静岡芸術劇場で「リオ・デ・ジャネイロつかの間の愛」を観た

カテゴリー │演劇

6月27日(日)静岡芸術劇場へ「リオ・デ・ジャネイロ つかの間の愛」を観に行った。
出演のコレティヴォ・インソロヴィゾは「役者、ダンサー、振付家、ミュージシャンの集団で、さまざまな芸術ジャンルと都市生活者の観察をもとに新たな演劇言語を開発してきました」ともらったパンフにある。
コンセプト・演出としてエンリケ・ディアス。ブラジル人である。
一昨年同じ春の芸術祭で野外劇場で演じられた「かもめ プレイ」を同じころ岸田戯曲賞を受賞したチェルフィッチュの岡田利規がブログで外国で観た同作品をえらくほめていた、というのを知り合いから聞き、観たいなあと思っていたが、同じ日東京へ劇団青い鳥を観に行くことになっていた。昼間青い鳥をマチネで観て、帰りに静岡で降りて、夜からのかもめプレイを観るため日本平の野外劇場に駆けつけるというスケジュールプランを組むのは不可能でもなかったが、翌日月曜で仕事でもあるし、まあ、たいへんなのでやめた。
それから2年春の芸術祭2010のラインアップを観たとき、あった、エンリケ・ディアスの新作だ。
前作を観ていないにもかかわらず、気持ちの中では期待作である。
自らの目で見出したい、なんて思ってみても、頻繁に観ることができるわけではない。結果、情報や人の評判に左右されないというわけにはいかない。
左右される。あてにする。誰かがいいといってた。見なくちゃ。
リオ・デ・ジャネイロ。ロンドン後、夏季オリンピックが開かれる南米屈指の大都市。
リオのカーニバルが有名だ。
エンリケ・ディアスが都市をどう切り取るのか。
路上演劇祭、浜松喪失・・・。近頃かかわったものたちと重なる。
期待高まる。俺の中で。
で、観た。
面白かった。
カッコよかった。
俺好みだった。
生演奏とダンスと映像と演劇と道具の使い方とか役者も・・・いい。
フィールドワークを行いながら、稽古場に持ち帰り、シーンを作っていく。
いかにも創作している感じじゃないか。
でも、観劇後はどこか整理できなくて、ちょっと考えてしまった。
期待が大きすぎたのか・・・それほどでもなかった気がする。
町というテーマは抽象的すぎたかもしれない。
物語が断片的すぎると思った。
さまざまな趣向をこらした演出も時間が経つとそれほど印象的でないような気もしてきた。
観劇後外に出たら、東京からわざわざ静岡に観に来た人たちが喋っていた。
彼らの話題は2年前の「かもめ伝説」についてである。
今回の作品のことではなかった。
「かもめプレイ」はチェーホフのかもめを上演しようとする7人の俳優たちが稽古場の風景としてかもめは何であったのかを議論しながら作る。そんなドキュメンタリックな芝居だ。
どんなに俳優が遊んでも、確固たるかもめの世界があるので、物語は崩れない。
遊べば遊ぶほど、かもめとの差異が出て、作品としての個性が際立ってくる。
2年前と今回は構造に大きな違いがあったと思う。
それが観劇後の印象に大きな差を与えた。
新聞を読んでいたら、村上春樹が長い小説を書くにはストラクチャー、つまり構造が必要、ということをあるインタビューで語っていたそうである。(他にも2つあげていた)
こうも思った。
そんなにアイディアでは驚かない。
望むと望まざるにかかわらず、物語にも呑み込まれていく。
まだ終わってないが、今回のサッカーワールドカップを観ていても思う。
(今ブラジルVSオランダ。ブラジルが1対0で勝っている)
期待してなかった日本代表が予想以上の活躍をする。
ほんのそれだけで日本中をゆるがす。
静岡芸術劇場で「リオ・デ・ジャネイロつかの間の愛」を観た









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