なゆた浜北ホールでMUNA-POCKET COFFEEHOUSE「#教室は繰り返す」を観た

カテゴリー │演劇

11月10日(土)19時~

会場に入ると、
ひな壇の客席の前に
たくさんの机と椅子が並べられている。

誰の記憶にもある
“あの”教室の風景。
観客たちに背を向けて、椅子に座るのは
あらかじめ依頼された数人の観客の他、
卒業真近の中学3年生や担任の先生、
なぜか軍人や大人も混じっている。
そこは単に閉ざされた教室ではない。
そんなメッセージが提示される。

卒業にあたって
甘酸っぱい感傷はない。
熱すぎる生徒思いの女教師の
話に聞く耳を持つ者はおらず、
生徒間の感情も全くつながらず
すれ違ったまま。
先生は教壇に立ち続けることができない。
結果、生徒たちと同じ椅子に座る。

突然現れる
もうひとつの世界。
大人たちが演じるのは
まさにここは開戦前夜。
中学の教室と戦争前夜が並列に語られる。

ほどなく、1年前の新学期に引き戻される。
熱すぎる女教師は生徒たちに受け入れられず、
“東京のような”ところから転校してきた生徒も
それぞれが自己主張するばかりの生徒の中で
受け入れられようもない。

ラップという言葉があえて提案される。
ラップで語れと指定される。
ラップというと演劇では、ままごとの柴幸男さんを思い起こす。
僕は柴さんはラップと言うより、合唱のように思う。
調和なのだ。

ラップについて、誤解を恐れず言うが、
僕のイメージでは
周りに不平不満を抱いた不良たちが、
言いたい言葉を
リズムに乗せて吐きだすこと。
怒りであり、叫びである。

中学生たちは
自分自身の欲求が常に報われず、
草刈りしたいだの
ウナギ食べたいだの
誰かが好きだなどという。
好かれるために可愛いボールペンは必需品だし、
班替えは学級内の立場の確保の為には
一大事だ。
誰かを認められないし、
誰かに認めてほしい。
ひとりっきりになりたくないし、
ひとりっきりになりたい気もする。

生徒たちはそれぞれの欲求が単純化されている。
欲求はリズムに乗せたラップで表現される。
これは自分だけの歌を歌ったシンガ-のように、
自己解放した形で伝えられる。
欲求を阻む障害が明確となり、
学級内の構図はあきらかになる。

それが客席から見ると
机と椅子が整然と並べられた様子は
まるで何かのボードゲームのようで
演じる人たちはまるで盤上の駒のように見える。

そして、時々、1回のゲームがチャラになったかのように
唐突に席替えが行われる。

中学校の教室と軍人がいる2つの世界の融合は、
終盤に明かされる。
そこで、観客は教室が、
“日本のようなもの”を重ね合わせていたことを知る。

演劇では観客たちとともに
登場人物の中に
ひとりの体現者を設定している。
常に一番後ろの席で
教室全体をながめていた勇子である。
途中から、
観客席の後ろでセリフを発する方法で
その意味を伝える。

結末はハッピーエンドではない。
世界は繰り返されるのだ。
でも、勇子は誰もが記憶する
“あの”教室を懐かしむ。
それは肯定のまなざしで。

タイトルの前に「#(ハッシュタグ)」がついている。
どういう意味なのだろうか。

なゆた浜北ホールでMUNA-POCKET COFFEEHOUSE「#教室は繰り返す」を観た



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