マイケル・ジャクソンと私

カテゴリー │思うこと

マイケル・ジャクソンが亡くなった。
そういえば、CDもレコードも持っていない。
唯一録音したカセットでソロ1枚目の「オフ・ザ・ウォール」を持ってるだけだ。
「スリラー」のアルバムは最初から最後まで聴いたことなかもしれない。
「ビート・イット」「ビリー・ジーン」「スリラー」・・・。
曲は知ってる。聴いてみれば、「ああ」と思う曲はたくさんあるはずだ。

段ボールの中の昔のノートに「マイケル・ジャクソン公演の整理番号2139」と書いてある。
1987年7月1日。昭和62年。その年、3枚目のアルバム「バッド」が発売され、9月には後楽園他4球場で初の来日公演を行って、43万人を動員した。
僕はその中には入っていない。
でも、公演チケットを得るための整理番号をもらいに行っていた。

当時、海外ミュージシャンをウドー音楽事務所というところが、よく呼んでいた。
朝、新聞にその記事広告が掲載されると、表参道にある事務所に行き、整理番号をとるというのが、チケット購入のためのひとつの方法だった。
ボブ・ディランとか、ミック・ジャガーもその方法でチケットを取ったと思う。(たぶん)
マイケルの時も、朝新聞を開いて、これは整理番号を取りにいかなきゃと思ったはずだ。
京王線の下高井戸から渋谷に出て、地下鉄で表参道に行く。
そして、同じ思いのひとたちの列に並ぶ。
このあたりほとんど記憶がないが、こんな感じだっただろう。
ただ、とんでもない行列だったことはなんとなく覚えている。
交通整理の人が出て、大都会の早朝(6じ~7時の間だと思う)早目の通勤者がゆきかう中、マイケルのチケットをゲットすべく人たちが並んでいる。
もちろん1列には並べないので、ビルの周りをグルグル巻き込むように並んでいたように記憶している。
他のアーティストの時はこんなことはなかった。
ほとんど待つこともなく、駅からバラバラとやってきて、お互いに「朝早くから御苦労さん。会場でお会いすることはないかもしれないけど、まあ、その時は楽しみましょうよ」というような感じで、整理券を受け取り、また自分の住む場所へ帰っていったと思う。
かくして、2139番という整理券を無事手にした。(ようだ)
しかし、コンサートには行ってない。
後楽園球場でやったので、買おうとすれば買えたと思う。
でも、買わなかった。
理由は覚えてない。
行くのをやめたのだと思う。
記憶としては整理券をもらったあと、六本木の方まで歩いた。
ノートには「納豆定食300円」と書いてある。
牛丼屋で朝食を食べたと思う。
吉野家か?松屋か?

マイケル・ジャクソンは好きとかきらいとかではなく、1982年のスリラー以来、当時、とにかく目にし、耳にした。
テレビ、ラジオ、街で、店で・・・。「俺たちひょうきん族」などバラエティではパロディとして取り扱われる。
僕はといえば、朝刊を見て、ひまな学生の特権を利用して、マイケルを目の当たりにするチャンスを得には走るが、CDを買うほどじゃないし、日ごろ接するマイケルでまあ満足しているし、同じお金使うのなら、他に使いたいものはあるし(チケット代は当時としてはかなり高かったと思う)で、チャンスを手にしてみても、簡単に放棄してしまう、という程度だ。
その2年前の1985年、難民救済チャリティのための曲USA for アフリカ「ウイ・アー・ザ・ワールド」が発売された。マイケルとライオネル・リッチーが共作し、多くのアーティストが参加した。
その曲をはじめて聴いたのは、ある夜のビートたけしのオールナイトニッポンで、番組も終わる深夜3時も近い頃、たけしが曲に対してのなんの説明もなく「なんだかなあ。じゃ、これでおしまい。ウイ・アー・ザ・ワールド。バイビー」って言って、「ウイ・アー・ザ・ワールド」のイントロが流れてきた。
ニュースでは多くの有名ミュージシャンがとんでもない曲を作ったということは知っていた。
ライオネル・リッチー、ハリー・ベラフォンテ、ビリー・ジョエル、スティービー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、シンディ・ローパー、ウイリー・ネルソン、ボブ・ディラン、ディオンヌ・ワーウィック、ケニー・ロギンス、ポール・サイモン、レイ・チャールズ、ティナ・ターナー、スティーブ・ペリーなどなど・・・。そしてマイケル・ジャクソン。
ラジオであったが、メロディーにのり、次々と現れる声に、アーティストの顔が次から次へと思いうかび、布団の上で眠ろうとしている午前3時、泣けて泣けて仕方がなかった。
ひとりひとりのアーティスト、音楽への愛情が感じられたのだと思う。
黒人も白人も、ブルースもロックもフォークもカントリーも。肌の色も音楽のジャンルも関係ない。みんな同じ。そんな願いがこもっていた。
だから、居心地悪そうなボブ・ディランも、音が割れるブルース・スプリングスティーンも、アドリブで曲をかえてしまうレイ・チャールズも、力入りすぎのシンディ・ローパーもハードロック系から無理やり入れられたようなスティーブ・ペリー(ジャーニー)も、全く気にならなかった。
通常なら不可能なメンバーが一緒にやってしまうということに、ただただ圧倒され、心の中で拍手をし続けていたように思う。

追悼ニュースで、歌い踊るマイケルが流れる。何億とかけたミュージックビデオが流れる。
やっぱり天才だ。
そして完璧だ。
これぞ最高のエンターテイナーなんだろう。
マイケル・ジャクソンはマイケル・ジャクソンを演じ続けるしかなかった。
そんなひずみも反動のように出てくる。
後年のスキャンダルは宿命だったともいえる。
「ほどよく」
そんな言葉はマイケル・ジャクソンには不要だったのかもしれない。
でも、得た輝きは果てしない。
そして、世界中の多くのかぎりないひとたちに与えたものも大きい。

納豆定食か。
六本木の早朝、納豆定食。
いいかもね。









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