シネマe~raで「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ・カンザス・イヴニング・サン別冊」を観た

カテゴリー │映画

3月26日(土)11時50分~

タイトルの「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ・カンザス・イヴニング・サン別冊」は
アメリカ・カンザスで発行されている、ジャーナリストが独自の記事を投稿する雑誌「ザ・リバティ・カンザス・イヴニング・サン」の別冊紙がフランスで発行されていて、その編集部のことを描くという、元々屈折した設定であることを表している。

この映画は一筋縄ではいかないよ、と見えない観客に対し、宣言しているようなものだ。

僕はなぜか、先ずこういう場合、どこか警戒する。
簡単にその手に乗りたくないのだ。
作り手がほくそ笑む自信満々の策略に騙されたくないのだ。

でもここですでに罠にかかっている。
関心がまったくないのなら、見て見ぬふりをして、いや完全に無視して通りすぎればいいのだ。

ただし、そうはいかなくて、結果、手前で逡巡する。
すでに観ている専門家やレビュアーの声をちらりとのぞいたりする。

そうやって僕はウイルスから身を守る免疫を作るように耐性を整える。
観るに十分な自分を作り上げるために。

こうして面倒な作業を経過して、足を運ぶのであるが、
事前にあれこれ考えるのも映画を観る行為のひとつであることは自覚している。
学校の修学旅行で、事前に旅行地のことを調べてみたり、
旅行後に、感想などの文章提出を求められたり。

雑誌社の編集長が亡くなることで、廃刊されることになり、
最後の1冊を作るという前提で映画は始まる。
その最後の雑誌の内容、そのままが、映画となる。

この架空の雑誌は、アメリカの雑誌「ニューヨーカー」がモデルと言うことだ。
雑誌が何から構成されているかと言うと、
読者がまず目にする表紙デザインだったり、
さまざまなジャンルの記事があり、
それぞれの記事を書くライターがいる。
そしてそれらをまとめる編集長を筆頭にした編集部と
仕事場である編集室。
デザインもさまざま。
記事の長さもさまざま。
文字だけでなく、写真、イラスト、漫画などであふれている。

雑誌読む人読まない人がいると思うが、
好きな雑誌というのは、読みたい記事が載っているというのが条件だろうが、
読みたい記事があふれている様子というのは重要だと思う。
この記事も載ってる、
あの記事も載ってる、
いやあれも、いやこれも・・・。

その様子が、映画にもあふれている。
だから情報は過剰だ。
カラーとモノクロを行き来したり、
映画自体の画角も意識的に変える。
人が頻繁に行き来し、場所も変わる。

日本語字幕100%で言葉を理解する僕は、
今さらながら英語やフランス語を聞き取れない理解力を恨む。
モノローグで説明言葉が発せられながら、登場人物もしゃべり、
まるで雑誌の1ページのように「文字」が映し出されると、その上に字幕も読まなければならないとなると、
完全にオーバーフローとなる。

そこでどれかを諦めることにする。
それは、元来、制作者は想定していない
「字幕」を読むことだ。
これが本来の洋画を観るということだと気が付く。
ただし、理解できない内容も多い。

映画で展開される最後の雑誌の記事には、それぞれタイトルがついている。

「自転車レポーター」
編集部がある架空の町(アンニュイ―=シュール=ブラゼ)の過去と現在を巡るレポート。

「確固たる名作」
収監されている天才画家が画商に見いだされる美術記事。

「宣言書の改定」
学生運動のリーダーと女子学生との恋にまつわる政治記事。

「警察署長の食事室」
グルメな警察署長とお抱えシェフになつわるグルメ記事。

そして、編集長の遺体が安置された編集室で、編集部は解散し、映画は終わる。

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