2019年02月07日21:02
雄踏文化センターでFOX WORKS Produce「疾走れ!!小五郎」を観た≫
カテゴリー │演劇
2月3日(日)14時~
「幕末純情伝」というつかこうへいさんの作品がある。
元々は小説として書かれた。
のちに戯曲化され、自身の演出により上演された。
つかさんが亡くなられた後も、
他の演出家により、上演され続けている。
映画化もされ、小説版や映画版と演劇版は
ずいぶん異なる部分も多い。
ここでは演劇版の出版されている戯曲の内容を元に話をする。
「沖田総司は女だった!!」という大胆な設定で、
同じ新選組の副長土方歳三と討幕派坂本龍馬との間で揺れる
三角関係を交え、幕末を舞台に志士たちの“青春”を描いている。
登場人物には勝海舟、岡田以蔵、桂小五郎、近藤勇という実在の人物もいるが、
新選組の組員の中には、
山崎、高野、木下、聖子、酒井という現代名が出てくる。
彼らは新しい時代になったら、
割烹やるだの、結婚して写真館やるだの、教師になるだの、床屋やるだの
現代の若者がみる夢のようなことを言う。
それは時代劇にも関わらず、
登場人物の視点は今なので、未来を知っている。
まるで預言者のように。
幕末を彩った実在の人物たちも
同じように未来を知っている。
沖田も坂本も死なねばならぬ。
だからこそ虚構を遊ぶ。
そしてそれが観る者の心に一層哀切を生む。
そして、それは観客の今と接点を持つ。
マイクを持ってカラオケが入ろうが、
史実がないまぜになろうが、
演劇の持つ自由さが、
歴史という壁をすり抜ける。
だから、幕末純情伝の舞台写真や映像を観る限り、
服装は着物でなく、ほぼ現代だし、(というか体操着)
武家屋敷だの遊郭だののセットや書割もない
素舞台である。
役者の身体とセリフのみで
見せてやるとでもいうように。
観客は時代劇を観ながら現代劇を観ている。
「疾風れ!小五郎」のチラシのキャッチコピーにこうある。
“桂小五郎 全速力の青春”。
描こうとしたメッセージには共通点があったのではないだろうか。
こちらは幕末の時代に即した着物姿で演じていた。
つまりそこで時代が固定される。
今の時代に逃げるのを制限される。
もちろん時代劇にとってはこちらがまっとうだ。
幕末純情伝の方が異端だろう。
その代わり、
その中の桂や坂本や西郷や勝らは、
所作や語りなど時代劇を演じるための技術を要求される。
実在の人物故、人によってはハードルが高く感じるだろう。
いくら自分なりの〇〇をと思っても、
大河ドラマでは〇〇がこの役をやってるし、
映画やその他時代劇でも〇〇が・・・。
観客たちの頭の中についているイメージが邪魔するのである。
歌舞伎でも大衆演劇でも北島三郎ショーの芝居コーナーでも
固定された時代に観客の心を誘導するために
趣向を凝らせる。
書割だったり舞台セットであったり小道具であったり。
それらがなくて成り立たせるものはなんだろう。
講談や落語などの一人芸であろう。
こちらは語りのみで、
観客の頭にその時代を浮かび上がらせる。
昨年、はままつ演劇フェスティバルのオムニバス公演で
今回の脚本を担当し、吉田松陰役を演じた
狐野トシノリさんが一人芝居で演じた「花しずか」は
戦時下、時代にそぐわないと禁じられた落語にまつわる話等、
やはり時代の節目を舞台としていたが、
こちらは語りと芝居のみで
固定された時代を浮かび上がらせていた。
まぎれもなく現代に生きる現代人が
過去の時代を演じる。
それが時代物の醍醐味であろう。
正当な時代劇を演じ終えた
「疾風れ!小五郎」の出演者たちは何を思うだろう。
当日配布されたリーフレットに記された出演者の言葉を読んでも
