2018年03月04日22:06
穂の国とよはし芸術劇場 PLAT主ホールで「とよはしの街の物語」を観た≫
カテゴリー │演劇
4日(日)14時30分~
「市民と想像する演劇」ということで、
主催は公益法人豊橋文化振興財団である。
「とよはしの街の物語」は、1年前に上演された「はしっこ」に続いて、
木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さんがドラマトゥルク、
FUKAIPRODUCE羽衣の糸井幸之介さんが作・演出・音楽をそれぞれ担当。
オーディションを経て、一般市民たちと作った。
PLATが出来てから毎年、このような市民劇が行われている。
挟み込まれたチラシには来年行う「リア王(仮)のオーディションの案内もあった。
また、「高校生と創る演劇」というオーディションで選ばれた高校生とプロのスタッフとが作る
演劇も毎年行われている。
こういうことは残念ながら、僕が住む浜松市にはない。
では、豊橋は、演劇をやる人にとってだけ恵まれているのか、
というとそんなことはないと思う。
今回の公演は、「妙ージカル仕立ての物語」というキャッチコピーがついている。
作・演出・音楽の糸井幸之介さんの率いるFUKAIPRODUCE羽衣は
静岡市でゴールデンウイークに行われたストレンジシードという野外で短編を行うイベントで観た。
各所で並行して行われるイベントなので、
偶然観たのだが、オリジナル曲とオリジナルダンスとオリジナル戯曲で
歌あり、踊りありのミュージカル、いや、妙ージカルだった。
「とよはしの街の物語」を観ながら思った。
普段、ダンスをやっている人も参加しているだろうな。
普段、歌をやっている人も参加しているだろうな。
普段演劇をしている人は、あんな踊りを踊れないかもしれない。
あんな歌を歌えないかもしれない。
たまたま演劇という名が媒介となってはいるが、
ダンスとも言えるし、音楽とも言える。
豊橋にある動物園のんほいパークをモチーフにした場面があるが、
動物たちに扮した衣装は、ほぼ仮装大賞だ。
感動的にそう思ったのは劇団四季公演を観た「ライオンキング」だが、
演劇は、演劇と言うものに興味がある人のためでないことがよくわかる。
裁縫や手芸や美術や人形が好きな人のためのものでもある。
1年前の「はしっこ」と比べ、
今回は大きなホールを使ったそうだ。
最初の方は、その大きさを使いきれていない気がした。
やる気があり稽古を積んだとしてもそこは一般市民。
フルコーラスをソロで歌われると、
ちょっと一般市民に託しすぎなんじゃないかと思ったりした。
人が加わると、心強さも加わるのかもしれない。
シーンが進むに連れて
舞台に立つ人たちも、次第に力強くなっていった。
わかりやすく、歌声が大きくなっていった。
演出の意図であろうが、
シーンの柄も大きくなっていった。
音楽の音調も変わっていった。
濃い目の言葉や人物も頃合いを見計らって登場した。
観客は徐々に受け入れていく。
そして、まとめ方の予定調和は
ある意味市民劇の必然であった。
過程は異なってもテーマは似ている。
カーテンコールでは観客に一番近い舞台面のぎりぎり、はしっこまで貼りだし、
40人近い出演者は舞台のはしっこからはしっこまで互いに手をつないで並び、
観客への感謝を示していた。
誤解しないで欲しいが
市民劇の成功は
参加者の満足にかかっている。
「市民と想像する演劇」ということで、
主催は公益法人豊橋文化振興財団である。
「とよはしの街の物語」は、1年前に上演された「はしっこ」に続いて、
木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さんがドラマトゥルク、
FUKAIPRODUCE羽衣の糸井幸之介さんが作・演出・音楽をそれぞれ担当。
オーディションを経て、一般市民たちと作った。
PLATが出来てから毎年、このような市民劇が行われている。
挟み込まれたチラシには来年行う「リア王(仮)のオーディションの案内もあった。
また、「高校生と創る演劇」というオーディションで選ばれた高校生とプロのスタッフとが作る
演劇も毎年行われている。
こういうことは残念ながら、僕が住む浜松市にはない。
では、豊橋は、演劇をやる人にとってだけ恵まれているのか、
というとそんなことはないと思う。
今回の公演は、「妙ージカル仕立ての物語」というキャッチコピーがついている。
作・演出・音楽の糸井幸之介さんの率いるFUKAIPRODUCE羽衣は
静岡市でゴールデンウイークに行われたストレンジシードという野外で短編を行うイベントで観た。
各所で並行して行われるイベントなので、
偶然観たのだが、オリジナル曲とオリジナルダンスとオリジナル戯曲で
歌あり、踊りありのミュージカル、いや、妙ージカルだった。
「とよはしの街の物語」を観ながら思った。
普段、ダンスをやっている人も参加しているだろうな。
普段、歌をやっている人も参加しているだろうな。
普段演劇をしている人は、あんな踊りを踊れないかもしれない。
あんな歌を歌えないかもしれない。
たまたま演劇という名が媒介となってはいるが、
ダンスとも言えるし、音楽とも言える。
豊橋にある動物園のんほいパークをモチーフにした場面があるが、
動物たちに扮した衣装は、ほぼ仮装大賞だ。
感動的にそう思ったのは劇団四季公演を観た「ライオンキング」だが、
演劇は、演劇と言うものに興味がある人のためでないことがよくわかる。
裁縫や手芸や美術や人形が好きな人のためのものでもある。
1年前の「はしっこ」と比べ、
今回は大きなホールを使ったそうだ。
最初の方は、その大きさを使いきれていない気がした。
やる気があり稽古を積んだとしてもそこは一般市民。
フルコーラスをソロで歌われると、
ちょっと一般市民に託しすぎなんじゃないかと思ったりした。
人が加わると、心強さも加わるのかもしれない。
シーンが進むに連れて
舞台に立つ人たちも、次第に力強くなっていった。
わかりやすく、歌声が大きくなっていった。
演出の意図であろうが、
シーンの柄も大きくなっていった。
音楽の音調も変わっていった。
濃い目の言葉や人物も頃合いを見計らって登場した。
観客は徐々に受け入れていく。
そして、まとめ方の予定調和は
ある意味市民劇の必然であった。
過程は異なってもテーマは似ている。
カーテンコールでは観客に一番近い舞台面のぎりぎり、はしっこまで貼りだし、
40人近い出演者は舞台のはしっこからはしっこまで互いに手をつないで並び、
観客への感謝を示していた。
誤解しないで欲しいが
市民劇の成功は
参加者の満足にかかっている。