2023年12月29日19:48
浜北文化センターで、といしば企画「ファニー・マネー」を観た≫
カテゴリー │演劇
12月24日(日)11時~
この日は、夜、シネマイーラでフランソワ・オゾン監督のフランス映画「私がやりました」も観たが、
「ファニー・マネー」と共通点を感じた。
どちらも構成や登場人物のセリフなどよく練られた脚本を特徴とする。
ウェルメイドな作品と言えようか。
そして、映画館で観る映画も、主に浜松周辺で観る演劇も、
こういう作品をあまり観る機会がないなあ、と気付く。
もちろん、これは僕の嗜好が大きいのかもしれない。
「楽しみ」を求めてと言うより、
なぜこれを観るのか等、理由を考え、
それに添って優先順位を設け(距離とか時間とか費用とかの問題は大きい)、
その時の自分の都合に合わせ、鑑賞作品を決めて行く。
これは論理的とも言えるけど、自分としては感覚で行動しているつもり。
チケットを取得するのが遅くなるので、
完売で、観れない場合もある。
それはそれで仕方がないと覚悟を決めているつもりだが、
逆に鑑賞欲に火がつき、リセールサイトを探してみたりすることもある。(アホか)
ウェルメイドを調べてみたら、ウェルメイドプレーという演劇形態があり、
19世紀のフランスで確立し、
<緊密な構成をもち、人物の個性よりも巧みに組み立てられた状況によってプロットが進行する戯曲を指す>とある。
不勉強な僕には、ウェルメイドと言うと、
アメリカのニール・サイモン、日本なら三谷幸喜、映画ならビリー・ワイルダーくらいしか思いつかない。
(しかも彼らがウェルメイドを代表しているのかどうかもよくわからない)
今回はイギリスのレイ・クーニーの戯曲だという。
(作品名を聞くと、ああとも思うが、僕は観たことがなかったし、作家名も知らなかった)
2019年の秋から冬、東京では、
加藤健一事務所「パパ、I LOVE YOU」、
ファルスシアター「コウト・イン・ザ・ネット」、
ABsun「ランドーユアワイフ」&「コートインザネット」
ラフィングライブ「Out of Order」と、
笑劇王レイ・クー二ー傑作4本が祭りの様相を呈し、上演されると紹介されている。
といしば企画の企画者である石牧孟さんが、いつかどこかの過程で、
レイ・クーニーの上演作品と出会い、時を経て、
ここ浜松での上演に至ったのではないか。
そんな想像が成り立つ。
これは間違っているかもしれないが、
「行動には動機がある」とすれば、
上演には何らかの理由、きっかけがある。
「レディース・アンド・ジェントルマン~」とでも紹介したいような
幕がカラフルな照明で彩られるオープニングの後、
幕が開くと、見事な舞台セットがど~んと姿を見せる。
舞台空間をどのように舞台美術で埋めるかは、
それぞれやり方がある。
何も置かずにただの空間として生かす方法もあるが、
観客が観る範囲を、セットで埋めてしまうことは、
舞台の世界に没入してもらうには有効だ。
観客にとっても安心感があるが、
俳優によってはもっとその恩恵を得る事だろう。
安心して演技ができる。
もちろんこれは、ちゃんとした演技をしなければばらない、というプレッシャーとも対で、
本人がどんな思いでいるかはわからない。
上手側(観客から見て右側)にドアがひとつ、下手側にドアがふたつ、
正面からも階段を上がり、奥から下手に抜けることが出来る。
そのドアをジーン役の藤森杏菜さんが出たり入ったりして、
登場人物の出入りがとても重要な芝居が始まると予感する。
明らかに洋風なリビングに長いソファーがひとつ。
電話機があり、奥には酒が置かれたダイニング。
それぞれ、物語に重要なアイテムだ。
ジーンの夫ヘンリーが地下鉄で大金が入ったアタッシュケースを持ち帰ったことから始まる顛末。
やはりいろいろな登場人物が出入りし、こんがらがる。
ここに演劇を観ることへのテーマ性を求めると、
鑑賞する選択をしないかもしれない。
でも、そこに何があるかというと、人間がいるだけ。
自分勝手で、お金大好き欲深で、嫉妬深く、小さなことで悩み、弱い、
イギリス人も日本人も他の国の人も変わらない、
僕たちなのだ。
そのような人間性をあらわすのに仕組まれた戯曲は巧妙で、
どの登場人物もおおむね饒舌。
一方俳優はそこから逃げることが出来ない。
人種や演劇経験を問わず、ヘンリーやジーンと言う横文字の役を演じなければならない。
ただし、これらを突破するのは、
正攻法が常套手段で、
真っ正直やチーム一丸と言う言葉が似あう。
何より、俳優が楽しんで演じる事。
まるで、昨今の野球やサッカーやバスケの世界大会などで、
今年よく聞いた言葉のような気がするが、
収縮感を感じさせる日常をはじめ世界状況を考えると、
いまどきの必要なやり方なのかもしれない。
(もちろん世界大会の裏には、競争と努力と能力と周到な策略が不可欠)
ラストは落ちるところに落ちる。
まさしく、幕がきれいに閉じる。
