穂の国とよはし芸術劇場PLATで「華氏451度」を観た

カテゴリー │演劇

10月27日(土)13時~

27日、28日の土日は浜松の中心街でも
さまざまなイベントが開催されていた。
ハロウィンフェス、オープンアート、手作り品バザール、ジャズウィーク・・・。
僕は事前にチケットを入手していたこともあり
27日は豊橋、28日は静岡へ出かけたため、
浜松の各種イベントはまったく味わうことができなかった。

「華氏451度」は1953年にアメリカ人の作家レイ・ブラッドベリ
により書かれたSF小説である。
フランス人の映画監督
フランソワ・トリュフォーにより映画化されたものを
ずいぶん前に観た記憶がある。
但し、内容はほぼ忘れた。
小説の名はもっと以前から知っていたが、
読んだことはなかった。

華氏451度とは、本が燃え始める温度のことだそうだ。
摂氏だと233度。
本を持つことが禁止され、
かつては火を消すのが仕事だった
ファイヤーマンが、
建物が燃えない構造になり、
本を燃やすことが仕事となった時代。
消防士ではなく、昇火士と呼ぶ。
ひとりのファイアーマン、モンターグの本をめぐる苦悩を描く。

ブラッドベリもトリュフォーも大変な本好きであったらしい。
小説が書かれたころ、
映画化されたころと、
今とは状況が異なると思う。

トリュフォーにより映画化されたのは1966年。
ブラッドベリの「火星年代記」の映画化を
ブラッドベリ本人に依頼したところ、
こちらは断られ(本人が映画化を考えていたとか)、
かわりに「華氏451度」を勧められ、
映画化に至ったそうである。

WEBの出現により
紙でない本ができた。
文字の価値も
絵と混じった漫画や
映像は浸透し、
価値の上下を問うものではない。

取り締まりから逃れ、
本を隠し持ち、
とうとう見つかってしまったとき、
燃える本とともに
自らの身を火の中に投じる
なんてのは、
理解するのが難しいかもしれない。

また、堕落した今として描かれる
家庭のスクリーンに映し出される映像は
人間の思いつく楽しみをすべて具現化している。
友人たちとのパーティー、
楽しい家族団らん、
趣味、レジャー・・・。
人は無批判にシャワーのように受け入れるばかりなのだが。

こちらはどうだろう。
驚くほどリアリティを持ち得ているのではないだろうか。
ブラッドべリによると
テレビによる文化の消失を描いたそうだが、
科学技術の発展の流れの中で、
夢の実現は止まりそうにない。

豊橋で演劇を観た後、
帰りの道中、
ネットで浜松市の図書館の蔵書を調べ、
適当な図書館で新訳版の小説を借りた。

演劇で描かれていた状況が
どのような文章で描かれているのか知りたかった。
半分ほど読んだところだが、
昇火士の存在はアナログだが、
家庭に戻ると生活を支配されてしまう
スクリーンに映し出されるデジタル世界の具現化は、
映像でも演劇でも難しいように思えた。

デジタルの極致である映像と
アナログの象徴である一冊の本。
本来は相反しないものだと思う。
どちらにも精神はある。
創造に満ち溢れている。

そして、どちらも無批判で
おぼれ、支配される危険性はあるのだろう。
使い手である僕たちの問題であるが。

上演台本は長塚圭史さん、
演出は白井晃さんが担当された。

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