その一端は伺える。
もちろんそれ自体がまぎれもなく青春であることは間違いないが。
「幕末純情伝」というつかこうへいさんの作品がある。
元々は小説として書かれた。
のちに戯曲化され、自身の演出により上演された。
つかさんが亡くなられた後も、
他の演出家により、上演され続けている。
映画化もされ、小説版や映画版と演劇版は
ずいぶん異なる部分も多い。
ここでは演劇版の出版されている戯曲の内容を元に話をする。
「沖田総司は女だった!!」という大胆な設定で、
同じ新選組の副長土方歳三と討幕派坂本龍馬との間で揺れる
三角関係を交え、幕末を舞台に志士たちの“青春”を描いている。
登場人物には勝海舟、岡田以蔵、桂小五郎、近藤勇という実在の人物もいるが、
新選組の組員の中には、
山崎、高野、木下、聖子、酒井という現代名が出てくる。
彼らは新しい時代になったら、
割烹やるだの、結婚して写真館やるだの、教師になるだの、床屋やるだの
現代の若者がみる夢のようなことを言う。
それは時代劇にも関わらず、
登場人物の視点は今なので、未来を知っている。
まるで預言者のように。
幕末を彩った実在の人物たちも
同じように未来を知っている。
沖田も坂本も死なねばならぬ。
だからこそ虚構を遊ぶ。
そしてそれが観る者の心に一層哀切を生む。
そして、それは観客の今と接点を持つ。
マイクを持ってカラオケが入ろうが、
史実がないまぜになろうが、
演劇の持つ自由さが、
歴史という壁をすり抜ける。
だから、幕末純情伝の舞台写真や映像を観る限り、
服装は着物でなく、ほぼ現代だし、(というか体操着)
武家屋敷だの遊郭だののセットや書割もない
素舞台である。
役者の身体とセリフのみで
見せてやるとでもいうように。
観客は時代劇を観ながら現代劇を観ている。
「疾風れ!小五郎」のチラシのキャッチコピーにこうある。
“桂小五郎 全速力の青春”。
描こうとしたメッセージには共通点があったのではないだろうか。
こちらは幕末の時代に即した着物姿で演じていた。
つまりそこで時代が固定される。
今の時代に逃げるのを制限される。
もちろん時代劇にとってはこちらがまっとうだ。
幕末純情伝の方が異端だろう。
その代わり、
その中の桂や坂本や西郷や勝らは、
所作や語りなど時代劇を演じるための技術を要求される。
実在の人物故、人によってはハードルが高く感じるだろう。
いくら自分なりの〇〇をと思っても、
大河ドラマでは〇〇がこの役をやってるし、
映画やその他時代劇でも〇〇が・・・。
観客たちの頭の中についているイメージが邪魔するのである。
歌舞伎でも大衆演劇でも北島三郎ショーの芝居コーナーでも
固定された時代に観客の心を誘導するために
趣向を凝らせる。
書割だったり舞台セットであったり小道具であったり。
それらがなくて成り立たせるものはなんだろう。
講談や落語などの一人芸であろう。
こちらは語りのみで、
観客の頭にその時代を浮かび上がらせる。
昨年、はままつ演劇フェスティバルのオムニバス公演で
今回の脚本を担当し、吉田松陰役を演じた
狐野トシノリさんが一人芝居で演じた「花しずか」は
戦時下、時代にそぐわないと禁じられた落語にまつわる話等、
やはり時代の節目を舞台としていたが、
こちらは語りと芝居のみで
固定された時代を浮かび上がらせていた。
まぎれもなく現代に生きる現代人が
過去の時代を演じる。
それが時代物の醍醐味であろう。
正当な時代劇を演じ終えた
「疾風れ!小五郎」の出演者たちは何を思うだろう。
当日配布されたリーフレットに記された出演者の言葉を読んでも
その一端は伺える。
もちろんそれ自体がまぎれもなく青春であることは間違いないが。