楽しいことも悲しいことも幕が閉じる。
僕たちの日常は大丈夫。
そんな体験も大切だ。
この日は、夜、シネマイーラでフランソワ・オゾン監督のフランス映画「私がやりました」も観たが、
「ファニー・マネー」と共通点を感じた。
どちらも構成や登場人物のセリフなどよく練られた脚本を特徴とする。
ウェルメイドな作品と言えようか。
そして、映画館で観る映画も、主に浜松周辺で観る演劇も、
こういう作品をあまり観る機会がないなあ、と気付く。
もちろん、これは僕の嗜好が大きいのかもしれない。
「楽しみ」を求めてと言うより、
なぜこれを観るのか等、理由を考え、
それに添って優先順位を設け(距離とか時間とか費用とかの問題は大きい)、
その時の自分の都合に合わせ、鑑賞作品を決めて行く。
これは論理的とも言えるけど、自分としては感覚で行動しているつもり。
チケットを取得するのが遅くなるので、
完売で、観れない場合もある。
それはそれで仕方がないと覚悟を決めているつもりだが、
逆に鑑賞欲に火がつき、リセールサイトを探してみたりすることもある。(アホか)
ウェルメイドを調べてみたら、ウェルメイドプレーという演劇形態があり、
19世紀のフランスで確立し、
<緊密な構成をもち、人物の個性よりも巧みに組み立てられた状況によってプロットが進行する戯曲を指す>とある。
不勉強な僕には、ウェルメイドと言うと、
アメリカのニール・サイモン、日本なら三谷幸喜、映画ならビリー・ワイルダーくらいしか思いつかない。
(しかも彼らがウェルメイドを代表しているのかどうかもよくわからない)
今回はイギリスのレイ・クーニーの戯曲だという。
(作品名を聞くと、ああとも思うが、僕は観たことがなかったし、作家名も知らなかった)
2019年の秋から冬、東京では、
加藤健一事務所「パパ、I LOVE YOU」、
ファルスシアター「コウト・イン・ザ・ネット」、
ABsun「ランドーユアワイフ」&「コートインザネット」
ラフィングライブ「Out of Order」と、
笑劇王レイ・クー二ー傑作4本が祭りの様相を呈し、上演されると紹介されている。
といしば企画の企画者である石牧孟さんが、いつかどこかの過程で、
レイ・クーニーの上演作品と出会い、時を経て、
ここ浜松での上演に至ったのではないか。
そんな想像が成り立つ。
これは間違っているかもしれないが、
「行動には動機がある」とすれば、
上演には何らかの理由、きっかけがある。
「レディース・アンド・ジェントルマン~」とでも紹介したいような
幕がカラフルな照明で彩られるオープニングの後、
幕が開くと、見事な舞台セットがど~んと姿を見せる。
舞台空間をどのように舞台美術で埋めるかは、
それぞれやり方がある。
何も置かずにただの空間として生かす方法もあるが、
観客が観る範囲を、セットで埋めてしまうことは、
舞台の世界に没入してもらうには有効だ。
観客にとっても安心感があるが、
俳優によってはもっとその恩恵を得る事だろう。
安心して演技ができる。
もちろんこれは、ちゃんとした演技をしなければばらない、というプレッシャーとも対で、
本人がどんな思いでいるかはわからない。
上手側(観客から見て右側)にドアがひとつ、下手側にドアがふたつ、
正面からも階段を上がり、奥から下手に抜けることが出来る。
そのドアをジーン役の藤森杏菜さんが出たり入ったりして、
登場人物の出入りがとても重要な芝居が始まると予感する。
明らかに洋風なリビングに長いソファーがひとつ。
電話機があり、奥には酒が置かれたダイニング。
それぞれ、物語に重要なアイテムだ。
ジーンの夫ヘンリーが地下鉄で大金が入ったアタッシュケースを持ち帰ったことから始まる顛末。
やはりいろいろな登場人物が出入りし、こんがらがる。
ここに演劇を観ることへのテーマ性を求めると、
鑑賞する選択をしないかもしれない。
でも、そこに何があるかというと、人間がいるだけ。
自分勝手で、お金大好き欲深で、嫉妬深く、小さなことで悩み、弱い、
イギリス人も日本人も他の国の人も変わらない、
僕たちなのだ。
そのような人間性をあらわすのに仕組まれた戯曲は巧妙で、
どの登場人物もおおむね饒舌。
一方俳優はそこから逃げることが出来ない。
人種や演劇経験を問わず、ヘンリーやジーンと言う横文字の役を演じなければならない。
ただし、これらを突破するのは、
正攻法が常套手段で、
真っ正直やチーム一丸と言う言葉が似あう。
何より、俳優が楽しんで演じる事。
まるで、昨今の野球やサッカーやバスケの世界大会などで、
今年よく聞いた言葉のような気がするが、
収縮感を感じさせる日常をはじめ世界状況を考えると、
いまどきの必要なやり方なのかもしれない。
(もちろん世界大会の裏には、競争と努力と能力と周到な策略が不可欠)
ラストは落ちるところに落ちる。
まさしく、幕がきれいに閉じる。
楽しいことも悲しいことも幕が閉じる。
僕たちの日常は大丈夫。
そんな体験も大切だ。