穂の国とよはし芸術劇場PLATで劇団3〇〇「私の恋人beyond」を観た

カテゴリー │演劇

7月13日(木)13時~

原作は上田岳弘さんの「私の恋人」という小説。

beyondとは「遠く離れて飛んでいく」イメージで、
「~の向こうに」や「~を越えて」という意味。

2019年に初演されているが、再創造して上演される。
出演は小日向文世、のん、渡辺えりの3名を中心に全7名。

音楽劇で主要キャスト3名の歌やダンスも交え全員のアンサンブルでも表現される。

観終わった後、
これは一体どんな話だったのだろうと考えたが、
よくわからず、ロビーで販売していた台本を購入した。
読んでみたが、やはりよくわからない。
そこで、原作小説も読んでみた。

35歳を越えた日本人の男性、井上祐介は不動産販売会社から転職して、
今までで一番あっていると思われる日がな一日PCのキーボードを叩くT系企業に勤めている。
ところが、彼は生まれ変わりによる3代目で、
前々世である1代目は10万年前、洞窟に閉じこもりながら未来を予見するクロマニョン人で、
前世の2代目は1940年代ナチスドイツ下で強制収容所の独居房で飢餓死するドイツ系ユダヤ人、ハインリヒ・ケプラー。

前世の2人は34歳で死ぬが、井上祐介は35歳の壁を越えた。
また、前世の2人は思い描く恋人に出会うことが出来なかった。
そして井上祐介も今のところ出会っていない。
膨大な時を経て複雑化する人間社会、その未来像に住む麗しい女。
数々の試練をその身で健気に乗り越えてみせる、たまらなく可愛い、私の恋人・・・(小説より)
「純少女」から「苛烈すぎる女」となり、その後「堕ちた女」をやめる。
そんな恋人。

井上祐介の大学時代の友人で司法試験合格を目指している高橋和也の従弟である
37歳にして病気で死期が迫っている医師の高橋陽平は
やり残しを片付けるための「行き止まりの人生の旅」に出ている。

アフリカ大陸で発祥した人類が地球上に生き渡る1周目のことを「偉大なる旅」と呼び、
一度行き止まる。
例えるなら人類の誕生・始まり・成り立ち。

「行き止まりの人類の旅」は続き、
2周目の旅の行き止まりのひとつに広島と長崎に原子爆弾が落とされたことがあげられる。
例えるなら他人を侵す侵略をはじめとする人類のこの世の謳歌。

そして今は3周目の旅の最中なのだという。
例えるなら人類の終焉か???

高橋陽平の言う「行き止まりの人類の旅」は
この世での命が果てようとしている陽平自身の「行き止まりの人生の旅」と呼応する。
旅の行き先はどこも「行き止まり」を象徴する場所。

「アメリカの中央部に残るインディアンの集落」
「アラスカのエスキモーの暮らす村」
「オーストラリアのアボリジニの聖地」・・・
どこも、後から来た人により先住民が侵され滅びた場所。

訪れたオーストラリアのアボリジニの聖地に
部族の扮装をした高橋陽平は
キャロライン・ホプキンスと出会う。

「純少女」から「苛烈すぎる女」となり、その後「堕ちた女」をやめる。
そんな女。
反捕鯨に反対する「純少女」が活動が熱を帯び「苛烈すぎる女」となり、
ボロボロの麻薬中毒の「堕ちた女」となる。

彼女は高橋陽平の「旅」に付き合い、
前世の2代目であるハインリヒ・ケプラーが死んだ収容所のあった
ナチスドイツの造った強制収容所跡を巡っている時に陽平の死に立ち会う。

キャロライン・ホプキンスは陽平の言う2周目の旅の最後の場所である広島と長崎がある日本に渡る。
そこで、高橋陽平の従弟、高橋和也を通して、
井上祐介と出会うのである。

井上祐介は10万年前の前々世であるクロマニョン人から、
そして、前世のハインリヒ・ケプラーから、
やっと「私の恋人」と遭遇することが出来るのだろうか?

以上、説明した原作の小説と
今回の演劇は話は全く異なる。
テーゼとしては固有名詞やエピソードが活かされているが、
完全に渡辺えりさんの作品として書き換えられている。

この成り立ちは何だろうと考えると、
小日向文世、のん、渡辺えりという3名の主要キャストによると思う。
この3名は誰が主役と言うことはない。
3名が出番の量も含め、等しく全員主役と言っていい。

小日向さんと渡辺さんはほぼ同年代。
劇中のセリフによると小日向さんの方が1歳上。

対してのんさんはおふたりと比べぐっと年下。
僕も知ることになった朝のテレビ小説「あまちゃん」の時は
本名である能年玲奈を芸名として名乗っていた。

ただし、現在は事務所移転等による諸事情のため、
のん、と名乗るようになる。

これは仕事と言う限定された状況下の
ひとつの「行き止まり」だろうか?
仕事の行き止まりは人生に関わる。

SMAP解散後、事務所を出たタレントたちが
お茶の間に顔を出す傾向が変わったように、
彼女の活動もテレビ以外の媒体に移る。

アニメ映画「この世界の片隅に」で主人公すずの声を担当し、
自らレーベルを発足するなど音楽活動を始め、
2021年には「Ribbon」という長編映画の脚本・監督・主演を務める。

これは「行き止まりの人生の旅」とは言えないか?

演劇の舞台に立つと言うことは
特別に職業の特殊性を訴えたいわけではないが、
身体の状況と密接に結びついている。

一旦幕が上がると、
幕が閉じるまで舞台に立つ続け、
また演技をすることが責務である。

そこに言い訳は効かず、
体調悪いだとか、気が乗らないなどは
そんなの舞台に立つ前に自分で処理してくれという話。

そこで、自ずと、年を重ねることは
舞台に立ち続けることと結びついていく。
演劇自体とは何の関係もないのだが。

無名塾の仲代達也さんが、90歳を前に主演舞台に立つことが
ニュースにもなっていた。
もちろん、これは演劇だけでなく
どの世界でも同様で、
シンガーソングライターの吉田拓郎さんは今年で音楽活動の引退を表明している。

また企業などのように定年制度があれば、続けたくても続けられないケースもある。

この舞台は30人の役を3人で演じると銘打っている。
衣装を変えず多くの役を演じるという演劇もあるが、
今回は役が変わるたびに衣装も変わる。
裏はバタバタだろうなと予測しながら観る。

これは敢えて自分たちに鞭を打っているという側面もあると思う。
そのこと自体は観客に何の関係もないが、
観客が、すごい、勇気もらった、などと感じるのは自由だ。

これも「行き止まりの人生の旅」と言えないか?
明確に、老いの先には死がある。

渡辺えりさんの脚本では
高橋陽平は余命3か月で入院中。
小説の37歳とは異なり、
ある程度の年齢まで生きた人物に思われる。
本人が旅に出るのではない。
ある種白昼夢として語られる。

行き止まりの場所は
小説に出てくるアボリジニの聖地、ナチスの強制収容所の他にも及ぶ。

東北にある井上ユウスケの実家である時計屋。
過去にさかのぼる。
これは東北生まれである渡辺さん自身の心象風景が投影されているのであろうか。
そして2011年の東北大震災。

白昼夢の「行き止まりの人生の旅」
そして「行き止まりの人類の旅」を
俳優たちは衣装を変え、演じ、歌い、時には踊る。

ふと思ったが、
どこに居ようとも
常に「行き止まりの旅」をしているのではないか。
そして、それならばなるべく楽しく旅をしよう。
たとえ本当の行き止まりが迫っていようとも。

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