静岡芸術劇場でSPAC「しんしゃく源氏物語」を観た

カテゴリー │演劇

1月27日(土)19時~
2010年に男性キャストばかりの「しんしゃく源氏物語」を観た。
今回は女性キャストばかりの上演。
SPACではどちらも複数回再演されている。

榊原政常さんという高校教師が64年前の1954年に
女子高校生のために書いた作品だそうだ。

源氏物語は54帖(巻)あるが
そのうち第6帖の末摘花(すえつむのはな)を元にしている。
"しんしゃく"ということなので、
紫式部の書いた末摘花とは内容が異なる。

先ず、光源氏が舞台上に登場しない。
名があるお姫様であるが、
父の死をきっかけに落ちぶれ、
家も着るものもボロボロ、
食事も粗末なものしか食べることができない。
侍女たちはいつ逃げ出そうか考えている。

そんな中、末摘花はひたすら健気に
光源氏がもう一度戻ってくるのを待ち続けている。

女性が一人の男性を待ち続ける話は
価値観としてはきっと古い。
数々の女性と浮名を流す光源氏に目をかけられるのをひたすら待つ。
それが女性たちの夢であり、家の再興も光源氏の訪問にかかっている。
待つしかない女性たちは、
光源氏が待てど暮らせど現れないため、
自分たちで内輪もめ。
光源氏、いい気なもんだ。

1960年代後半から1970年代初頭のウーマンリブ運動、
1986年施行の男女雇用機会均等法、
という例を出すまでもなく、
男女の意識は時代とともに変わっている。

学校も男子校、女子校と性別により分けられていたのが、
男子校は女子を受け入れ、
女子校は男子を受け入れ、
どんどん共学校に変わってきている。

そんな時代になぜ女がひたすら男を待ち続ける話?
男性依存も甚だしい。
俺にはそんな甲斐性もないし。

観ながらも、そのギャップは埋まらないが、
舞台は平安時代、
その価値観の方がリアルだ。
しんしゃく源氏物語として書かれた1954年もリアルだったのだろう。

男性キャスト版を観た時は、
女性役を男性が演じることで、
価値観のうまいひっくり返しが行われ、
男性を待ち続ける女性という構造が相対化された。

但し、女性が演じる女性役というのは、
役者が生きる時代は違うが、
構造としてはそのまんまであり、
役者にとってむしろ演じにくさがあるだろう。

だからこそきちんと演じ切れば、
「しんしゃく源氏物語」が書かれた1954年も
「源氏物語」が書かれた平安時代も乗り越え、
今とも呼応する普遍の物語として
力強く舞台に立ちあがってくるのだろう。

静岡芸術劇場でSPAC「しんしゃく源氏物語」を観た



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