスクで口を覆っている。
これは見ようによってはひとつの仮面劇にも見える。

野外で、換気を心配する必要がない場所であるが、
入場時の検温、消毒、
名前・連絡先の記入、
座席の設置による密接の防止と
運営面もコロナ対策が施されていた。

僕は演劇を見に行っている。
コロナ対策を見に行っているのではない。
やはり思わざるを得ない。
コロナおそるべし。
本来の演劇以外のことに気を使わなければならないのだ。

それでも演劇は演じられ、
観られなければならないのだろうか。
演じなければ食べていくことが出来なくなる人がいる。
その人たちにとって演劇が必要なことはわかる。

演劇が生活の糧でない、
他の仕事をして生活の糧とし、なお演劇活動している人がいる。
僕も含めそういう人たちにとって、
コロナ禍、演劇をすることは
果たして必要なことなのだろうか。

この問いに明確な答えはない。
明確な答えを出す必要もない。
でも頭のどこかでこのことは
考え続けると思う。
やらないという選択もあるし、
どうやるか考える選択もある。
どのようなことをやるか
考える選択もある。

前回も音楽が重要なファクターだったが、
今回も俳優たちが楽器演奏もして、
音楽劇の楽しさを伝えていた。

演劇のタイトルは「おぉっと えぇっと ええじゃないか」である。
タイトルがなかなか気が利いている。

ロミおぉっと ジュリえぇっと

くだらねー!!

でも、そんなのいいじゃん!
ええやん。
ええじゃないか。

受容し、肯定。

「ええじゃないか」とは
江戸時代末期の
民衆により
街を仮想したりしながら
「ええじゃないか」と囃しながら練り歩いた
騒動のことを一般的には言う。

会場である大日本報徳社とは
二宮尊徳が唱えた報徳思想を全国に広めるための全国組織の本社のこと。
道徳と経済の調和を説き、困窮する農民の救済をはかった。

報徳思想とは生涯の生活と体験を通じ
社会道徳の規範を考え、人間として社会生活を
行うための行動を基本となるものをつくり、
自ら実践し、後世に伝えたもの。
(大日本報徳社HPより)

劇中では
経済家の露美男と道徳家の樹里恵と
相容れない両家の対立を描くが、
二宮尊徳が、
まるで古代ギリシア演劇の
絶対的な神が最後にすべてを解決する
デウス・エクス・マキナのように
その対立を最後一挙に解決する。

地酒のPRも織り込まれ、
ちょっと場所に気を使い過ぎのような気もしたが、
それもまあ、
「ええじゃないか」