生身の体

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

劇団フィールドの第1回公演は2003年7月26日・27日のことである。
7年前の夏。
そのころ誘われて、静岡県西部地区の演劇団体である西部演劇連絡会に入会した。
8月第一日曜日発行号の会報に原稿を依頼され、書かせてもらった。
あらためて読んでみた。
そう考えは変わってない気もするので文章をそのまま以下に転載。



生身の体                       フィールド 寺田景一
     

僕たちは生身の体を持っている。演劇とは、その生身の体で客と対峙し何らかのものを伝える。物語を。メッセージを。娯楽を。新しい価値を。やりきれなさを。生きているすばらしさを・・・。心ふるわせるポエジイな言葉で。なおかつ論理的でもあり。当意即妙な間でもって。納得させる肉体表現で。表情も時には世界の悲しみを、時には隣の猫、タマの生あくびの無意味さをにじませ・・・。観客は見終わった後、「まあ、費やした時間と出した金の分はあったわい」とそのまま家に帰るのもなんなので、コーヒーでも飲みながら、誰かと行った人はいっしょに、ひとりの人はひとりで、さっきのことを語り合ったり、かみしめたりする。
こんなことを考えると、演劇など出来なくなってしまう。なんせこんな僕の生身の体なのだ。しなやかなターンなんて出来るわけない。立っているだけでさまになるなんて、そう生まれてきた奴にはかなわない。歩く姿だって、舞台より普段の方がまともだから、普段の姿見せた方がいいんじゃないか。これは正しいとも言えるが正しくないとも言える。もちろんこんな自分でもいいのだ。舞台の上で許されないものはそんなにない。でも自覚のないまま舞台にごろんと転がった自分はやはりみにくい。稽古の最中はそんな部分のオンパレードだ。でも互いに指摘し合ったり、自ら気がつくことによって、稽古が続けられ、芝居は完成に近づいていく。そんな時、“こんな自分”が逆に個性や武器になっていたりする。新しい自分なんてものを発見したような気になっちゃったりする。めでたい。
声や肉体の訓練は必要だ。古今東西のいろんな戯曲も読んだほうがいい。演劇に限らずいろんなジャンルのことに親しむこと、人や物を見ることも必要だ。自分のことや周りのことを考えることも必要だ。
これって大変。でもこれって生きること。生身の肉体しか頼りにならない演劇だから特に避けては通れない。ある意味きついことかもしれない。でもかけがえのない楽しさがある。何よりいろんな可能性がある。と、僕は思う。
7月26日(土)、27日(日)にフィールドというグループで「なだらかに世は明けて」という作品でスペースコアのユニットライブで公演をしました。昔からの仲間たちと互いに久し振りの本舞台でした。次回はぜひどうぞ。
                               
                            2003年8月1日


「なだらかに世は明けて」で僕が演じたバーテンダーマンの衣装、小道具のイメージです。
言葉で説明してもなかなか伝わらなかったので、絵にしてみた。

生身の体



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