G/PITで劇団あおきりみかん「つぐない」を観た

カテゴリー │演劇

G/PITは名古屋にある民間の小さな劇場である。
近くには大須観音や白川公園がある。
でも、演劇を観るのが目標なので
早く着いた開場までの時間は
昼飯を食べたり、
コーヒーを飲んだりして、
劇場近くで過ごす。

15日(土)15時~。
入場すると舞台には立派なセットが組まれている。
立派というのは、
僕が芝居を作るならという仮定からの感想である。
得難い職人による仕事に思う。

正面には大きな十字架が掲げられ、
左右の窓ガラスにはステンドグラス、
手前には、長椅子が数列設置され、
誰の目にもキリスト教の教会とわかる。

ここで人は牧師の話を聞き、
祈りを捧げ、
時には結婚式を挙げ、
または、神の御前(みまえ)で懺悔をするのだろう。

演劇作品のタイトルは「つぐない」。
これは懺悔の物語である。
罪悪感を感じないという女と罪悪感を感じるという男が、
教会で出会う。
罪悪感を感じないという女は、
冒頭、なぜ罪悪感を感じないのにこの場所に
来たのかという心の声を、
ことさら説明的に語る。

説明的なセリフはあまり良いセリフではないと言われる場合がある。
というのも、実際の生活ではあまりそんな風には言わないからだ。

例えば、朝起きて、

「今日は7月16日だ。
まだ梅雨は明けてないけど、雨は降っていない。
日曜日のおだやかな朝なのだが、心の中は、激しい怒りで渦巻いている。
それはまるで、2日前の豪雨のようであり、
一向に解決する気配のない遠い国の内戦状態のようでもある。
いや、怒りの本当の理由は、
買い足すのを忘れたインスタントコーヒーの瓶が空っぽだったから。
まあ、いいや。
朝飯の前にコンビニに行こう。
ああ、よかった。
コンビニは相変わらず24時間営業だ。
あ、雨の音が聞こえてきた」

などとは普通言わない。
そのようなセリフは、説明的なセリフと言われる。

でも、説明が必要な場合もある。
小説はそのような心の声を
つらつらと文章で表す。
ドラマや映画では
ナレーションと言う便利な手段がある。
しかしながら、
ナレーションが多いと、
やはり説明的だと言われる。

演劇には、結構説明的なセリフはある。
シェイクスピアなどはセリフで結構心の動きや事情を説明する。
歌舞伎などもそうであろう。
オペラはわざわざ歌で説明してくれる。

伝えたいから説明するのである。
自然なセリフに伝えたいことをうまく織り込ませるより、
直接的に説明する方が効果的に伝わる時は、
躊躇なく説明するのである。

罪悪感を感じない女は、
普段は言わない説明していることをことさら強調するかのように
普段やらないような動きで観客に説明してくれる。

作者は、あえてこれは説明的なセリフですよと承知したうえで
提示している。
それは、懺悔というものが、限りなく説明するものだからだ。
自らを語る必要があるからなのだ。
私は今までこんなことをして、こんなことを考え、
こんなことになりました。
ということをあからさまにすることが懺悔だからだ。

懺悔の中で回想シーンが展開する。
それは演劇的な自由な手法で、
表現される。
そして、それは巧妙に組み立てられた脚本の中で功を奏し、
今とつながり、
伝えるべきことを伝える。

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