静岡文化芸術大学西ギャラリーで発光体と海「うお座の恋人」を観た

カテゴリー │演劇

11月28日(水)18時30分~

「発光体と海」の旗揚げ演劇公演とある。
旗揚げ公演は個人的に大歓迎である。
やりたいことはやるべきである。
旗揚げ公演には理由がある。
なぜやろうとしたのか。
何をやろうとしたのか。
誰とやろうとしたのか。

旗揚げ公演は今後の指針となる。
成功にしろ失敗にしろ
やろうとしたことが折り込まれている。

そもそも何が成功で何が失敗かは
判断するのは難しいものなのだが。

夜、布団が敷かれた
一人暮らしの女子、内海(名前)の部屋では
女友達同士でピロートークが交わされている。

いきなり
「生理が来ない」
と遊びに来ている岬(名前)が言う。

男遊びが盛んらしい岬は
妊娠している状況なのではないか
ということをしきりに内海にほのめかす。
用意周到に
妊娠検査薬まで持参している。

終わりのないピロートークは
内海の心を揺るがせ、
岬に問い詰められ、
内海は自分は男性経験がないということまで
白状させられる。

岬は言う。
身ごもることができるのは、
わたしたち「女」だけなのである
ということ。

ここで、「男」と確実に差別化する。
ある意味、身ごもることができる、
ということを特権化している。

「男」は偉そう言っていても
身ごもることさえできない。

「女」であっても
彼氏もいなくて、
男性経験もないなんて、
「女」でいる価値もない。
目の前の友人をどこか
そんな視点で見ている。

まるで自らが
生物学的に優れている
とでもいうように。

腹の中に芽生えた
新しい命がたゆたう羊水を
地球の母ともいえる海の海水になぞらえる。
細かい数字はわからないようだが
塩分の濃度が似通っているらしい。
どこまでも自らを肯定し
神格化したいようだ。

そんな鼻持ちならない心理状況に
陥っているのには当然訳がある。
それが語られるのが
この芝居の骨子だ。

終演後、パンフレットのタイトルをみて思った。
「うお座の恋人」。
ああ、そうか。
ふられた男が忘れられない
ちょっとみっともなくて、
でも、ちょっとかわいらしい
ひとりの女の子のお話なんだ。

そして、女の友情。
友情は対等の中で成り立つとは限らない。
小さな優劣を競う戦いの中で
育まれるともいえる。
例えば
どちらが「経験」したのが早いか?とか。
どちらかが、優位のように見えても、
差し引きすると結構ゼロだったりするのだ。

劇中、登場人物たちが
大学に入学して二年目であることが
セリフの中で伝えられる。
旗揚げ公演であるこの作品に関わる人たちは
同年代ではないだろうか。

作品はフィクション(作り物)ではあるが、
自分たち自身と当然のように関係がある。

大学生はいずれ卒業するという運命がある。
学内で生まれた劇団も
一代で終わるのか、
それとも後輩に引き継がれ、
メンバーが変わり存続していくのか。

統計上は、
引き継がれるのはなかなか難しく、
立ち上げメンバーの卒業により
劇団は消滅する。

といってもそれぞれの人生はこれからも
ずっと続くので、
どこかで演劇らしいことも
続けていくのかもしれない。

静岡文化芸術大学西ギャラリーで発光体と海「うお座の恋人」を観た



同じカテゴリー(演劇)の記事

 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
静岡文化芸術大学西ギャラリーで発光体と海「うお座の恋人」を観た
    コメント(0)