穂の国とよはし芸術劇場PLATで劇団こふく劇場「ただいま」を観た

カテゴリー │演劇

9月9日(日)14:30~

劇団こふく劇場は宮崎県都城市に拠点を置き、活動している。
今回の第15回公演「ただいま」は全国10か所をまわる。

ごく普通に生きている特別でない人たちの日常的な話が、
伝統芸能である能の形式を借りて演じられる。

能舞台をモデルに作られたと思われる舞台には
日本間にちゃぶ台2台が置かれている。
明らかに昭和のイメージである。
役者はほぼ正面を向いてしゃべる。
能でいう謡の合唱や囃子方の伴奏も
ト書きの合唱やギターやジャンベの伴奏で模している。

戯曲の構成はどちらかというと演劇的でない気がした。
30歳を過ぎた妹の見合い話から始まるが、
断片的に話は進む。
映画的な構成に感じた。
日本間にちゃぶ台というと
小津安二郎さんの映画を思い浮かべる。

先日DVDを借りて観た「麦秋」という映画も
原節子さんが演じるなかなか結婚しない女性の
話だった。

但し、映画はシーンが変わるとき
カット割りができる。
断片的なシーンがカットを構成していくことに
より展開させていく。

演劇の場合はそうはいかない。
たまに、このような構成の時、
ひんぱんに暗転が使用される場合がある。
でも、その時はひんぱんに訪れる暗闇の中、
今はiいったい何の時間なんだと、
場面転換にうごめく人の影をながめながら
考えている。

今回はその代わりに演者たちは
これまた能歩きのように腰を少し落とし、
手に持った棒を扇子に見立てて、
すり足で歩く。

それは面白く感じたが、
決まりごとのように繰り返されると
暗転とどれだけ違うのかという疑問も湧いてくる。

能の歩きは手段だけではない。
たぶん歩き自体を見せている。
歩きは舞でもある。

しかし、
考えようによっては
無名の人たちを主人公にした
ご自分たちがねぐらにされる
宮崎県の言葉を使ったお芝居の
果てどなく繰り返される転換の歩きは
同じように
果てどなく繰り返される
私たちの日常とも符合するようで
妙に納得するのである。

不覚にも僕は気が付かなかったのだが、
(というより、
ちゃんと見ているようで、
見逃している部分はいつも多いのだが)
舞台の一番前の上手側に
水道があり、
蛇口の下にバケツが置かれていたのだが、
蛇口からはごくごく細~く水が流れていて、
上演中ずっと流れっぱなしだったそうである。

これなども演出者の意図が重なる。
但しこちらも水道の水が流れっぱなしなのは転形劇場の「水の駅」で、
知る限り先人がいる。
作・演出者が東京の大学生活を終え、
戻った地元で知り合った劇団が
転形劇場の太田省吾さんや舞踏の大野一雄さんと親交があった
ということを述べていたので、
自覚的な影響であろう。

映画的であるという話をしたが、
小説的でもあった。
役者の会話の合間に
ト書きの合唱が挿入される。

通常演劇では
会話から想像するべき
心理描写や情景が
わざわざ語られる。

説明過多にも思ったが、
語りは考えれば
芸能の根源的なものである。
能や狂言、
平家物語も語りの文化である。

のちほどになるにつれ、
なかなかたくらみにあふれた
芝居だと思った次第。

それにしても歌がうまくて気持ちいい。
能も歌舞劇なのだ。

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