シネマe~raで「気狂いピエロ」を観た

カテゴリー │映画

7月9日(土)15時40分~

フランス人の映画監督ジャン=リュック・ゴダール、
28歳の作品「勝手にしやがれ(1960年公開)」と35歳の作品「気狂いピエロ(1965年公開)」が
1週間づつ続いて上映された。

東京での学生時代、二本立てで観ている。
ノートに日付けとタイトルだけが記されている。

2月3日 「気狂いピエロ」「勝手にしやがれ」
2月6日 「ブロンテ姉妹」「赤ちゃんに乾杯!」「パパは出張中!」「パリ・テキサス」
2月8日 「去年マリエンバードで」「8 1/2」
2月9日 「荒野の決闘」「怒りのぶどう」
2月11日 「ファニーとアレクサンデル」
2月13日 「処女の泉」「自転車泥棒」「イージー・ライダー」「ベニスに死す」
2月17日 「大いなる幻影」
2月18日 「そして船は行く」「アマコルド」「ジンジャーとフレッド」
2月20日 「アメリカの友人」「ブルー・ベルベット」

この後、浜松にUターンし、3月後半からは就職先へ勤めることが決まっている。
今はない情報誌ぴあを手に、古典・新作問わず観たのだろう。
どこか意地になって。
あらためてラインアップをながめてみたが、内容を忘れた映画も多い。

2本立ては普通にあり、3本立て、4本立てもあった。
今とは映画館など映画産業の商売事情も違うのだろう。
イングマール・ベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」って長かったよなあと思い出し、
調べたら311分。何と5時間以上。
内容はもちろん覚えていない。
観なおすこと、あるかなあ?

「気狂いピエロ」と「勝手にしやがれ」はその後、レンタルでも
「内容忘れたからもう1回みてみようかあ」という気持ちで借りた。

今回もそんな感じ。
「内容忘れたからもう1回みてみようかあ」
ただ、映画館で観ることはテレビ画面とは違う。

どちらも観ようかなと思っていたのだけれど、
先に上映された「勝手にしやがれ」は観なかった。
その翌週「気狂いピエロ」のみ観た。
(こういうことはよくある)

僕は現在91歳のゴダールの新作を追いかけているわけでも、
さかのぼって過去作品を観たわけでもない。
年齢を重ねていくゴダールの新作を浜松での公開時、何本か観たくらいだ。
この映画館で。

それらゴダールの作品を観るといつも思うのは
「本を読んでいるみたい」。

原語を聞き取る能力はないので、
日本語字幕を読む。

それがまるで、
哲学書かセンテンスの長い詩を読んでいる感覚なのだ。
意味を理解しようとしてるうちに
シーンは変わっていき、言葉は置いてきぼりになる。
結局は文字情報は大体で理解することと諦め、
映像を追うことを優先する。

だから観た後は、
よくわからない不思議な夢のような映画を見たという気分になる。

そのわからない部分は放っておく。
「ゴダールを観た」という感覚のみ残り、
生活の中で、内容はすぐに忘れていく。

「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」を観ることは
ヌーヴェル・バーグの代表的作品という肩書と共に
映画監督ゴダールを象徴する作品として、立ち返るにはふさわしいかもしれない。
言葉の引用が年齢を経ての作品より、端的である気がする。

ただ、観た後、やはりわからないことが多かったので、
DVDをレンタルして観なおした。

ゴダールは作家になりたかったと言う。
ただし、その能力がないので、
映画を撮ることにしたという。

それだけではないと思う。
詩人にもなりたかったのかもしれない。
また、画家、漫画家、デザイナー、音楽家、演出家になりたかった・・・。

こういうこともあると思う。
例えば「映画が好きなので映画監督になりたい!」と
目標に一直線に進むのではなく、
「本当は詩人になりたいんだけど、
アルチュール・ランボーには敵いそうもないから、
自分は彼の作品も使うことが出来る映画監督やろうか」。

だからゴダールの映画の目的はストーリーを進めることではない。
映画と言う媒体を使って、
やりたいと思うあらゆる要素を詰め込む。

それは自分のオリジナルであることにこだわらない。
既成の詩や絵や漫画や音楽であっても全然かまわない。
面白いと思うものを取り込むことに何の遠慮もない。

映画の既成概念にもこだわらない。
だから、映画の調子が場面によりガラッと変わる。

時にはホームドラマであり、
現代批評を含んだ風刺劇であり、
不倫/恋愛劇、ノワール/犯罪サスペンス、冒険活劇、政治劇、
詩劇、ミュージカル、ロードムービー、道化芝居、街頭即興劇、舞台劇・・・。
そしてもうひとつ加えたいのがプライベート劇。
ゴダールはこの作品の発表同年、妻であり主演女優のアンナ・カリーナと別れている。

フェルディナンを演じる主人公ジャン=ポール・ベルモンドと
マリアンヌ演じるアンナ・カリーナは
そのめくるめく変化の中で、
過去は次々と捨て去っていく。
例えば子供、妻、友人、家、
移動の最中も金や車や服やペットなど持ってきたものだけでなく
手に入れたものも躊躇なく手放す。
消耗品であるかのように。
心の内はわからない。

フェルディナンはゴダール自身の願望と重なるように、「本と書くこと」は手放さない。
そして、マリアンヌ。

唯一全体を通して変わらないのは
フェルディナンとマリアンヌの二人を中心とした映画であるということ。
フェルディナンがマリアンヌを失う時、
当然、フェルディナンは自らの存在理由を失い、映画は
「永遠が見つかった。海と・・・そして太陽」というランボーの詩で幕を閉じる。
フェルディナンはいなくなるが、ゴダールは次の映画を撮る。

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